第一章④

 私とマホコはゲームセンタを後にしてその隣の隣にあるアマノ・カフェに向かった。板チョコにしか見えない扉を押して中に入る。扉の上にあるベルがなって私たちが来店したことを従業員に知らせる。広い店内は仕事帰りのサラリーマンたちで混雑していて奥の喫煙席の方は煙で空気が淀みスモークが焚かれたようになっていた。私服のパーカとジーンズに黒いエプロンを掛けただけという簡単な制服を纏った丸っこい体つきの中年のウェイトレスが二人のことを案内した。フロアの丁度真ん中にあるパーティションの横の二人掛けの狭いテーブル席だった。中年のウェイトレスが置いていったメニューを二人で覗き込む。ピンボールの前にクォータ・パウンダのセットをしっかり食べたはずなのに、やっぱりいつだって私たちのお腹は空いていた。メニューを真剣に見つめる。私はチョコレート・ムース・ケーキに決めた。マホコは散々悩んだ挙句、私と同じチョコレート・ムース・ケーキを頼むことに決めた。そして丁度そのタイミングで先ほど私たちのことを案内した中年のウェイトレスが通りかかった。マホコが呼び止め注文をお願いする。「チョコレート・ムース・ケーキ二つと、ホットココア二つ」


 注文したものが来るのを待つ間、私とマホコは明日の授業で提出しなければならない課題について漏れが無いように一限目からチェックしていった。部活をサボりながらマクドナルドに行ってクォータ・パウンダを食べたりゲームセンタでピンボールに熱中したりカフェで甘いものを食べたり飲んだりするけれど、二人は基本的に錦景女子だった。一般錦景女子的な原則に従って動き、一般錦景女子的な日常生活を送り、一般錦景女子的な個性をそれぞれ持ち合わせていた。いいか悪いか、あるいは幸か不幸かはともかくとしてまず二人は確実に一般錦景女子的なものに支配されていて、明日の課題の心配をしなければならなかった。神様のいない月の水曜日の課題を心配するように出来ているのだ。私はそれについて疑問を抱いたりしない。不思議だと思う。時折、不自由だとも思う。しかし不自然だとは思わない。今のところとりあえず、私が錦景女子であるということについては。


「嘘っ、いけない、」私は両手の指先で唇を押さえた。そして鞄を膝の上に乗せてそして中身を確かめる。「……ああん、やっぱり、倫理の教科書、忘れてきちゃったわ、あんっ、もうっ、どうしましょ、これじゃあ課題が出来ないじゃないの、きちんと確かめてくればよかった、そしてマホコはきちんと忘れ物がないかを私に確かめる様に言うべきだった、ただでさえ私は寝起きでぼんやりしていたっていうのに、私が倫理の教科書を忘れたのは完全にマホコのせいだわ」


「忘れたって?」マホコは目を大きくして首を振って苦笑する。「じゃあ一体全体、その重たい鞄の中には何が入っているのさ、こっちからすれば倫理の教科書だって何だって、何でもかんでも入っているように思うでしょうに、そんなにパンパンに何が入っているっていうの?」


「そんなに気になる?」私は思わせぶりに笑顔を作る。「じゃあ、当ててみて」


「ええ、当てるの?」


「当てて欲しいわ、」私はマホコの両手が無防備にテーブルの上にあったのでそれに私の十本の指をゆっくりと絡めていった。マホコの手はいつも少し湿っぽい。私の乾燥した手と合わさってきっと、割にいい感じに仕上がる。「マホコに当てて欲しいわ、凄く、だから考えて」


「どうでもいいわよ、エリの鞄に何が入っていようがなかろうが、本当にどうだっていい、」しかしマホコはそう言いながらも首を傾け考える顔をした。目は斜め上の虚空を見つめている。「教科書とか、参考書とか、ノートとか、そんなありきたりなものではないのね?」


「そんなありきたりなものではないわ」私は歯切れよく言う。


「特別なものが入っている」マホコは断定的に言って自分の髪に手を入れる。


「そう、特別なものが入っている、私を構成する特別なもの、私の欠片と言っていいようなものよ」


「演劇部の台本とか?」


「そんなつまらないものじゃない、」私はにっこりと笑ってゆっくりと首を振る。「そんなクソみたいなものじゃないわ」


「横室さんの前で言っちゃ駄目よ、そんなのこと、んふふふっ、」マホコは愉快そうに笑いながら頬杖ついて言う。「でもエリが言うと、演劇部の脚本なんて本当にクソみたいなものに思えるわね、演劇部の皆、アレを大事そうに抱えていたりするのをよく見るけど、まるで聖書みたいにさ」


