失われた錦景女子高校第二校歌の話(Song2)

枕木悠

プロローグ

プロローグ①

 頭の中でブラーのSong2が静かに流れ始めたのは突然だった。静かなイントロから始まり、サビでうるさくなって「うーふぅ!」で爆撃を食らったような衝撃を受けて、私の頭はぐわんぐわんと揺れた。とてもペンを持っていられるような状態ではなくなり、私の左手は投げ捨てる様にノートの上に銀色のシャープペンシルを置いた。ブラーのSong 2は天体史の授業中に頭に響くのにうってつけのロック・ミュージックであるとは言い難い。Song 2によって完全に集中力を乱してしまった私は窓の外の青過ぎる初秋の空と白過ぎる冷やした綿飴のような雲の塊をぼんやりと見つめて凝縮された永遠のような何かをそこに感じた。同時に静かに椅子に座ってなどいられなくなって本当に辛くなった。この教室から一刻も早く脱出して屋上に昇り新しい風を感じたいと強く願った。そんな願いを抱いたわけだが、授業中の一年E組の教室から脱出する方法を私は知らなかった。天体史の授業は教壇に立つ、明智先生のタクトによって何の問題もなく進行していた。何の問題もない、ということは要するに、可もなければ不可もない何の特徴もない交響楽団のモーツァルトを聞かされているような退屈な授業だということだ。黒板の横の時計を見やれば、授業が終わるには後三十分以上もある。まだ授業が始まってから半分も経っていないという事実に私はほとんど絶望的な気分になる。よりこの教室から脱出したいという願いは秒単位で膨張を続ける。


 手を挙げて気分が悪いと言って保健室に行くふりをして屋上に昇ろうか、と私は簡単な想像をする。もしかしたら私と同じ空想をしている女子がこの教室には三人くらいいるかもしれない。でも私を含めて誰も手を挙げたりなんてしないし、誰か隣の席の女子とおしゃべりをしているということもない。明智先生の変に甲高い声が響いているが、それ以外は本当に静かな教室だった。時折、コホンと誰かが咳をするのが聞こえるくらいだった。何もかもが明智先生のタクト通りに進んでいる。それは明智先生のタクト捌きが優れているというわけでもなく、明智先生が怒ったらとてつもなく恐くて彼女のヒステリックが止まらなくなるからというわけでもなく、一年E組の女子が全員天体史愛好者だからというわけでもなかった。


 私が通う高校は、名門の錦景女子高校だった。錦景市の女子高では偏差値はトップで、それゆえ品行方正で問題児とは程遠い女子たちが集っているので、夜に窓ガラスが割られたり、毎朝持ち物検査があり回収された酒や煙草や脱法ドラッグが職員室の机の上に山積みになっていたり、生徒の集団暴動を警戒して先生たちが常時竹刀を携帯して武装していたりということはまるでなかった。あらゆる授業は邪魔に遮られることなくスケジュール通りに進行していく。それが錦景女子高校の日常であり普通だった。授業は退屈だが、それをわざわざエネルギアを消費してまで乱そうとは誰も考えない。そんなことは偏差値が低い高校に通う莫迦がすることだと皆思っているのだ。もちろん、私もそう思っている。教師に反抗して授業を乱しそれで自己を主張をした気になって莫迦笑いする女なんて、なんの価値も魅力も可愛げもないクソ女なのだと、私は無条件に思っている。


 でも今まさにこのときの私はこの教室から脱出したいと強く願っている。ほとんどが発作的に頭に響いて私の集中力を粉々になるまで破壊したSong 2のせいだが、願いを抱いた全ての理由をSong 2のせいには出来なかった。私はこの錦景女子高校に通う全ての少女が持つような、比較的レベルの高い、高偏差値的な常識をきちんと持ってはいた。しかし私は時折、そんな常識なんて蹴飛ばして狂ったようにケラケラ笑いながら機関銃で一年E組の女子たちを撃ち殺したらきっと私が見る世界は何もかも変わってしまうのだろうな、なんて空想することがあった。


