人違い

へろおかへろすけ

人違い

 ある昼下がりのカフェにて、一人コーヒーを飲み一息入れている男を見て、隣に座る20代前半くらいの若い女は、なぜだか口元を手で覆い、驚嘆していた。


「え!? うそ……やだぁ! えぇ!?」


 男はなぜ自分を見て女が驚いているのか分からず、気まずさを覚えながらも、ただ黙りコーヒーを啜っていれば、遂には女が喋り掛けてきてしまう。


「あ、あの……すいません。南極北彦先生ですよね?」


 恐る恐るそう男に尋ねる女の目には、たしかな期待が見て取れた。

 男は、南極 北彦という名に聞き覚えがあった。

 これまでいくつものヒット作を世に排出してきた有名な著名人である事だけは、ニュースなどで聞いた事はあった。

 だが男は、南極北彦の本を読んだことはなかった。


――自分と南極北彦の顔が似ているのだろうか。

 なんて疑問を抱きながら、男は若い女に対し、紳士的な対応を取る。


「いえ、違いますよ。僕は南極北彦ではありませんよ。」


 そう男が否定すれば、なぜだか女は眉根を寄せ、一頻りなにか考えた後、笑顔で口を開いた。


「私、先生の凄いファンなんで、大丈夫ですよ!」と。


 男には、女が何を言っているのか分からなかった。

 首を傾げながらに男は聞く。


「なにが……大丈夫なんですか?」


「私、南極北彦先生の作品、全部読んでるんです! 処女作の『限りなく童貞に近い喪女』は本当に最高でした!」


「……いやだからですね、僕は南極北彦ではないんですよ。作家でもないんです。一、サラリーマンなんです。えーと、その『限りなく童貞に近い喪女』?でしたっけ、その本の名前も初めて聞きましたし……。」


 そう男が丁寧な言葉で否定を重ねるが、興奮した女の耳には何も聞こえてはいないようだった。


「本当に悪いなとは思ってるんです。先生の大切な休憩を邪魔してしまって……。でもでも!本当に先生のファンで!それだけはどうしてもお伝えしたくって!」


 目を爛々と光らせ凄い熱量を持って人違いを押し通す女に対し、男は思う。

――めんどくせぇな。と。

 そう思ってしまったからなのだろうか、男はついつい場を流そうと軽口を叩いてしまった。

「……ありがとうございます。」と。


 その言葉を聞いた途端、若い女は頬を紅潮させ、グッと男に体を近づけた。


「やっぱり南極北彦先生なのですね! やっとお会いできた! もう本当に私ファンで、『M性感@deep』シリーズ最高ですよ! あとあと短編の『西の方でハエが死んでた……。』も大好きだし、最近お出しになられた、『北島、ナマポ打ち切られたってよ』は、社会に喝を入れる作品で、もう!本当に!大好きなんです! 南極北彦先生のお書きになられる作品が!」


 そう早口で、興奮し鼻息荒く言う女に、男は引いていた。

 これは流せるものではない。と、直感的に悟った男は素直に謝罪する。


「ごめんなさい。ありがとうございますと言えば、この場が流れるかなと思い言ってしまいました。本当に僕は、南極北彦じゃないんです。というか一冊も読んだこと無いので、マジで全くあなたがなに言ってるのかも分からないです」


「いいんです、もう分かってますから……。先生はそう言うしかないお立場だっていうことは重々承知です。だって――」


「だって、なんですか?」


「だって先生、覆面作家ですもんね」

 そう若い女は悟った風な表情で言った。


「覆面作家って、あの……素性とかほとんど分からない作家のことですよね?」


「はい。」


「じゃあ、南極北彦の顔をあなたは知らないわけですよね?」


「はい。」


「えーと、なんで僕が南極北彦だと思ってるんですか?」


「なんとなくです。ヒーリングというか、勘の様なものですね」


――なんでこの子、こんな僕の質問にそれがさも当たり前かのように、あっけらかんとした感じで答えられるんだろう。

 電波ちゃんなのかな?

 男は、若干引いていた。


「勘の様なものって……。外れてますよ、あなたの勘」


「もういいんですって、否定しなくても! 大丈夫です! 私、誰にも言いません! だからサインください!」


 なにも進展しない問答に、男は多少の苛つきを覚え、少しばかり語気を強めてしまう。


「いやだからッ何度も言うように僕は南極北彦ではないんですよッ。サインとか求められても困りますし、というか、覆面作家にサイン貰うって……全然隠す気ないじゃないですかッ」


 そう男が指摘すれば、女は暗い表情で俯いた。


「……確かに先生の言うとおりだわ。私、自分の事ばかりで、全然先生の事情を考えていなかった。もうホントバカッ私ッファン失格だわッ」


「……知りませんよ。」


 男は冷たくあしらった。

 しかし、若い女はくじけなかった。


「あ! それはそうと、映画化おめでとうございます!」


「なんですか、映画化って」


「もう惚けちゃって、照れてるんですか!?」


「照れてませんよ。なぜだか教えてあげましょうか? 僕が南極北彦じゃないからです」


「でも、まさかあの名作『朝も早から肉焼けマッチョ』が、実写映画化するなんて、夢にも思っていませんでしたよ!」


「なんだよ『朝も早から肉焼けマッチョ』って……勝手に焼いて食ってろよ……。さっきから思ってたんですけど、南極北彦の作品名、クセありすぎませんか?」


「そこが良いんじゃないですか! 南極北彦先生の作品は一癖も二癖もあって、読み飽きないんですよ!」


「癖しかない気がしてならないのですが……。」


「あの作品も良かったなー。『時を遡りたい熟女』」


「バブルと寝た女の話かな?」


「『ヘソの緒は。』」


「親が持ってんじゃねーの?」


「『通天閣 歯なしのおっさんとキチったばあさんと、時々、ラリッた兄ちゃん』」


「なに、ノンフィクション?」


「『本番交渉はマッサージの後で』」


「出禁になればいいッ」


「『ペド戦記』」


「せめてロリにしとけよ」


「あとは……」

 若い女は虚空を見上げ、これまで南極北彦が執筆した作品名を思い出そうとしていた。

 そんな女に対し、しびれを切らした男は声を荒げる。


「もういい加減にしてくださいよッ。何なんですかさっきからッ。この後、大事な商談があるんで僕はもう行きますよッ」


 若い女は焦った表情で男の腕を掴み、引き止める。


「そ、そんなッ。待ってくださいよ、南極北彦先生ッ」


「だからッ僕はッ南極北彦じゃねーッ」


「最後にッ最後に一つだけお願いがあるんですッ」


「……なんですか?」


「後生大事にするんでサインください!」


 あまりにもめげない妄信的な女に、ついに男はあきらめた。

 男は無言で、若い女に手渡された色紙にサインを書き殴った。

 女はサインを暫く見詰めた後、男に聞いた。


「あの、『山下 卓』って書いてあるんですけど……これって――」


 ようやく自分が南極北彦ではないと分かってくれたのかと、男は安堵し、言った。


「そうですよ、僕は山下 卓ですよ」


「これって……本名ですか!?」


 男は、大きな溜め息を吐いた後、声を荒げる。


「当たり前だろッ」

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