第30話 「生きていればあなたくらいじゃないかしら」
思わず前の座席を握りしめていた。
キディはその姿がグラウンドに飛び出してから、ずっと、オペラグラスから目が離せずにいた。
「調子良かったのに、交代とはなあ」
イリジャはぼやく。
「だけど審判にその調子では仕方ないわね」
と横の女性も言う。だがキディにはそのどちらの言葉も耳には入っていなかった。
マウンドに立つ、あの男は、一体誰なんだ?
あのグラビアの中にヒーロー然として居た男の姿がだぶる。似ている。あのユニフォームの配色が、コモドドラゴンズのD・Dの姿に。
「……お」
第一球がいい音を立てて、捕手のミットの中に飛び込んだ。一番打者のボトキンは、それを見送った。
マーチ・ラビットはちら、と一塁を見ると、第二球を投げる。長身の彼が、思い切り振りかぶって投げる姿は、豪快で―――キディは思わずレンズ越しに見惚れた。
第三球。結局ボトキンは、三球のど真ん中ストレートを、手も出さずに見送った。
「何やってるんだろうなあ…… サンライズの先頭打者ともあろうひとが」
イリジャはつぶやく。
「そうよね。先頭打者は戦闘打者というくらいだし」
そんな言葉あっただろうか、とキディは頭をかしげる。オペラグラスから目を離して、手元の紙コップを取ろうとする。
「あ、もう無い」
「何か買ってくるか? 飲み物。ポップコーンなんかもあったぜ」
イリジャは立ち上がる。
「いいよ、もうじき売り子ちゃん達も回ってくるだろうし……」
「喉乾いてんじゃねえの? 俺ちょっと、トイレにも行ってくるからさ、ちゃんと俺の場所、確保しといてくれよ」
あ、と言う間も無く、イリジャは通路の階段をとっとと上がって行く。するとふと、キディは何となく落ち着かない気持ちになっている自分に気付いた。
そんなにイリジャを頼りにしている、という訳ではないのだが、どうもこの女性には、ちょっと距離を置きたい衝動にかられるのだ。別段彼女が嫌な訳ではない。ただ、落ち着かないのだ。訳もなく。
「あっという間に3アウトだわ」
彼女はフィールドを食い入る様に見ながら言う。
「あっと言う間、でしたか?」
「そうよ。ああ見ていなかったのね。二番も三番も、ほとんど皆見送りだったわ」
「……え」
それは妙だ、と彼は思う。
「何でそんなこと、するんでしょう? だって、最初の投手には」
「どうなのかしらね。でも、何となく、一番から三番まで、皆投手の方はじっと見ていたようね。あのラビイという名の投手」
「……そうですか?」
「球より、あれじゃまるで、投手そのものを見ているようにしか思えなかったわよ」
彼は思わず自分の顔がひきつるのを感じた。彼女の言葉に何かつなげようとするのだが、その言葉がどうしても見つからない。
代わって出てきたのは、こんな言葉だった。
「それにしても、本当に、野球お好きなんですね」
話題をそらす。癖になっているのだ。
「ええ。息子が好きだったの」
「息子さん、ですか?」
「でももう居ないのだけど」
あ、と彼は思わず声を上げる。彼女はそんなキディを見て、口元を上げる。
「別にいいのよ。ちょっとやんちゃすぎた子でね。でももう、今会うことができたとしても、子供だなんて、言えない年齢だわ」
「あの、歳伺っていいですか?」
「あら、女性に歳を聞くの?」
「いえ、―――あの、その息子さんの」
「そうね………… 居なくなった時が、17だったかしら。生きていれば、もう……そうね、あなたくらいじゃないかしら。あなたおいくつ? 24か5、くらいに見えるけど」
「だいたいそのくらいです」
「あら、自分の歳にそのくらい、も無いでしょう、男のひとが」
キディは苦笑して、それには答えなかった。
「はじめは夫よね。ベースボールが好きだったのは。私はそうでもなかったわ」
ああまた過去形だ、とキディは思う。今は、居ない、ということだろうか。
「一人息子でね。私も彼も、色々仕事で忙しかったのだけど、それでも何とかと一緒に居る時間は作って、できるだけ、いい環境にしてあげようと思ったわ」
「いいご家庭だったんですね」
「そうかしら」
「そう聞こえますけど」
彼女はふふ、と笑った。その時、カーン、と音が聞こえた。
「あら、打ったわ」
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