プロローグ②

「宮沢ケンジっていう名前なの?」


 東雲ユミコはスーパ・エイチ・ツー・オーという聞いたことのない名前のスポーツ・ドリンクを俺に手渡しながら、唐突に、そんなことを言ってきた。俺はスポーツ・ドリンクを手にして、そのペットボトルのラベルをじっと見つめてから、向こう側から降り注ぐ太陽を背にした黒いTシャツに、ブルーのハーフパンツという出で立ちのユミコの姿に視線を向けた。俺は少し途方に暮れた。というのも、俺はユミコとテニスの試合をしてたった今、彼女に負けたばかりだったからだ。「……えっと、なんですか?」


「宮沢ケンジっていう名前なんでしょ?」


 ユミコは質問を繰り返しながら俺の横にゆったりと腰掛けた。俺はユミコに試合で負けてほとんど絶望的な気分になって、四面あるコートを囲む鉄柵の外の樹の下のベンチに座り、アディダスのテニスシューズの紐を両方ともほどき、濡らしたタオルを頭からかぶり、地面の方に顔を向けて、体と心を休めていたのだった。ユミコは女子テニス部のエースだったが、俺には勝てる自信があった。それは何の根拠もない自信だったがとても大きくて揺るがしようのない自信だった。いくらエースだと言え、女子に負けることなんてないだろうと高をくくっていたのだった。一応俺は、男子テニス部のエースだったから、誰かが言い出した男子と女子のエース対決を快く承諾し、そして短い時間でストレートで勝つつもりだったのだ。しかし俺は逆にユミコに短い時間でストレートで負けてしまった。一度もブレーク出来なかった。エースを何本取られたか分からない。俺を見守る男子たちの溜息と女子たちの歓声が聞こえてきて俺はコートから逃亡したくなった。途中から頭は真っ白になり何も考えられなくなり彼女の切れのあるスピン・ボールをネットの向こう側に弾き返すだけで精一杯だった。ユミコがこんな強烈なショットを放ってくるなんて思いも寄らなかった。ユミコはG県立中央高校の女子テニス部に所属してはいるが、練習の拠点はここではなくて、昔から通っている敷島の方にあるコートだった。そこでレベルの高いプレイヤと高度な知識を持つコーチと質の高い練習をしているという話だ。ユミコは週に一度くらいしか、この学校の校庭の隅っこのコートには姿を見せない。姿を見せてもユミコは下級生の練習に付き合ったり、体の調子を整えるような力を抜いたラリーをしているだけで本当の実力を見せることはなかった。男子と女子では練習も別に行うから、俺はユミコの姿を遠くからぼんやりと確認するくらいしか出来なかった。彼女の実力を知る術はなかったのだ。だから俺はユミコの力を具体的に知らなかった。知っていれば試合なんてしなかった。


 とにかく俺はユミコに、ストレートで負けた。


 こんなに無様な気持ちになるのは産まれてから多分、始めてだった。人ってこんなに無様な気持ちになれるのか、と俺は壮絶に思った。目元が熱く、誰かに肩を叩かれて揺らされたら、それだけで顔を反射的に両手で覆って号泣してしまいそうだった。


「……はい、そうですけど」俺はユミコの宮沢賢治についての質問に頷き、自分の声が少し震えているのに気付き、さらに無様な気持ちになり、もうこれ以上何もしゃべりたくなくなった。差し出されたスポーツ・ドリンクをどうしようか、と俺は思った。これは言わば、敵から送られた塩というやつだ。これを飲んでしまったら俺はあまりの屈辱に吐いてしまうかもしれない。口の中は唾も出ないくらいに渇いていたが俺はそのスポーツ・ドリンクのキャップを捻ろうとは、微塵も、思わなかった。


「詩人の宮沢賢治と何か関係があるの?」ユミコは今度は、こう質問してきた。


 俺は今までに幾度となく聞かされたその質問にうんざりして、少し怒りの感情を抱きながらも俺は顔の筋肉を動かすことなく平静を装い小さく首を横に振り、これまで何度も繰り返した質問に対する回答を一気に言った。「何もありませんよ、親父もお袋も、ただ俺をケンジって名前にしたかっただけで、詩人の宮沢賢治のことなんて何も知らなかったんですから、まあ、名前くらいは知っていたかもしれないけれど、でも、彼の詩や、彼の人間性のようなものに感銘を受けて、息子の俺に宮沢賢治のように、宮沢賢治がどんな風な生涯を送ったか知りませんが、宮沢賢治のように、生きて欲しいと思って名付けたわけではない、というのは間違いないことなんです」


「ふうん、そうなんだ」ユミコは、それはとても残念なことね、という風な顔を作った。


 俺の回答の後、質問者は同じような残念そうな表情をする。その度に俺は、俺と宮沢賢治の関係について知ったところであんたたちの人生にはそれについては何の価値も意味もないのだからまるで俺が悪いみたいに残念そうな顔をするなんて莫迦げている、と怒鳴り散らしたくなった。怒鳴り散らしたくなるが、でも俺は平和主義者なので、怒鳴り散らしたりはせずにいつも平静を装い、笑顔を見せて、冷淡に笑ってやっていた。それで宮沢賢治についての議論はだいたい終わりを迎えるのだ。つまらな過ぎる話題なのだからいつもであれば、それで静かに終わってしまうのだが、しかしこのときは、ユミコに試合に負けてしまって絶望していたからだと思う、俺は彼女に向かって怒鳴ってしまった。いつも怒鳴ってしまいたいと思っていたことを怒鳴ってしまった。ひとしきり怒鳴り散らしてから、俺はあっと我に返って、慌ててユミコに謝った。「……すいません、怒鳴ってしまって」


