第一章 ファースト・エデンに向かって(The Great Escape)
第一章①
「エリ、起きて」
その声に私は目を覚ました。一時停止していたカセットテープが再び回り出すみたいに私の意識は回転し始める。頭の中で勝手に響き出すのはレディオ・ヘッドのリップコードの始まりのノイズだったりする。溶けたバターの重さのような優しい力で閉じられていた目を、私は小指を使って目尻から開いた。そして周りを見回し自らを取り巻く状況のようなものを確認した。白いベッド、白い布団、白いシーツ、白いカーテン、消毒液と華の香りのような強い匂い。要するに私は保健室のベッドで眠っていたみたいだ。足元の先には白い白衣を纏った養護教諭の木村先生がデスクに向かい書き物をしている。そしてベッドの脇には私の顔を丸い眼で覗き込んでいるアッシュブラウンのショートヘアが素敵な女の子がいる。彼女の名前は三田マホコ。一年E組のクラスメイトで、私の相棒のような存在だった。そして私の名前は宮沢エリ。季節は秋。初秋。神様のいない月の火曜日。
要するにエリという名前の私の相棒のような存在のマホコが保健室のベッドで眠っているエリと言う名前の私に私の相棒のような存在のマホコが「エリ、起きて」と囁いたのだ。私はそのことを理解するのに酷く時間が掛かった。私の名前は宮沢エリ。季節は秋。初秋。神様のいない月の火曜日。相棒は三田マホコ。私たちが住まう錦景市の時刻は、午後四時ニ十分。錦景女子にとっての放課後だった。BGMはリップコード。そして私はぼんやりとしている。私は五限目の天体史の授業を抜け出し屋上に昇って新しい風を感じて、ずっと夜までここで錦景を眺めていたいと思ったけれど、五限目の終わりの時間くらいになって高偏差値的な常識と現実的な考えが突風のように私のことを襲った。新しい風は私を苛烈な現実の刃へと向かわせる強い風に変貌していたのだ。私はその変貌に酷く戸惑い、焦った。そしてその焦りに耐えきれずにぼんやりとしてしまい何も考えられなくなった。大切なことも何もかも、考えられない不安定な少女。気付けば私は保健室のドアを叩いて木村先生に気分が優れないと伝えてベッドに横になって目を瞑った。
私は天体史の授業から脱出したはずだった。
そして向かった誰もいない屋上は私にとっては楽園のような場所であるはずだったし、一時は確かにどこまでもその場所は楽園のようだと思えたのだ。
それになのに私はそこからも逃げ出したのだ。
それからも逃げ出さなければならない私はどこへ向かえばいいのでしょう?
私が追い求めるものはこの天体上のどこかにあるのでしょうか?
私は考え始めて途方に暮れる。
宮沢エリはぼんやりとしている。
BGMはリップコード。
宮沢エリはもう一度目を瞑った。
「もぉ、エリってば、起きてよぉ」マホコは言って私から布団を剥ぎ取った。
「あんっ、」私は悲鳴を上げた。「寒いわ、凄く寒い」
「変な声出さないでよ、もう放課後だよ、いつまでも寝てんじゃないの、鞄だって持って来て上げたんだから、あんたの鞄重いのよ、一体何が入ってんのよ」
「本当に寒いのよ、マホコ、私にお布団を返して頂戴、」私はマホコの言葉を無視して体を空っ風に吹かれるうさぎのように丸めた。「ねぇ、マホコ、私は今ちゃんと服を着ている、ちゃんと錦景女子のセーラ服を着ていて? もしかしてマホコはお布団と一緒に私のことを脱がしたりしていない?」
「起きて確かめてみれば?」
マホコは呆れたという風に息を吐きベッドに形のいいお尻を乗せた。マホコの体のあらゆる部分は形がいいのだと私は評価していた。特別スタイルがよかったり手足が長く痩せているというわけではないのだが、感じがいいのだ。全てが絶妙の加減で、仕組まれたという風にではなく自然にそして健康的にデザインされていた。病的なまでに痩せ細り左右で胸の形と大きさが違っていたりとバランスの悪い歪な私の体とは全然違うのだ。私は目を開けてマホコの形が割にいい体をじっと見つめた。
