第一章⑤

 私はいつまでもアマノ・カフェで相棒のマホコとおしゃべりしていたかった。こんな風にきちんとすべき時の流れからはずされたような時間の中でマホコと言葉を交わし合うことで、心が充填されていくような気分を私は味わうことが出来た。実際的に私の心は充填されているのだと思う。空っぽで冷たい魔法瓶に熱いホットココアがゆっくりと注ぎ込まれるように、私の心は温かいものに徐々に満たされ体も熱を帯びていく。そして私はしばらくの間、そのぬくもりでやり過ごすことになる。私はそのぬくもりを大事に消費しながら、時に乱費しながら、生活していく。もちろんいずれ満ちていた温かいものはまた空っぽになる。空っぽになると私の頭の中ではブラーのSong2が突然響いたりして異常を知らせる。そして私はあるべき時間から逸脱して、私の空っぽになった心に温かいものを注ぎ入れてくれる誰かを強く求め始める。その誰かとは、もちろん誰でもいいわけじゃない。私によって選ばれた誰かでなければならない。私によって選ばれるための条件を持っている誰かでなくちゃならない。その条件とは言葉で簡単に言い表されるものじゃなくて、理屈を超えたものだ。いずれにせよ、神様のいない月の火曜日の放課後の場合、私に選ばれた誰かとはマホコだった。


 マホコによって私の心は充填されている。


 夢中になってマホコとおしゃべりをしながら私は頭の片隅で考える。


 どうしてマホコなんだろうって私は考える。


 私はマホコの体つきが好きだ。マホコのショートヘアが好きだ。マホコの顔が好きだ。マホコのぶっきらぼうでいて、しかし繊細で、そしていざという時には強い意志を持ってどこまでも優しくなれるお人好しな性格が好きだ。そして彼女が持つリズムのようなものが好きだ。


 要するに私は、マホコと波長が合うのだ。ピタリと全ての波形が重なり合う訳ではないしある部分では果てしなく遠ざかるときもあるのだけれど、ある部分では奇跡的な合致を見せる。その間、私とマホコは同じ少女になっている。私はマホコでもあり、マホコは私でもあるような、そんな風にどこまでも深く絡まり繋がるのだ。私はマホコの何もかもが分かるし、マホコは私の何もかもが分かっているはずだ。そういう瞬間に、私は満たされていく。


 けれどでも、マホコが私に選ばれた誰かである理由はそれだけじゃないような気がする。


 宿命的な何かを私はマホコに感じている。


 出会った時から私はそれを感じ続けていた。


「どうした?」マホコの丸い眼は私の顔を覗き込むように見ている。「ぼうっとしちゃって」


「ううん、別に、」私は小さく首を振り、すでにぬるくなってしまったココアを飲んでから言いそびれた何かを思い出すような素振りで言った。「マホコの顔が好きよ」


「は? 急に何言ってんの?」マホコの頬は赤くなる。


「少なくとも私の顔よりは好き」


「取り替えてあげよっか? 実は私も、私の顔よりエリの顔の方が好きだよ、」まるでそんなことが確かに可能だと言わんばかりに、マホコは恥じらいを隠すように目を伏せ、自然に淀みなくそっけなく言った。「なーんてね」


 錦景市の夜の八時を過ぎた頃に二人は席を立った。楽しく過ぎ去った時間を名残惜しみながら、そろそろ帰って課題に手を付けなくっちゃいけない、と脳ミソモードを切り替えながら。忘れられた倫理の教科書のせいで出来ない課題は、明日早く教室に行ってやることにする。もちろん、私は早い教室にマホコを付き合せるつもりだ。


 会計には先ほど私たちにピンボールについて話し掛けてきたウェイトレスのユミコが立った。研修中というのに手慣れた感じで素早くレジを打ち、最後に私たちに精巧な笑顔をプレゼントして見送ってくれる。


「ありがとうございましたぁ、またお越しくださいませぇ」


 駅前の駐輪場でそれぞれの自転車を回収して、自宅の方向が違うのでマホコと私は「また明日」と別れる。また明日も私はきっとマホコと出会うことが出来る。そのことは私にとってお守りのようなものになり得る。そしてウォークマンでフーのオッズ・アンド・ソッズを聞きながら一人自転車を漕いで自宅を目指した。秋の夜の風の中で私は、サマータイム・ブルースを口ずさんでいる。