 私はどこかで、私自身すらも思いも寄らぬ行動を起こしてしまうのではないか、と危惧していた。そういう特性が私には存在しているのかもしれないと思い始めたのは中学生の時くらいからでその予感は高校生になってからもどんどん膨らんでいた。二秒前に考えていたことと、二秒後に考えていることが全く違っていたりすることがよくあった。思考が頻繁に跳躍して、なかなか定まらなくなる。ふらふらとしたままさらなる跳躍を行おうとする。そして最終的に跳ぶべき場所は見失い、発作的にありとあらゆるものが分からなくなってしまうこともよくあった。それは今のところ一瞬のことだったし、分かりやすく外に顕われているということではまだないが、それは何かの予兆なのだと思えた。


 私は未来に何かとんでもないことをしてしまうのではないか。


 そんな予兆に気付いているから私は、突然私が誰かを殺したって、私は誰かを殺した自分について、なんら不自然だとも不思議だとも思わずに、納得するのだと思えた。その場合の誰かは、誰だって構わない。


 気付けば私はシャープペンシルを捨てた左手を顔の横に持ち上げ、いかにも気分が悪いというのを装って弱々しい口調で言った。「すいません、先生、気分が悪くって、あの、保健室に行ってもいいですかぁ?」


「あら、大丈夫?」明智先生は教科書を閉じ教卓に置き、本当に心配そうな顔をして私の席までやって来た。この高校の先生たちは多分、生徒を疑うということを知らないのだと思う。「ちょっと顔色が悪いわねぇ、えっと、このクラスの保健委員は誰だったかしら?」


「あ、一人で行けますからぁ」私は席を立ち、ハンカチで口元を抑えながらふらふらとした足取りで、一年E組の品行方正なクラスメイトたちの視線を浴びながら、彼女たちの数人は私を気遣う言葉をくれた、その間もSong 2はぐわんぐわんと響き続けていた、私は彼女たちの気遣いの言葉に視線を泳がせて曖昧な返事にして教室から廊下へと出た。


 スライド式の扉をゆっくりと、隙間をつぶすように確実に閉めた。


 その瞬間。


 私の頭の中で響き続けていたSong 2のロック・ミュージックが消えた。


 発作が治まったように、私の心と体は正常な機能を取り戻したような気がした。私はこの廊下に漂う静寂をクリアになった脳ミソと解放された体中で感じ、この時間の静寂に廊下に立っているという意味を精確に認識した。


 私は脱出したのだ。


 教室に囚われたままのクラスメイトたちとは何もかもが違うのだと。


 私の心も幸福が充填される。


 なんて完璧な脱出劇なの!


 私はもちろん、保健室には向かわず屋上に昇った。胸を高鳴らせ、階段をステップを踏むように軽やかに駆け上がった。青過ぎる空の下に出て、フェンスを掴み屋上から太陽の強い光に滲んだ、都会的でもなければ田舎的でもない日本のどこにだってあっておかしくない、しかしまたとない、錦景市の風景を眺望し、そして南東から吹いている微風を感じた。


 これは私にとっての新しい風なんだと思う。


 そして私は制服のスカートのポケットに手をやり「あんっ、」と高い声を上げた。「しまったわぁ」


 うっかりしていた。私の特性の一つに、うっかり者、というのがある。今回のうっかりは、屋上に煙草とライタを持ってくるのを忘れてしまった、ということだった。ここで吸う煙草の味を、私は確かめたかったのだ。本当に、うっかりだ。完全な脱出劇だって思ったのに、煙草を忘れてしまったなんて。


 いつだって私は詰めが甘い。


 そしていつだって完全に辿り着けない。


 小さな頃から今までなんにしたってそうだった。


 その性質は変えようと思っても変わらないことなんだろうな。


 未来に予告して、私はそう予感していたのでした。

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