「何見てんのよ」
私は返事をする代わりに視線を窓の手前にあるサボテンに向けた。小さな赤茶色の鉢の中で、一つだけの華を枯らせた小さなサボテンが体を僅かに斜めに傾けて立っている。ここは砂漠なのだ、と私は思う。太陽が支配する場所。私が生きることを許されていない場所。私の体内から水分をどこまでも奪って私を殺し上げるような場所。そんな砂漠のような場所はあのサボテンを中心に見渡す限り果てしなく広がっているように思える。オアシスの手がかりのようなものは一切ない。見えたとしても全ては蜃気楼。幻なのだろう。私が屋上に逃げたのはきっと、蜃気楼の悪戯だ。太陽の支配からきっと私は逃げられない。太陽が休んでいる間も月が私を監視し続けている。神様がいない月だと言うのに休みなく私は支配され監視され続けている。自由なわけがない。自由は私ではない誰かに委ねられている。だからどこかへ逃げてしまいたくなる。自由を渇望している。その先のことは全く分からない。けれど私を自由へと渇望させるものは自由を奪われているということへの漠然とした怒りなのだと思う。ヒステリック。
「ほら、部活に遅れちゃう、」マホコは私の足を叩きながら言う。「あんたも部活行かなくっちゃでしょ?」
私は演劇部に所属していた。マホコは吹奏楽部のトランペット吹きだ。
「今日は行きたくない、」私はベッドの上で体を相変わらず丸めたまま目をパッチリと開けて保健室の可愛げの一切ない白過ぎる天井を見て甘えるような口調で言った。「そうなの、今日はどこにも行きたくない、どこにも動きたいのよ、マホコ、私ってわがままかな?」
「わがままよ、」マホコは私の足を触っている。「わがままが過ぎるってものよ」
「ねぇ、マホコ、どこかに行こうよ」私は天井を見つめた額の上に手の甲を置き言った。
「どこかってどこに行こうっていうんですか、お嬢さん?」
私は笑う。「マホコだけよ、私のことをお嬢さん扱いしてくれるのって、嬉しい」
「はあ?」マホコは眉を潜めて唇の形をチャーミングに変える。「それって、ねぇ、どういう意味なの?」
「意味なんてないのよ、お嬢さん」
「意味なんてない、」マホコは私の言葉を繰り返す。「なるほど、意味なんてないか、莫迦みたぁい」
「私、またピンボールしに行きたいわ」
「え、本当にサボるつもりなの?」
「行こうよ、」私は上半身を持ち上げて、子猫みたいな上目でマホコの双眸を覗き込む。「神様のいない月の火曜日の放課後は凄くマホコと遊びに行きたいのよ」
「神様のいない月って何?」
「神無月」
「ああ、」マホコは頷いてから首を振って表情を変えた。「って、エリ、私は嫌よ、私はサボれないよ、部長に怒られるし、コンクールが近いんだ、皆ピリピリしてる、私だけ行かないって駄目なんだよ、今日は悪いけど遊びに行けないんだって」
「酷い、あんまりだわ、」私は泣いた。大粒の涙が溢れて止まらない。私は体を震わせて泣いた。「私がどれだけマホコと遊びに行きたいか分かってる? 私と部活とどっちが大事なの?」
「部活よ、」マホコは冷徹にも即答した。「っていうか、私の前では嘘泣きは通用しないって分かっているでしょ? 涙の無駄遣いではなくって、女優さん?」
私は鼻をずずっと吸って涙で濡れた目元を袖で拭いた。すでに私は涙を止めていた。私は嘘泣きが得意だ。涙は咳をするように私には簡単に出し入れ出来るものだった。それは演劇部に入って訓練で培われたものではなく先天的なものだった。
