第40話 「ずっと、忘れていて、ごめん」

「……」


 声がした様な気がしたので、イリジャは顔を上げた。

 外の喧噪とはうって変わった静けさが、医務室のある一角にはあった。

 無論、窓一枚隔てた外は、相変わらず騒がしいのだ。この部屋の中にも、モニターが置かれている。ただ、人いきれで気分の悪くなった観客のために、その音はずいぶんと抑えられている。


「大丈夫か?」


 うん、とつぶやかながら、キディは自分の額から目にかけて乗せられていた濡れタオルを取り、ゆっくりと身体を起こそうとする。だがまだ頭がふらつくのか、すぐに手を横についてしまう。ベッドの側の椅子に座っていたイリジャはそれを見て、背中を支えた。


「まだ無理しない方がいいぞ」

「大丈夫…… 試合は?」

「9回が始まった。招待チームの攻撃。でも、……ああ、もう一人アウトになってる」


 モニターには、カウント数も出ている。ストライクが一つ、ボールが二つ。そしてアウトが一つ。


「でも、ま、よくやったよな。この回点が取れなくても、この後、必死で守れば、招待チーム、勝つぜ」

「ごめん、イリジャ」

「何。別に気にすんなよ。お前結構軽かったし」

「そうじゃ、なくて」


 キディは顔を上げた。


「ずっと、忘れていて、ごめん」


 途端、イリジャは大きく目を見開いた。


「お前、ずっと近くに居たんだよね。俺があの街に住み着く様になってから」

「―――おい」

「なのに俺、ずっと思い出さなくて、ごめん」


 どうして気付くことができなかったのだろう、とキディは思う。この友人。幼なじみだった男のことを。

 イリジャは黙ってぽんぽん、と彼の背中を叩いた。


「謝ることはないさ」

「だって」

「俺だって、あの時までは、無理に思い出そうとも思わなかった。だってそうだろう、お前が当局に連れていかれたって聞いて、もう駄目だ、と思ってた。それはないだろう、と思った。思っただけだよ。どうしようもない、って思うしかなかったんだ」


 それはそうだろう、とキディは思う。中等学校生だろうが何だろうが、テロ行為で捕まったなら、それはもう、行き先は判っていた。

 自分に、その覚悟があったかどうかまで、今の混乱した頭ではよくは判らない。

 記憶をたどる道がつながったとは言え、その時の感情の一つ一つまで、すぐに思い出せる訳ではない。たとえ消されなかったとしても、忘れてしまうことは多いのだ。


「ただ、あのクーデターの中継の時に、お前の姿を見たんだ」

「……」

「見間違いか、と最初は思ったんだ。だけど、あのひとと一緒に居た。だから、画面の中で、妙にお前、目についた」

「マーティのこと?」

「そう。お前が、D・Dのファンだったことを、何故か、俺その時、妙に思い出してた。そうしたら、矢も盾もたまらなくなって」

「あの時の映像、見た人が多かったんだろうな」

「それはそうだろ。会社でもそうだった。もう、仕事どころじゃない」

「仕事、してたんだ」


 キディはくす、と笑う。そうその方が、よっぽど似合う。


「これでも、な。ロイシャンで、クロシャール社の支社に居たんだ。販売担当」

「クロシャール社の」

「お前の、お袋さんの会社だよな。でもそれは関係なかった」

「そうだよね。お前結構安定したとこって好きだよね」

「お前は相変わらず、そうじゃない」


 ははは、とキディは表情一つ変える訳じゃなく、声だけで笑った。


「あのひとが、お前にそうしろ、って言ったのか?」

「いや」


 イリジャは首を横に振った。


「俺が長期休暇を申請したら、社長が御自ら出てきたんだ。シビアだね。理由を聞いても、給料の保証とか一切せずに、認めたのは休暇そのもの、だけだったよ。でもまあ、それだけでも、会社にそのまま居ていいんだから、御の字ってところかな」

「ふうん」

「すねるなよ、キディ」

「その名で、まだ俺を呼ぶ?」

「呼ばれたいのは、お前だろ?」


 その言葉に、伏せがちになっていたキディの瞳は、ふっと広がった。


「最初はさ、記憶を取り戻させてやろう、なんて息巻いてもいたんだぜ? 『マヌカン』に入り込む前とかは」


 キディはやや困った様な顔で、首を傾げた。


「けどさ、何か、お前ずいぶん楽しそうだったから」

「楽しそう?」

「あんまり楽しそうだから、その相棒と、何か妙な仲なんじゃないかって疑ったりもしたぜ?」


 キディは苦笑する。そんなことを考えていたのか。時間の流れを妙に彼は感じる。


「奴とはそういう仲にはならなかったよ」


 他の誰となったとしても。


 キディはその言葉を飲み込んだ。それはこの幼なじみに言う言葉ではないだろう。

 そんな彼の含みに気付いたのか気付かないのか、イリジャは苦笑しながら続けた。


「でも、そう。楽しかったのは確か。俺は正直言って、思い出したくなかった」

「うん」

「でも、思い出さなくてはならない、と思ってしまったんだ。楽しかったけど、あのままでは、俺も相棒も、何処にも行けないから」

「そうだな」


 イリジャはそう言って、キディの髪の毛をかき回した。


「でもこれは本当だぜ? 俺は、お前が思い出さなくても、もっと時間かけても、友達付き合いしたいと思ったよ?」


 キディは無言で相手を見上げた。


「いや本当」

「別に疑ってはいないよ」

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