「あーら、マホコさんってば、」私は声を高くして言う。「聞き捨てならないことをおっしゃるのね」


「はい、はい、」マホコは目を伏せ長いまつげを揺らして微笑む。「でも演劇部の脚本の話は吹奏楽部の楽譜にも当てはまったりする」


「マホコさん、あなたまさか、ベートーベンやシューベルトやスメタナの楽譜をクソみたいだと言うおつもり? 随分と、なんていうの、凄く、強気なのね、その威勢は素晴らしいと思うわ、ぜひとも応援したいと思う、けれどそれは若気の至りとか、身の程知らずとか、阿Qとかっていう批判を容易に浴びせかけられそうな発言だわね」


「違う違う、楽譜自体をクソみたいだなんて思っているわけじゃなくって、そうじゃなくってね、吹奏楽部にもさ、楽譜を凄く大事に、大事に持ち歩いているやつがいるんだって、肌身離さずね」


「それが気に喰わないって?」私は高い声を出すのに疲れたので口調を普通に戻して言った。


「うん、聖書かよって突っ込みたくなるんだよ」


「聖書かよっ」私は漫才みたいに突っ込んだ。少し楽しい。


「別に私はね、聖書を持ち歩いている人たちを批判したりはしないよ、聖書ってそういうお守りみたいな神聖なものであるわけじゃない? でも楽譜は違う、楽譜はお守りのようなものじゃなくって楽器を鳴らすためのものであるわけで無意味に持ち歩くためのものではないと思うのよ、顧問の大崎先生が経費で買った楽譜を学校の輪転機でコピーしてファイリングしたものに過ぎないのよ、そんなものを持ち歩いていたって意味はないのよ、全く意味はないのよ、全然意味がないことなのよ」


「確かに」


 私は笑顔でゆっくりと頷いた。頷いたが私は全面的にマホコの意見を肯定しているわけじゃなかった。ある部分はそうだと思う。でもある部分ではそうではないと思う。でも私はそのことを口にしなかった。マホコは今溜まったストレスっていう燃料を言葉で燃やしているところだ。マホコはマホコなりに、私の知らない錦景女子高校吹奏学部という小さくて大きな世界で様々なことと闘っているのだ。私が錦景女子高校演劇部という小さくて大きな世界で様々なことと闘っているように、マホコは闘っている。そして燃料を溜め込んでいる。それは私も同じだ。そういう意味では私とマホコは同志とも言える。しかし闘っている世界は違う。だからそれぞれの世界の話について真剣になって意見を衝突し合ってはならない。世界が違えば、全ての基準が違ってくる。こちらでは正しいことが向こうでは間違っていることなのかもしれない。こちらにある概念が向こうには全く思いも寄らない概念なのかもしれないのだ。ピンボールのプレイフィールドと同じだ。ファースト・エデンとフォレスタル・シンフォニィは全然違うピンボール・マシンだ。しかし同じゲームセンタの隅っこに同じように斜めに並んでいる。並んでいることが出来る。


「楽譜は持ち歩くものじゃない、自分の中に取り込んでしまうべきものよ、ケーキと一緒、フォークを指してよく噛んで呑み込んで胃で解かして消化してエネルギアにすべきものなのよ」


「確かにそうね、」私は先ほどと同じように笑顔でゆっくりと頷いた。ある部分はそうだと思う。でもある部分ではそうではないと思う。そして私は自分の鞄の中に入っていて鞄を重たくしている特別なものを考えながら言った。「確かに、全てを自分の中に取り込んでエネルギアにしてしまえればどんなにいいか」


「要するに私は楽譜に支配されるべきじゃないと思うの、楽譜に従順過ぎてはいけないと思うの、ベートーベンやシューベルトやスメタナが楽譜を書くことによって託した未来への余地のようなものを私たちは真剣に考えるべきだと思うのよ、」マホコは私の手を強く握り返し、手の甲に爪を立て、そしてストレートに私の顔を見つめた。「私は間違ってるかな?」


「いいえ、間違っていないわ、マホコは間違ってない、」私は首を振ってそう断定的に言った。マホコにはそう言うべき時だから私はそう断定的に言った。プレイフィールドが違う女の子に対して私は、言うべき時にはきちんと言うべきことを言うべきだと思うのだ。そして最後にはプレイフィールドが違うのだから、一度断定したものを濁さなければいけない。責任をうやむやにして、棚上げするように。でも今はそれでいい。確からしいことは求められているようで求められていないのだ。「吹奏楽のことは良く分からないけれど」