「ん? どうして謝るの?」ユミコは不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。ユミコは俺が怒鳴ったことなんてまるで最初からなかった風な、青空と山を背景にした黄緑色の草原のような平穏な顔をしていた。「宮沢君の言う通りだと思うけど、悪いのは私の方よ、ごめんなさい、謝るわ、ただ君と話すきっかけが欲しかっただけなの、謝るわ、宮沢君と宮沢賢治の関係について聞いた全ての人を代表して私が謝ります、ごめんなさい」


 ユミコ代表の謝罪を受けて、絶望によって黒くぐちゃぐちゃに乱暴に塗りたくられて傷つけられていた俺の心は一瞬にして、真っ白に洗われて治癒されたような爽快な気分になった。脳ミソはクリアになり、目元の熱も冷めた。理由の細かいことは分からないけれどとにかくこのとき俺は、全てユミコの言うとおりだと思ったのだった。俺と宮沢賢治の関係について聞いてきた人はただ俺と話すきっかけが欲しかっただけなのだとすとんと納得することが出来た。許すことが出来た。俺と宮沢賢治の関係についての聞いてきた人に対しての怒りは完全に綺麗さっぱり、まさに憑き物が落ちた風に、俺の心の中から形跡も何もかも残さずに消失していた。


 そして、そこで俺はユミコの顔をきちんと見ることが出来た。綺麗な顔が、テニス・ガールにうってつけのショートヘアに包まれていた。髪の色は日差しを浴びて黒が抜けていて茶色く、肌も健康的に日に焼けていた。目は大きく、瞳はダイアモンドを表面に埋め込んだように煌めいていた。形のいい唇は綺麗なピンク色だった。


「……飲まないの?」ユミコは黙り込んだ俺のことを不思議そうに見つめ続け、操り人形のように首をカクンと傾けて聞く。


「え?」俺は一瞬何のことを言われたか、分からなくなった。しかし俺は手に感じる、じっとりとした冷たさにゆっくりと気付き、喉の渇きを思い出し、スポーツ・ドリンクのキャップを捻り、それを飲んだ。飲み干してから俺はユミコにお礼を言った。「あ、これ、ありがとうございます」


「どういたしまして、」ユミコは目を細めて笑った。そしてしばらく微笑みを見せた後、何か俺のことを探るような目つきをして、ゆっくりと口元を動かした。「ケンジ君、さっき、私がなんて言ったか、覚えているかな?」


「さっき?」俺はしばらく考えた。さっき、と指摘できるほどの印象的な台詞を、ユミコが言ったかどうか、少し考えた。けれどすぐに思いつかなかった。


 俺にしびれを切らしたように、ユミコは用意していた風なわざとらしい溜息を「はーあ、」と吐き、俺を見下すような、しかし優しい目付きで言った。「さっき私は、君と話すきっかけが欲しかったって言ったんだよ」


 それから俺とユミコは気軽に会話が出来る関係になった。歳月の流れに歩幅を合わせて、徐々に互いのことを分かっていった。ユミコは俺を彼女が通うテニス・スクールに誘った。テニス・スクールに通う十三歳の女の子のような顔立ちの男の子に俺はあっさりと負けた。手も足も出なかった。俺は笑うしかなかった。そのテニス・スクールは俺のレベルの遙か上だった。しかし俺は放課後にユミコと待ち合わせて自転車で敷島のテニス・コートに向かうことを習慣にして止めたりはしなかった。その途中は二人きりで、その時間は俺にとってとても幸福な時間だった。俺はもっと二人きりで話す時間が必要だと思って、思い切ってユミコを映画に誘ってみた。ユミコは笑顔で承諾してくれた。俺とユミコはつまらない恋愛映画を見て、こんな恋があるわけないって笑い合った。二度目のデートも映画だった。三度目のデートは水族館だった。水族館の後、錦景市駅前のトリケラトプスのオブジェの前で別れ際、俺はユミコに告白した。


 そして振られた。


「ごめんなさい、」ユミコの顔は、あのときと一緒だった。俺と宮沢賢治の関係を聞いてきた人たちの代表になって謝罪したときのあの顔と一緒だった。平穏な顔で、俺の恋心を日曜日に破壊した。「実はね、付き合っている人がいるの、ごめんね、ケンジ君」


 というわけで俺は月曜日に学校に行かなかった。ユミコには絶対に会いたくなくて学校に行けなかったのだ。そしてそのまま俺は学校を辞めた。もう二度とユミコの顔を見たくなかった。ユミコの平穏に満ちた、魔性とも言える顔を見て、平穏でいられる自信がなかったのだ。とにかく、本当にあっさりと辞めてしまった。いとも容易く、唐突に、俺は高校生の肩書きを失った。そしてなんだか訳の分からない、掴み所がなくってふにゃふにゃとした、ただの十七歳の少年になった。


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