 そして私はユミコのことを考えていた。彼女がアマノ・カフェのフロアを風雅に歩き、注文を受けたり、珈琲を運んだり、レジを打ったりする姿を思い出していた。私はマホコとおしゃべりをしながら時折、彼女の姿を盗み見ていた。例えば金魚鉢が傍にあって、その小さくて丸い水の中で細い水草と一緒に東錦が揺蕩うとすれば、誰しもが気を奪われるようにしてそちらに瞳を動かさずにはいられない。そして動きを確かめる。動きを確かめるだけでいい。彼女の声を遠くに聞こえるだけでいい。それだけで何か特別なことにように思える。私は隣のテーブルに座っていた青年に「そう思いませんか?」と訊ねて見たかった。大学生風の彼は私と同じようにユミコの接客を受け、顔を赤くし、彼女に見惚れ、言葉を失っていた。そして注文した一杯の珈琲をちびちびと舐めるように飲みながら、時折読んでいた分厚い文庫本から視線を上げユミコの姿をぼうっと眺めていた。食い入るようにではなく、ぼうっと、やはり金魚鉢の中に揺蕩う東錦の動きを確かめるみたいに。


 彼女が動いているだけで何か特別なことにように思えませんか?


 私はそう質問して、彼に頷いて貰いたかった。私の感じたことが、ただの錯覚のようなものではないのだとその青年に同意してもらいたかった。


それは気のせいなんかじゃない。確からしい現象だって。


 もちろん、私はそんなことを彼に訊ねることはしなかった。私は人見知りだし、まして男の人と上手に話すことなんて出来なかった。それに私の目の前にはマホコがいる。マホコの前でそんな台詞を口に出してはいけない。マホコは時に嫉妬深い一面を見せることがあった。私が他の女の子に微笑んでいるとその間に割り込んでくることがあった。マホコは自分が私にとっての特別であることをきちんと分かっていた。そうでなければ保健室に逃げ込んだ私のために、私の大事なもののせいで重たい鞄を持ってきてくれるはずがない。そしてマホコは永遠の私の特別でいたがっている。だから他の女の子が私の特別に成り上がる前に邪魔をしたりする。私はそれを微笑ましく思う。でも時に鬱陶しく思う。とにかく、自ら進んで彼女の嫉妬心に火を放つほど私は愚かじゃない。


 十五分ほど自転車を漕ぎ、自宅に着いた。ガレージの隅に自転車を停め、そこにある扉から中に入る。父がお風呂場でクイーンのボヘミアン・ラブソディを熱唱しているのが聞こえて私は笑ってしまう。「ママ~♪」


「ママ、ただいま」


 私はリビングの入り口に立ち、そこのソファに横になりミステリィ小説を読んでいる母に声を掛ける。


「お帰りなさい、遅かったのね、」母はそのミステリィ小説の中に居続けている。彼女の視線は文字の上を走っている。「ご飯は?」


「食べる、」私は母の邪魔をしないように静かに、短く言う。「何がある?」


「カレー」


「やった」私は母のカレーが好きだった。私はいつだってお腹が空いていた。


 私はとんとんとんと階段を昇り二階の自室に向かう。階段を昇ると正面にトイレがあり、その横に洗面台がある。洗面台には私の洗顔フォームとか化粧水とか乳液とかが所狭しに並べられている。隅っこに私のピンク色の歯ブラシとピンク色のコップがあり、その隣に兄の青い歯ブラシと青いコップがある。その間に歯磨き粉が立っている。その歯磨き粉は私も使うし、兄も使う。歯磨き粉は半分くらいまで減っている。


 そして私は兄の部屋の前を通って自分の部屋に向かう。私の部屋は奥にあるから必然的に兄の部屋の前を通らなくちゃいけない。私は兄の部屋の扉の前で立ち止まり、扉に額を当てて「兄さん、ただいま、」と明るい声で言う。「エリは今日も、帰ってきましたよ」


 私の声は兄に届いているのだと思う。


 けれどいつまで待っても返事はない。


 どうやら兄はまだこの部屋に帰ってはいないようだ。


 兄はまだ、私とは違う世界に旅だったまま。


 私はこの開かない扉の前で泣いたりなんかしない。


 ただ待ち草臥れているだけ。


 私の心に充填された温かいものが少し冷えてしまうだけだ。


 私は目元に手を当て、静かに、そして大きく息を吐く。


 絶望なんかしていない。


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