第39話 「さあ、プレイを再開しましょう」
「皆さん、お静まりください」
その声は、決して叫んでもいなかったし、大きすぎもしなかった。ただ落ち着いていた。
ブランカ・ヒノデ・クロシャール夫人は、マウンド上で輪になる選手達ににっこりと微笑みかけると、そのそばにマイクスタンドを立てさせた。
「わたくしはサンライズのオーナー、クロシャールです。皆さん、どうぞ、ご自分の席にお戻りください」
彼女はまずそれだけ言うと、言葉を切った。大丈夫だろうか、とそばの選手達は、不安げに彼女を見つめる。
「この球場が、100%安全などと言うことは申しません。しかし、先ほどまで観客のひとりとして内野席に居たわたくしが安全である程度には、警備されております」
ざわざわと、さざ波の様に人々が席に戻り始める。ちょうどそれは、いいタイミングだったのだ、とマーチ・ラビットは思う。決して多くは無い扉に殺到したところで、すぐに出られるという訳ではないのだ。
オーナーが断言したならば、「もしも」があった時にも、自分の過失だけで済まされることはないだろう。
少なくともこの星系の人間はそう考える。彼らはテロ行為というものに、不本意ながらも慣れていた。無論一瞬のパニックは、人間である以上免れ得ないが、その後の対応に関しては、他の「安全な星系」の人間よりは切り替えが速かった。
だが次の彼女の言葉には、さすがの「慣れた」人々も、そしてマーチ・ラビットも驚かされた。
「また皆さんに申し上げます。実はこの試合は、帝都に中継されているのです」
何だって、と声が飛ぶ。帝都=全星域統合スポーツ連盟の図式は、この試合にわざわざやって来る様なベースボールのファンの頭に浮かぶのはたやすいことだった。
「前々からわが社が、このサンライズが申請しておりました連盟への参加が、この試合の状況如何で認められることになっています」
どよめきが大きくなる。本当かよ、とマウンド上の選手達も、顔を見合わせた。
「あんた達は知らなかったのか?」
マーチ・ラビットはスクェアに訊ねる。いいや、と彼は首を横に振る。
「俺達、元コモドドラゴンズのメンバーが呼ばれたのは、別の目的だ」
「別の目的?」
「サンライズの正式メンバーと対戦して、その結果如何で、サンライズの新メンバーとして迎えると」
「ああそれは、俺も聞いた。でも俺のとこには、スカウトが来たんだ。試合して、勝ったら、俺は雇われるって聞いたよ」
テディベァルはそう言う。
「いい職だ、と思ったからね。ベースボールなら、俺はこの足を発揮できるもん」
確かにそうだろう、とマーチ・ラビットは思う。ミュリエルやトマソン、現地調達のウィンディなどが、そんな「スカウト」をされたらしい。
マイクに向かって、ヒノデ夫人は続ける。いつの間にか、彼女が話し出すと、ざわめきは静まるようになっていた。
「危険の可能性は充分承知しております。ですが、この機会を逃し、テロ行為に負けてしまったら、このレーゲンボーゲン星系が、連盟に参加することは、この先も決してありえないでしょう」
言い切ったな、とマーチ・ラビットは思う。食えない女だ、と。政権がこのままずっと安定すれば、そんな日はいつか来る。なのに、今しかない、と彼女は言い切る。
「あと一回と少しを、どうか、この試合を、やり遂げさせてください」
そして彼女は深々とお辞儀をする。
選手達は、息を呑む。彼女の背と、スタンドを交互に眺めながら、奥歯をかみしめる。
それはひどく長い時間に、マーチ・ラビットには思われた。額からたらたらと汗が流れていくのが判る。このまま、観客が騒ぎ出したらどうなるのだろう。不安が心の底で渦巻く。
もしそうなったら。
気弱が顔を出す。そうなったら、この試合は中止だ。
それは、嫌だ。
彼はそう感じる自分に気付く。気付き―――驚いた。
俺は、ベースボールを、したいんだ。
誰に言われたからでもなく、誰に背を押されたからでもなく、ただ、こうやって、試合をするのが、ただ、楽しい。
ぽん、と背を叩かれ、慌てて彼は振り向く。ビーダーがそこには居た。
そう―――そこに、居た。
「ストンウェル」
彼の口からは、その名前が、するりと出てきた。言われた本人は、それに対して、何も言わず、ただ、少し上にある彼の肩を、ぐっと右手で掴んでいた。
球場全体が、戸惑っている様だった。静まり返ってはいるのだが、次の動きがまるで読めない。
どうなるのだろう。
だらだらと汗が流れる。
と。ぱん、と音がした。手を叩く、音だった。マーチ・ラビットは顔をスタンドの方に向けた。
一つの拍手が、静寂を破った。一つが二つに、二つが四つに…やがて拍手に声が混じった。
笛が混じった。
応援用のメガホンが叩かれる、ぱこんぱこんという、何処か気の抜けた音も、たくさん集まれば、ざっくりと揃った音になる。
そうだそうだ、やってしまえ、という声が、あちこちから飛ぶ。オバさん格好いいよ、と叫ぶ少女の声。最後まで見てやるぞ、と怒鳴る老人の声。声声声。
マーチ・ラビットは改めて、スタンドを見上げた。人々の声と、その真ん中にある空の青さが、一瞬彼に目眩を起こさせる。
ああそうだよ。
彼は内心つぶやく。
俺が欲しかったのは。
あんな、誰ともしれない男を呼ぶ声ではなく、ただもう、ベースボールが好きで好きでたまらない、そんな観客の声、だったんだ。
そして彼は問いかける。
俺は誰だ?
