間章

1. サンディ来襲


 五公代理リアナ卿の誓願騎手、ロールは疲れきって我が家にたどり着いた。

 精力的に動きまわる主人あるじの先回りをして諸処しょしょの手配をし、護衛として彼女の身辺に注意の目を光らせ、秘書がわりに文書の推敲もする。そういった業務での体力的な疲れもあったが、憂うつの原因はそれではなかった。退勤まぎわにリアナから言われたひと言が、重くのしかかっていたのである。


『あなたもそろそろ、後任を探してもいいんじゃない? 団の職位もあがって、仕事も忙しくなってきたみたいだし』と、彼女は言ったのだ。なにげなく、まるで明日の予定でも相談するかのように。

 ロールはショックだった。

 要は、随身ずいしんとしての職務をやめるよう勧めてきたのだ。誓いを立てて二年近く、身をにして働き彼女に尽くしてきたのに、この仕打ちとはやりきれない。


 町ゆく男女がみなふり返るほどの美貌をうれいに曇らせ、ロールは特大のため息をつきながら自宅に入った。いくつかの屋敷が隣接して続き、内部でも区切られて玄関でわかれる形式の、下級貴族向けのタウンハウスだ。

 玄関ホールに足を踏みいれて、またため息を深めた。水を吸った騎手用のオーバーコートが、死んだ熊のように床に広がっている。今日は昼過ぎに雨が降ったから、ニービュラが脱ぎ捨てたのだろう。その隣には、レインブーツやら、ほかの濡れた衣類が。


 拾って片づける元気もなく、ロールはそのまま居間に入ろうとしてまたぎょっとした。ドアノブに、女性ものの下着がぶら下がっていたのだ。絹のビスチェの紐部分が、申し訳なさそうに垂れていた。

 なかに入ると、居間はさらなる惨状だった。

 貴族とはいえ、独身男の一人暮らし。暖炉のある居間は食堂を兼ね、たいした広さではない。その居間には、ニービュラの服やら靴、出前の食事が入っていた陶皿、編籠のついたワイン瓶、ロール自身の仕事道具や剣、防具、洗濯屋が持ってきてくれた替えの長衣ルクヴァなど、あらゆる生活用品が散らばっていた。


 元凶のニービュラはといえば、ひとつしかないソファを占拠して毛布ケットにくるまり、そこから白い腕をにゅっと伸ばして、ロールが買い置きしていたプレッツェルをぼりぼりとむさぼっていた。手のとどくところにワイン瓶もあり、どうやら今日もやけ食いに余念がないらしい。デイミオン王のもとを出奔しゅっぽんしてきてから、姉はずっとこの調子だ。


「この、邪悪なリスめ」

 ロールは悪態をついたが、疲れて帰ってきて姉とやりあう体力は残っていなかった。ソファを取られていたのでダイニングの椅子に浅く腰かけ、食卓に長い脚を放りだしてブーツを脱いだ。あまりに疲れていたし、部屋はもう十分に汚かったので、心おきなくブーツをそのへんに投げ捨てた。


 腹は空いている。が、食べるものもろくにない。長衣ルクヴァのかくしをあさると、昼に食べそびれていたサンドイッチが出てきた。リアナのお手製サンド(パンに辛子バターを塗って、ハムとチーズをはさむだけ)は包み紙のなかで干からびかかっていたが、ワインといっしょになんとか流しこんだ。


「リアナさまでさえ、料理をするようになったのにな」

 そうぼやくと、ソファのほうから怨嗟えんさに満ちた声が返ってくる。「なによそれ、女は料理でもしてろってこと?!」

「そうは言ってないだろ……」

 どこをどう取ったら、そんなねじ曲がった解釈ができるんだ。ロールはあきれかえった。


 トマナとアマナがいた時は、こんな惨状ではなかった。二人は有能な母親だし、使用人がいなくても屋敷を完璧に磨きあげ、あわせて六人もいる子どもたちをてきぱきと世話し、おまけに他人の乳児の面倒まで見ているのだ。ロールには、どうやったらそんな芸当が可能なのか、想像すらできない。……しかし彼女たちは、リアナからそれぞれの夫に官職を斡旋あっせんしてもらい、立派な住まいをもらって出ていってしまった。そして、絵本になりそうなほど幸福な家庭生活を築くのにいそがしく、不出来な弟妹ていまいのことなど忘れてしまったらしかった。


 疲労のなかにほろ酔いが混じりはじめ、なにもかもどうでもよくなってきた。どこからか見知った〈呼ばい〉の感触がしたが、それすらもどうでもいい。二人は防犯にはまったく無頓着だった。実家は貧乏で、盗まれそうなものはなにもないし、家の中には黒竜のライダーが二人もいるのだし。

 ホールのほうからノックの音がしたが、ロールはそれも無視した。

「誰か来たんじゃないの」

 ニービュラが投げやりに言い、ロールもおなじくらい投げやりに返した。「隣とまちがったんだろ」


 だが、間違いではなかったらしい。ノック音はさらに激しくなり、しびれを切らしたようにドアが開いてなかに入ってくる足音がした。

 どすどすと大きな、その足音だけで、ロールは誰がやってきたのかわかってしまった。


「なんだ、このごみ溜めは」

 それが、サニサイド・エクハリトスの第一声だった。


「サンディ」ロールはぼんやりと親友を見あげた。

 黒髪と際立った長身。竜騎手団の制服を、自分好みに仕立て直させた長衣ルクヴァ。まさに、『きだめに鶴』と呼ぶのにふさわしい美貌の貴公子がそこに立っていた。


「サニサイド卿」

 毛布からぴょこっと金髪の頭を出し、ニービュラが顔を赤らめた。しおらしい声で淑女っぽく挨拶をする。

「久しぶりにお会いしますのに、弟がこんなに散らかして、すみません」

「おい」ロールは思わず声をかけた。「散らかしたのはそっちだろ。私のせいにするなよ」

「片づけるように言ってるんですけど、弟が聞かないんです」

「おい」


「だらしのない女は滅びろ」サンディが冷たい目で一喝した。


 それ見たことか。思わず「ぷくく」と笑うと、「おまえもだぞ、ロール」とにらまれる。

「団にも顔を見せないし、どうしているのかと訪ねてきてやったら……なんなんだ、このひどいありさまは」

 あきれかえったサンディに、「ちょっと忙しかったんだ」と言いわけする。

「ニービュラも転がりこんできて、荷物も二人分あるし」


 そんなつたない言いわけに、サンディは心動かされた様子はなかった。

「こんなごみ溜めに棲んでいるから、精神が歪んで軟弱になるんだ。手伝ってやるから、今すぐ片づけろ」


「えー」

「ええー」

 双子はそろって不服の声をあげた。

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