小学生の頃の私は何か自分に不利なことが起こると嘘泣きをしながらどこまでも儚くどこまでも雅やかでクラス中を味方にするような清楚な演技した。それによって私は様々なことを覆してきた。その全てが男子との戦いだった。男子が気に入らないもの言いをすれば私はすぐに暴力という手段を使った。その頃の私は他人を攻撃するための言葉を上手くコントロールすることが出来なかった。暴力と涙のコントロールの方が幾分か簡単だった。その二つのコンビネーションが私の武器だった。だいたいが暴力という手段を使って相手を攻撃した後に私は泣いた。どこまでも儚くどこまでも雅やかに涙を流し清楚な演技で締めくくった。クラスメイトや担任の先生はいつだって私の味方だった。私は決して悪い側になることがなかった。私の暴力と涙のコンビネーション以上の武器を持たなかった、相手が悪いのだ。私の武器によってやられた相手は大概孤立した。そして苛められるようになった。それはどこまでも儚くどこまでも雅やかに涙を流した瞬間に始まる運命のようなものだった。その運命からは逃れられない。どこまでも、逃れられられないのだ。私を支配する砂漠の上の太陽とほとんど一緒に彼らは私の涙によって支配されたのだ。要するに私の涙には誰かを支配する力がある。私の涙の力は砂漠の太陽には敵わないものかもしれない。マホコや、それ以外に私の心に深く接続しているような女の子たちにもほとんど効果がないのも事実だ。しかし私の涙には何らかの力がある。演劇部的な視点から言えば、それは観衆を感動させるというストレートに放射されるレーザのような力だった。
しかしとにかくマホコには私の涙は通用しない。もちろん、それは最初から分かっていたことだ。私が泣いたのは、寝起きに欠伸をするようなこととほとんど一緒だった。泣いたおかげで頭がやっと回転し始めたような気がする。そしてより一層、ピンボールがしたくなる。BGMはピンボールの魔術師。
「BGMはピンボールの魔術師」私は言った。
「ピンボールの魔術師」マホコは笑う。
そしてピンボール・ウィザードを口ずさみ始めた。
それに私も合わせる。
発音は出鱈目。
けれどエネルギッシュに歌った。
歌い終えてから顔を見合わせてそして笑い合う。「あははははっ」
木村先生が見慣れない野生動物の一群を見るような顔をしてこっちを見ていた。「なぁに、あなたたち、急に歌い出したりなんかして、大丈夫?」
「すいません、せんせ、」マホコが振り返って肩をすくめて言う。「何でもないんです、ただエリってちょっと変なんです」
「あんっ、酷い、あんまりだわ、」私は微笑みを顔に浮かべてマホコの形のいい手を触った。「全然変じゃないのに」
「ああ、もう、」マホコは嘆息し頭痛が痛いという風に額を押さえた。「ピンボールしたくなって来たじゃないの、エリのせいだからね」
「私のせいじゃない、そして誰のせいでもない、私とあなたが、神様がいない月の火曜日にピンボールの台に立つことは遥か昔から運命づけられていたことなのよ、アームストロング船長が人類史上初めて月に降り立ったその瞬間とほとんど同じことよ、私が言いたいこと分かる?」
「分かるけど分からないよ、」マホコはやれやれとでも言いたげに首を横に振った。「そして多分、アームストロング船長と私たちの一歩は全然違うと思うよ」
「あんっ、まさか意見の衝突?」
「ピンボールに行こうって意見には異論はありませんよ」
「決まりね」私は胸の前で手の平を合わせた。
「うん、」マホコは頷く。「部長には、親友を家に送り届けなくちゃならなくなってそのまま親友の家で看病してあげなくちゃならなくなったとでも言い訳しとく」
「あんっ、」私はマホコの腕を引っ張って言う。「親友じゃなくって相棒でしょ?」
「親友でいいでしょって、相棒ってなんだか刑事みたいで嫌よ、私、っていうか、エリは怒られないの、横室さんに、演劇部だって忙しいんじゃないの? 十月の終わりくらいにコンクールあったでしょ?」
「大丈夫よ」私は毅然として言った。
「あの人に涙は通じないでしょ?」
「そうね、でも怒られたらその時は、私の方が泣かせてやればいいだけの話よ」
「凄い度胸」
私はマホコに向かって微笑む。
違う、虚勢を張っているだけ、とは私は答えなかった。
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