答えは―――
「さあ、プレイを再開しましょう」
ヒノデ夫人は、やはりにっこりと笑って、彼らの前から、マイクスタンドと共に去って行こうとする。そこへマーチ・ラビットは待ってくれ、と声を掛けた。
「なあに?」
彼女は振り返る。だが彼は、言うべき言葉をすぐに取り出すことができなかった。
「マーティ・ラビイさん。後でゆっくりお話をしましょう。私もあなたには、まだまだお話したいことがあるのよ」
だから今は試合を続けて、と無言で彼女は促す。判った、と彼はうなづいた。今この場で、「言いたいこと」を取り出す自信はなかった。相棒の気持ちがこんな時に、急に判る様な気がしていた。何を探していたのか、それが思い出せない。急に取り出せない。
試合は中断したところから、再開された。八回裏。差は一点。招待チームの優勢である。
このまま一点を守りきれば勝てる、という確信が、マーチ・ラビットの中にはあった。だがその一方で、ずっと試合をしていたい、という気持ちもあった。それに加えて、先ほどまでの緊張状態が解けたばかりで。
その気持ちが、彼の投球に油断をもたらした。先ほどのは、すっぽ抜けに見せかけた球だった。しかし、今度は、本当にすっほ抜けたのだ。
「!」
強烈なライナーが、彼の真正面から、ぐんぐんと上がって、伸ばした手のグラブを弾いて行く。センターとレフトが追いかける。彼らの間に落ちたボールを、手にしたのはスクェアだった。
一塁は、間に合わない。即座の判断で、二塁へ送るが、間に合わなかった。
「ラビイさん」
タイムを取って、ヒュ・ホイがマウンドにやって来る。
「あるチャンスと言えば、チャンスですよ」
「チャンス?」
「いっそ、この試合、延長戦に持って行きたいですね」
「…な」
ふふ、とヒュ・ホイは穏やかに笑う。
「このまま守りきって勝てればいいけど、そんなに相手は甘くないし、もし負けたら、ここで僕のベースボールは終わりですから」
「ってお前」
「食べて行けないことには、いくら大好きなベースボールでも、駄目ですよ。家族を養わないと」
「…って、お前、家族持ちだったの?」
まるでマウンドの上のバッテリーの会話ではない。しかしヒュ・ホイはにっこりと笑う。
「僕の惑星は、結婚が早いんです。子供も居ます。だからこれが最後のわがままなんですよ。だから、どうせ負けるなら、延長限度まで、僕は、したいなあ」
「…おい」
どう言ったものか、とマーチ・ラビットは顔を歪める。
「だからこの回は、気楽に行きましょうね」
ひどい脅しだ、とマーチ・ラビットはため息をつく。そして苦笑する。
「延長は、俺は嫌いだよ」
「ラビイさん」
「俺達は、勝って、そしてお前はずっとベースボールをするんだよ。いいか?」
ぽん、とマーチ・ラビットは、プロテクターごしに小柄な相方の肩を叩いた。そしてほら行け、と手を振る。
守備位置に戻って行く捕手の背を見ながら、彼は、自分の中で何かが浮かび上がってくるのを感じていた。すべり止めのロージンバッグを手にしながら、流れ込む何か、に彼は自分の思考と身体を任せていた。
大好きなベースボール。自分にとっては、生きてくため、だった。
でも、最初はどうだったろう?
マーチ・ラビットは流れていく思考の中で、その瞬間を掴もう、と思った。
セットポジションから、第一球。インコースすれすれの、ストレート。見逃し。
穏やかな日差し。豊かな実り。暖かな風。むせ返るような緑の匂い。
青い空。
ぱっぱっ、と無意味にも思える光景が、彼の中で浮かび上がっては、過ぎていく。
ボールが帰ってくる。投げる。今度はど真ん中。速い球だった。
ぶん、と打者がバットを振る。その瞬間、走者はスタート。乾いた音が、響いた。打球が上がる。マーチ・ラビットはああ、という顔で空を見上げた。
「トマソン!」
テディベァルは二塁に向かって、叫んだ。お、という顔で、真剣なメンバーの表情で、巨体の男は、意図を読みとる。頭を軽く引っ込めた。
とん、と彼は地を蹴った。そして、巨体の男の肩をも、蹴った。
ぱし、と音が響いた。
「ああっ!」
二塁から三塁を蹴り、ホームへと走り出していた走者は、その途中で、足を止めた。
2アウトで、ダイレクトキャッチだったら、それはもう。
「何であの球が、取れるんだよ!」
叫んでも、後の祭りである。
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