第二章 超現実主義者の兆し(TV JUNKEE)

第二章①

 俺が学校を辞めることをはっきりと決めてそれを告げた時、両親はそれに反対することもなく、少し心配そうな顔をしながらも、簡単にそのことを許してくれた。そして次の瞬間には学校なんて辞めることが正しいと言わんばかりに俺のことを適当な言葉で励まし適当な言葉で応援した。その言葉たちは覚えていられないくらいの適当さ加減だった。だから俺はそのときにどんな言葉で励まされてどんな言葉で応援されたか忘れてしまった。しかし両親に適当な言葉で励まされ応援されたことは、間違いなく覚えている。


 その時に抱いた、酷く惨めで、酷くやるせない気持ちと一緒に。


 思えば俺の両親は昔から、俺が決めたことに対して強く反対したり、それは間違っていると言って怒ることはなかった。軽く助言をすることはあったけれど、俺の決断の方向性を大幅に変える様に迫って来ることは一度としてなかったと思う。よく言えば俺の意見を尊重してくれる器の広い大人たち。悪く言えば息子の未来に責任を持つことに恐れのようなものを抱いている弱い大人たち。俺はそんな両親たちに今まで不満というものを持ったことはなかったが、俺は子供を抑圧することがない人たちのもとに産まれてよかったとは思う、しかしこのときばかりは「おいおい」と首を捻ってオーバに両腕を広げたくなるほどの彼らに対する疑わしさが体中を駆け巡った。


 おいおい、大丈夫か?


 あんたたちの息子は明日から高校を辞めるって言っているんだぜ。


 常識的に考えて、声を張り上げて、あるいは拳を硬く握り締めて殴るとかして、あるいは咽び泣くとかして、息子の決断を否定するべきじゃないのかい?


 この莫迦息子!


 俺はそう言われる準備をしていたんだ。俺はそう言われる覚悟を付けて来たんだ。東雲ユミコに振られた次の日の月曜日に学校を休んでから一週間の間ずっと俺は、酷く物分かりがよくてどこまでも優しい一般的に理想的なパパとママに全てを否定されてもいいように準備をしていたんだ。そして俺はその否定を覆すために強い意志をさらに固めて二人に衝突させるつもりでいた。俺は彫刻家のように漠然としていた学校を辞めたくなった理由に、確かな形を与え細部にまで渡り精巧な表情を作り上げていった。俺自身さえもその理由が本当の理由であると錯覚するほどに。


 しかしそんなことを考える必要はなかった。


 結局、俺の両親は酷く物分かりがよくてどこまでも優しく、息子が学校を辞めることくらいどうってことないと笑っていられる、変わった人たちだったのだ。


 俺が想像していた以上に、常識から逸脱した人たち。


 父は楢崎市に本社を構えるパイザ・インダストリィに勤務するプラントエンジニア。


 母は掃除と洗濯と料理が生きがいのミステリィ小説マニア。


 そして息子はあっさりと一年と少し通った高校を辞めてしまう。


 そしてそんな人たちは俺が中央高校に合格したときと同じような顔をして、同じように寿司屋に行こうと提案したのだ。その日曜日の夜のうちに一つ下の妹のエリも連れだって宮沢家は父の白いクロスオーバ・セブンに乗って寿司屋に出かけた。


 肝心なものから目を背けるように、どこか急ぐようにして。


 俺には高校を辞めようとする息子のためにまるで祝い事にように寿司屋を目指した両親の気持ちが俺には露ほども分からなかった。けれど寿司はきちんと食べた。そのときの俺は凄くお腹を空かせていたのだ。学校を辞めるという決意を両親に告げるために俺は物凄くお腹を空かせなければならなかったのだ。そして隣ではエリもとても幸せそうに寿司を頬張っていた。エリは華奢だが、元男子高校生の俺よりもよく食べた。そんなエリも俺が学校を辞めることについて驚いたり、困惑したりすることもなく、両親と同じような反応を見せた。そしてなぜかエリは、どこか喜んでいるようでもあった。エリは寿司を沢山食べて幸せそうに、どこまでも優しく微笑みながら、途方に暮れて混乱しそうになっている俺の顔をまっすぐに見つめて言った。「別に兄さんがどこかに行ってしまうわけじゃないんですから、私は気にしませんよぉ」


