第一章③
私が向かっている台はファースト・エデンという名前だった。
ファースト・エデンのプレイフィールドは上から天使が泳ぐ空、魔女の住まう宮殿、近代戦争、芸術家たちの世界という風に四つに分かれている。天使が泳ぐ空には無数の星のターゲットが散りばめられていてそこにボールを放り込むことが出来れば台から手を離しても自動的に大量のスコアを稼ぐことが出来る。けれどそこにボールを放り込むためにはその下の魔女の住まう宮殿の層に取り付けられたスロットを回して左から1・2・3と揃えなくてはならなかった。1・2・3の合図で魔女の宮殿からボールは一度レールによって手元に近い所まで垂直に落とされる。そしてフリッパの左側に待機していたラグビーボールのような形状をした古典的ロケッタの装置に運ばれて勢いよく上に向かって跳び出していく。その仕掛けが作動した瞬間が私は大好きだった。フィールドに描かれているものも素晴らしい。芸術家たちはそれぞれに腕を組んだり寝そべったり首を捻ったり難しい顔をして楽園とは何かを考えている。その芸術家たちの中でただ独りだけが上に向かって手を伸ばしている。独りの芸術家だけが楽園の存在が上の方にあることに気付いている。しかしその上に直ちに楽園が存在しているのではなく、そこには近代戦争が描かれている。兵士が銃剣を携えて飛行船と戦車の間に濃く描かれた暗雲の中を走っている。そのいかにも生々しく血の匂いがする状景の上に魔女たちが風雅とでも言うべき表情と姿勢で楽園とは何かを考えている。魔女たちの周囲には華が描かれていてその色はエレクトリックに様々に変化した。スロットが回転している間、華は虹色になって揺れ動いた。そして魔女の住まう宮殿の上には天使たちが泳ぐ空が婉曲して広がる。天使たちはどこかユーモラスに、どこかアニメチックに、そして衝動的とも言えるほどの激しいタッチで描かれている。その激しさによって天使たちの姿は水が掛かって滲んでしまったようにさえ見える。水色の空を泳ぎ水色の一枚の服を着て大きな翼を広げた天使たちの表情はその滲みによって、何かを持て余しているようにどこか不満げであり、新しい玩具を執拗に求める子供のように邪気がなかった。そこが果たしてこの台を企画した人たちが思い描く楽園なのかどうか、私にはよく分からないけれど、私はこの台の前に立つ限りにおいてはそこを楽園として目指さないわけにはいかなかった。
もちろん大量のスコアを稼ぐために。
ピンボールの目的はそれ以外にない。
でもある意味でそれだけじゃない。
ファースト・エデンのスコアボードに描かれているのは、下弦の月とどこまでも深い夜。フィールドをどこまでも明るく照らし出す無数の白色と黄金色の電飾。その真ん中にスコアが表示されていて、リン、リン、という小気味がいいベルの音とともにそこに表示される数字は絶え間なく、雪解け水を動力とした五月の水車のように滑らかに動き続けていた。
私の全神経はフリッパを操作するための両手に、その指先に注がれている。楽園を目指すためにはターゲットに弾かれ急な角度で、なおかつスピードのある状態で迫ってきたボールに対して精確なタイミングでフリッパを動かしある方向へと速さが乗っている状態で弾かなくてはいけない。ボールが切り込んでいく角度が急過ぎても緩過ぎてもいけない。ボールのスピードが速過ぎても遅過ぎてもいけない。
この角度と、このスピードでなくてはならない。
私が弾いた銀色のボールは芸術家たちが考える世界から近代戦争を乗り越え、そして魔女の宮殿に入り込む。そしてスロットが回転する。ボールはスロットの上を緩慢に行ったり来たりする。1・2、とじれったいほどにゆっくりと数字がはまっていく。その間に運が悪ければボールは真っ逆さまに落ちてしまうこともある。しかし今はそうではなく、順調にスロットの上を左右に行ったり来たりしている。私はそれを目で追いながら、楽園を夢見る。まだ私は今日、楽園への仕掛けを作動させることが出来ていなかった。天使たちが泳ぐ青空に行けた時のことを想像する。自動的にスコアが稼がれる。でもある意味でそれだけじゃないのだ。私のどこかが満月のように静かに満たされる瞬間があるのだ。
けれど数字は揃わなかった。1・2・3でロケッタに乗って楽園へと跳ぶことは出来なかった。ボールは再び芸術家があれかこれかと思案する現実世界へとすとんと落ちていく。