「私だってよく分からない」マホコは首を竦めて苦笑する。


「それって大崎先生への批判なの?」


「違う、」マホコはすぐにハッキリと否定した。「皆への批判よ、皆が分かっていないから大崎先生も声を大きくして言えないの、間違いを声を大きくして言えない大崎先生のことも確かにムカつくけど、でもどうしようもないことだから、大崎先生には手に負えないんだ、優しい人だから、そして私がギャーギャー言って騒いで優しい人を傷付けたくはないから、私は黙っているしかないの」


 そしてマホコは大きく溜息を付く。


「黙っていることも立派な行動よ、」私はマホコの手を両手で温める様に包み込み励ますように言った。「叫んでいたって同じように疲れる」


「同じようにヒステリックになる、」マホコは言葉を続けて目を細めて笑う。「あ、そう言えば、結局鞄の中身はなんなの? 文鎮?」


「文鎮って、あはははっ、」私は急にマホコの口から跳び出した文鎮というワードが物凄く面白くって手を叩いて涙を流しながら笑った。この涙は勝手に流れてきた涙だ。自分でもどうしてこんなに笑っているのか理解出来ない。信じられないくらいに私は莫迦笑いしていた。「あはははっ、最高の冗談!」


「なんか私面白いこと言った?」マホコは莫迦笑いする私を見て笑っていた。


 そのタイミングで「お待たせしましたぁ」とチョコレート・ムース・ケーキ二つとホットココア二つが二人のテーブルまで運ばれて来た。それを運んで来たのは先ほどの中年のウェイトレスじゃなくて別の女性だった。まず中年のウェイトレスとは違って格好がきちんとしていた。丸襟の白いブラウスに、折り目がハッキリと付いたグレイのロングスカートに、きちんとアイロンが掛かった黒いエプロンを纏っていた。足元は底が厚めのローファでこちらもきちんと磨かれていた。瞳は大きくキラキラと光を自らが放っているように輝いていて鼻も高く顔立ちは整っていて間違いなく美人だった。どちらかと言えば童顔で年齢が推測しにくい顔だった。私たちと同じように高校生かもしれないし、大学生かもしれないし、もしかしたら三十を過ぎて子供もいるかもしれないとも思えた。肌は健康的にいい具合に焼けていた。髪は黒髪のショートボブ。テニスウェアが似合いそうな人だと私は思った。ブラウスの袖を折って仕事をしているので右腕の筋肉が左腕と違って太く引き締まっているのが分かった。実際にテニス・プレイヤなのかもしれない。私の兄も以前はテニスをしていた。だからテニスをすると右腕だけが太くなることを私は知っていた。


 とにかく私はウェイトレスの彼女がチョコレート・ムース・ケーキ二つとホットココア二つを並べ終えるまでに彼女の色んなところを観察してしまった。これほどまでに見惚れるほどの美人との遭遇は中々ないことだ。錦景女子にも美人は沢山いるが、マホコだって十分に美人だ、しかし錦景女子にはいないタイプの美人だった。初めて外国人を見た江戸時代の人々の気持ちが今なら凄く分かるような気がした。黒いエプロンの胸元の名札には東雲と書かれている。そして研修中という青い札も一緒に付いている。


「ねぇ、あなたたち、さっきそこのゲームセンタでピンボールやっていた子たちでしょう?」ウェイトレスは周囲に聞かれないように声を潜め前かがみになり、とても人懐っこい笑顔を浮かべて私たちに話し掛けてきた。そして彼女の唇は綺麗なピンク色をしていた。「私もやるのよ、ピンボール、というか、まさか私以外にも誰かがピンボールをプレイしているなんて思いも寄らなかったわ、まして二人の可愛らしい女の子がピンボールをプレイしているなんて」


 私はそっくりそのまま言葉を返して上げたい気分だった。まさか私たち以外にも誰かがピンボールをプレイしているなんて思いも寄らなかったわ。ましてあなたみたいな綺麗なウェイトレスがピンボールをプレイしているなんて。


 けれど私は顔を赤くしているだけだった。彼女の傍にいるだけで凄く緊張して口の動かし方を忘れてしまったみたいに声が出なかった。


「どの台が一番好きなんですか?」マホコは私のように赤くなって緊張することはなく、こちらも人懐っこい笑みを浮かべて聞いた。


「どの台も好きよ、でも強いて一つを選べと言うのなら、断然、」彼女はどこか魔性の目をして言った。「パックス・ドラゴニカね」


 東雲ユミコと私はそんな風に出会った。


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