第二章②
退学の手続きの一切は父が進めてくれた。だから俺が退学に関して特別にやったことは本当に一つもなかった。俺が教室に置いたままにしていた荷物は後日大き目の段ボール一箱に律儀に纏められ届けられた。俺は段ボールを開けて教科書とノートの類を紐できちんと縛り、体操着やタオルや上履きは躊躇うことなくゴミ袋に放り込んだ。そして俺は翌日の朝六時に道路を挟んで家の向かいにあるゴミの収集所にそれらを運び入れ、丁寧にネットを掛けた。きちんとそれらが回収される瞬間を見届けるために俺は錦景市の朝の九時からベランダに出てキャンプ用の椅子に腰かけてコーラを飲みながら待った。俺は心配していたのだ。もしかしたらゴミ収集車は俺のゴミを回収してくれないかもしれない。今日は何か事情があって俺のゴミを回収することをしないかもしれない。積載量がオーバして、俺のゴミだけ回収してくれないことだってあるかもしれない。一度にこれだけ沢山の量のゴミを出しておいて、一言もなしに俺たちが快く物分かりのいい七人の小人たちみたいにあっさりと持っていくと思うか? そんなことをゴミ収集員のおじさんたちに言われる可能性まで俺は考えていたのだ。それほどまでに際限なく心配を膨らませていたのはゴミを絶対にそこに残されたくなかったからだ。今日、そこにゴミを残されてしまえば次の普通ゴミの日まで三日もある。三日も待てるわけがない、と俺は確信的に思った。俺は三日間も学校に関係するゴミについて考えていたくはなかった。それは速やかに一刻も早く片付けられるべきものたちだった。回収されて、すぐに燃やされなければいけないものたちだった。俺は漏れなく一切を片付けなくてはならない。学校のゴミごときに躓いている余裕もなければそんな場合でもないのだ。
もちろん俺の心配を余所に、ゴミ収集車は錦景市の十時二十分に律儀に表れ、ゴミ収集員のおじさんが一人助手席から降りてきて手際よく山のように積まれたゴミたちを余すことなくそのために特別に作られた荷台に放り込んでいった。その作業が終わるとおじさんはフットワーク軽く助手席に跳び込むように戻る。ゴミ収集車は次のゴミ収集場所に向かうために急発進をする。そして彼らとその特殊な荷台を持つ車は、俺がベランダからずっと見届けていたことを知らない。想像すらもしていない。
それはあっさりと終わった。同時にやはり、手応えなんてものもなかった。疑わしさもあった。俺は自分でゴミに火を放ったわけではない。それが灰になる一部始終を見届けたわけじゃない。俺はゴミをゴミ収集所に運んだだけで、それが市の焼却施設までに運ばれて燃やされる過程の一部始終を見届けたわけじゃない。疑わしい。本当にゴミは燃やされるのだろうか? 燃やされずに戻ってきたりはしないだろうか? 明日になってまたそれらが律儀に大きめの段ボール一箱に纏められて届けられたりはしないだろうか? そして俺は本当にゴミ収集所までゴミを運んだのだろうか?
疑わしい。
俺はベランダから自室に戻り、注意深く見回してからそこでほっと安堵の息を漏らす。
少なくとも俺は確かにゴミをあの場所まで運んだのだ。
これで学校に関係することはひとまず片付けることが出来た。
疑わしさも残るが、俺は首を振ってその疑わしさを振り払おうとする。
「疑い過ぎだ」俺はおれに言い聞かせる。
疑い過ぎだ、おれは俺に言い聞かせる。しかし慎重さを失ってはならない。注意深く漏れなく俺は片付けなくてはいけないんだからね。それじゃあ、次に進もう。
「次に進もう」
俺は声に出して言って押し入れの前に立つ。貼りっぱなしになっていたG県全域地図と若かりし頃のイザベル・アジャーニのポスタと映画やCDの告知チラシの類は、まず押し入れの片付けをしようと決めた日曜日の夜に全て綺麗に剥がしてしまっていた。セロハンテープの跡も雑巾を熱湯に浸して絞って痕跡なく綺麗に拭き取った。けれど、押し入れの片付けに関してはまだそこまでしか進んでいなかった。中身の方については全く手付かずだった。まず押し入れの片付けをしようと決めたのにも関わらず、俺は先に机の上を整理しピカピカに磨き上げ、引き出しの中の不要なものを処分した。そして再び押し入れの前に立った。しかし俺は誰に言い訳するでもなく「まだ早い」と声に出し押し入れから離れた。そしてベッドの下の掃除に取り掛る。今まで掃除をサボっていたせいで沢山の埃が溜っている。ベッドの下をピカピカにするためにはおそらく相当な時間がかかるだろう。布団も干さなくてはいけない。なんだったら洗わなくていけないと思う。
まだ早い?