そのタイミングだった。マホコが向かっていた台からビービーと警報が鳴り響いた。私は吃驚して思わず右隣でプレイするマホコの方を見た。マホコはヤバいという顔をしていた。そして私の方を見て、てへっという風にウインクして赤い舌をペロッと出して後頭部を触った。私はマホコが向かっていた台のスコアボードを見る。マホコが向かっていた台の名前はフォレスタル・シンフォニィ。どこまでもサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドによく似たロックンロールバンドと鶏と猫と犬とロバのブレーメンの音楽隊と岩礁に腰掛け歌う人魚とパイプオルガンを中心とした十九世紀のオーケストラが無秩序に描かれている。しかし何よりもサウンドが素晴らしい台だった。スコアがあるところまで達するとそのスコアに応じてトランペットやサクスフォンやユーフォニアやシンバルやピアノが奏でる短い旋律がスコアボードの両脇に備え付けられた性能のいいスピーカから聞こえて来たりするのだ。その性能のいいスピーカからは今はビービーと警報が響いている。それは立体駐車場とかで聞こえるタイプと同じような警告音だった。それは騒がしいゲームセンタの中でも一際響いて、周囲の注目を集めた。ただでさえピンボールに夢中な錦景女子として周囲のアニメ趣味の男たちの注目を集めていたというのに、さらに注目が集まってしまった。警報が鳴っているということで男たちは、無遠慮に私たちに視線を集めて来る。私は振り返って集まるじめじめとした厭らしい視線に睨みを効かせてから、再びフォレスタル・シンフォニのスコアボードを見る。そのスコアのデジタル表示のところには黒いバックに赤くTILTと点滅していた。マホコは台を激しく揺らしてしまっていたのだ。揺らしによってボールの軌道には多少の変化が出る。とにかく要するに反則判定で無条件にゲーム・オーバ。
「やっちゃった、」マホコは悪びもせずに言って笑う。これまでにもピンボールに熱中し過ぎたマホコは台を揺らしてTILTの反則判定を喰らったことがあった。「でもわざとじゃないよ」
そしてファースト・エデンからもゲーム・オーバを知らせる致死的にざらついた電子音が響いた。
「あんっ、」と私は悲鳴を上げる。フリッパを動かすためのボタンから私は手を離してしまっていたのだ。銀色のボールはすでにフリッパの下のレーンを転がり律儀にスタート位置に戻っていた。私は右頬を軽くふくらまして非難の目をマホコに向ける。「もぉ、マホコのせいよ」
「ごめん、ごめん」
マホコは私に向かって手の平を合わせてへらへらと笑いながら謝る。その間も警報は鳴り続いていた。そして「まぁた、あんたたちなの? 勘弁してよねぇ」とゲームセンタのお姉さんが奥のカウンタからかったるそうにキーチェーンを回しながらこちらにやって来た。私とマホコはお姉さんに必死に謝る。お姉さんはこちらが酔ってしまいそうになるほどにお酒臭くてそして甘い煙草の匂いもした。彼女はだいたい夕方の時間帯にゲームセンタで働いていて、錦景第二ビルに隣接する錦景第一ビルや錦景第三ビルにある同じ系列のゲームセンタにもいることがあった。内田と彼女の名札に書いてある。年齢は二十代だろうということくらいしか分からない。綺麗な人だけれど、その自然な魅力を消すように濃いメイクをしているから精確な年齢を推測するのは難しかった。大学生のアルバイトかもしれないし、もしかしたら社員なのかもしれない。けれど社員だったらこんな風にお酒と煙草の匂いはさせていたらすぐに首になるだろうと思う。勤務態度だって決していいとは言えない。私は彼女がきちんと仕事をしているところを見たことはなかった。彼女が掃除をしたり機械のメンテナンスをしたり愛想よく接客をしているところを一度だって目撃したことはない。足元に空き缶が転がっていても内田さんはそれを拾わなかった。それどころか蹴飛ばす始末だった。多分、内田さんは大学生だ。それから、私たちは彼女が錦景女子のOGであるといことは知っていた。
「あんたたちが錦景女子じゃなかったらすぐ出禁にするところだよ、全く、ピンボールのメンテナンスって大変なんだぞぉ、金が掛かるんだよ、金がね、」内田さんは酔っ払いの口調で警報を響かせているフォレスタル・シンフォニに鍵を差して回し警報を止めた。「はいよ、もっと節度を持って遊びなさいな、人間何よりも節度が大事よ、今は分からないかもしれないけど時期に分かる、いかに節度を欠いた人間が世に溢れているかってことをね」
「はい」私とマホコは内田さんの忠告に神妙に頷いた。内田さんの忠告はヘビースモーカの酔っ払いとは思えないくらいの重みがある。どの口が言う、とも彼女が言ってもなぜか思わない。矛盾しているのに、矛盾していないと思える。酒と煙草は節度を越えたところにあるように思わされる。そして内田さんは「にゃははははは」と甲高く笑ってこちらに背を向けて低いヒールのかかとを鳴らして再びカウンタに戻った。途中でアニメ好きの男たちに「何見てんだよ、莫迦野郎っ」って怒鳴っていた。
「……どうする?」マホコが内田さんの怒鳴り声に思わず笑顔になりながら聞く。「もう一回やる?」
「ううん、」私は首を横に振った。「なんだか、冷めちゃった」
「お茶しに行きましょうか?」
「そうね」私は頷き、そして最後に並んだピンボール・マシンを眺め見ていく。ファースト・エデン。フォレスタル・シンフォニ。パックス・ドラゴニカ。ロスト・サーカス。
どれも死後の世界まで持って行きたいと思うくらいに色彩の溢れた綺麗な機械だ。
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