 確かに俺はこのときどこかに行ってしまうような大掛かりな予定はなかった。しかしどこかに行ってしまうような予兆を俺が感じていたのも事実だったのだ。学校を辞めたようにあっさりと、俺はどこかにあっさりと行ってしまうのかもしれない。そんな予兆は急に沸いて来たようでもあったし、先天的に与えられたもののような気もしていた。穏やかな顔で俺の恋を破壊して、学校を辞めるという決断を促したのは確かにユミコだが、倒れた先の方にあるらしいどこかはずっと前から存在していたもののように思えた。そのどこかとは俺にとっての楽園のような場所で、俺が永久的にいるべき場所のような気がした。要するにユミコは、俺にそっちに行くようにと、俺の恋を日曜日に破壊して、俺が進むべき方向に導いてくれたのだ。


「ケンジ君、あなたが進むべき方向はこっちじゃないの、あっちなのよ」と耳の奥でユミコが言う。


 そして彼女の細くて長くて幻想的なまでに白い指先があっちへまっすぐに伸びる。


 多分、そうだ。


 きっとそうだ。


 ユミコは俺を導いてくれた。


 ユミコの言う通り、俺は彼女が指し示すあっちに向かうべきなのだ。


 目的地はあっちにある。


 俺は今すぐに立ち上がり走り出さなくてはいけない。


 時間切れになって後悔する前に辿り着かなければいけないのだ。


「……莫迦莫迦しい」


 そこまで考えて俺は声を吐き出し自分の想像を唾棄する。


 そして酷く現実的になる。


 現実的になろうとする。


 俺はユミコにただ振られたのだ。


 そして何もかもに嫌になった。


 ただそれだけなんだって。


 いずれにしても俺は何もかもがあっさり行き過ぎていることに途方に暮れて混乱していた。ユミコにあっさりと振られてから、そこから進みゆく現実に俺は手ごたえのようなものを感じることが出来なかった。食事を終える度に俺は何かを食べたのだろうかと疑う。声を発する度に俺は果たしてそんなことを考えていたのだろうかと疑う。目が覚める度に俺は本当にここが現実なのかを疑う。


 俺は大きく溜息を吐く。


 その溜息すらも俺には疑わしい。


 俺はナニモノなんだ?


 俺の名前は宮沢ケンジ。


 しかしどうして俺が宮沢ケンジであって、宮沢賢治でないと言い切れる?


 俺は宮沢賢治なのかもしれないじゃないか。


 今までどこまでも遠くに追いやっていたものが実は俺の本質なんじゃないか?


 本質だからこそ、俺は離れようとしていたのかもしれないじゃないか。


 俺には何も言えない。そして状況的には混迷を大いに引き受けている。


「ふーっ、」と俺は再度、疑わしき溜息を吐く。そして「どこかに行くにせよ、」と宮沢賢治らしき少年が言う。「どこかに行くにせよだ」


 どこかに行くにせよ、それ相応の整理のようなものがおれには必要なのだ。まず何よりも第一に、片付けることから始めなくてはならない。おれはおれに関係する一切を片付けなくてはならない。それからだ。それからおれはどこかへと向かう。誰かに誘われるかもしれないし、おれの意志がどこかを強く求めるかもしれない。はたまた目が覚めたらおれはどこかにいるのかもしれない。様々なことが考える。とにかくおれは漏れなく一切を片付けなくてはならない。まずは、そうだな、押し入れの整理から始めようか。


 自室の押し入れは迷路をそこに無理矢理ぶち込んだみたいに滅茶苦茶だった。


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