おれは苛立ちを必死に押さえながらどこまでも静かに疑問する。
まだ早い?
それはどういった意味で早いんだい?
早ければ早いに越したことはないのにどうして先延ばしにしようとしているんだい?
おれには訳が分からない。
理解不能意味不明。
「そうじゃない、」俺は誰に言い訳するでもなく首を振りながら声に出す。まるでゴミのように不要なものを丁寧に積み上げているみたいにしっかりと確実に声を出す。「先延ばしにしようなんてしていない、まず押し入れを片付けるためにまず部屋の方から片付けなくちゃならない、押し入れには沢山のものが滅茶苦茶に詰め込まれているんだ、俺は今までずっといらなくなった余計なものをほとんど何も考えなしに押し入れに詰め込んで来た、押し入れの中が滅茶苦茶になっていることを知りながらそれをどうにか片付けようなんて思ったことは一度もなかった、どうやら押し入れの中はまずいことになっているようだぞ、と多少の罪悪感のようなものを感じないわけではなかったけれど、いずれ片付ける時に片付けるだろうと思っていた、責任を未来に押し付けていたんだ、そして今が責任を引き受けるべきときなんだと思う、どこかへ行くことになるかもしれないそのときのために、俺は俺に関係するあらゆることについて注意深く漏れなく片付けなくてはならない、押し入れはもちろん避けては通れない場所だ、そして何にも増してそこなんだという気がしている、滅茶苦茶になった押し入れを片付けなくっちゃ状況的に混迷している俺はどうしようもないんだという気がしているんだ、もちろん俺は押し入れを片付ける、しかしその前には部屋をすっかり片付けておかなくちゃいけない、何事にも順序がある、部屋というものは言わば押し入れの入り口に当たる部分だ、その部屋が滅茶苦茶に散らかっているなんて入口が塞がれているも同然だ、入口が塞がれている状態でその入口の先をどうにかしようなんて理屈が間違っているじゃないか」
入口は塞がれてなんていないし、この部屋は最初からそれほど滅茶苦茶じゃなかった。
そして押し入れの扉は開けてもらうのを待つようにすっかり俺に綺麗に拭き上げられている。
その理屈は現実に合わない。
「現実的に言えば、押し入れの中の滅茶苦茶なものを外へ出していくときスペースが必要になってくるじゃないか、部屋が滅茶苦茶だったら押し入れのものと相まって大変なことになる、混迷がより深く混迷する」
最初から俺の部屋はそれほど無茶苦茶じゃなかった。混迷がより深く混迷する可能性は低かった。言ってしまえば俺は部屋を片付けているんじゃない。部屋を磨け上げているんだ。それはダイアモンドに柔らかい布を当てる様に最終工程のさらに後の作業なんだ。今俺がしなければならないのは手元のダイアモンドに柔らかい布を当てるのではなく、まだ輝きを内に秘めたダイアモンドの原石にカットを施すことなんだ。
俺は黙り込む。
まあ、いいだろう。
俺は呆れられている。
しかし一つだけ忠告させてくれ。
「何だ?」
滅茶苦茶なものを部屋に広げてしまえば、せっかく掃除した床も少なからず汚れてしまうんじゃないかな?
「正論だ」
俺は現実的に頷き、超現実的に部屋のフローリングにワックスを掛けようかと悩み始めた。
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