第3話 通学路にて
家を出てから10分後、僕は学校までの通学路の中間というところまで来ていた。
周囲にはちらほらと同じ学校の制服に身を包んだ人達や通勤中のサラリーマン、健康維持のためにランニングに勤しむご年配の方などが視界に入るようになる。
一日の幕開けを肌で感じた。
そして、僕の足がそれにかぶせるように限界を激しく告げてくる。
「ぜぇ、はっ…ぜぇ、はっ…ん、いや、流石にもう限界だ」
僕は動かしていた足の回転を徐々に落としていく。
ランニングからジョギング、そしてウォーキングへと段階を踏んで足を止めた僕は、肩で息をしつつ、深呼吸をして体を落ち着かせる。
「ふぅ、疲れた。朝から走るのは辛いから明日は気をつけよ」
それに、変な目で見られるのは恥ずかしいしね。
走っている最中の記憶を思い出して一人反省会をした僕は、額から滴り落ちる汗の粒を拭き取るため、バックの中からタオルを取り出そうと顔を向けた。
と、その耳に、だっだっだっと何者かが駆け寄ってくる足音が入ってきた。
「ん? 誰---ー」
何かが空を切る音が耳の中を駆け抜けた。
すると、次の瞬間。
「おはよう!! 勇気!」
「いてぇぇぇぇ!!!」
振り返り、接近してきた人物の正体を目視しようとした僕に放たれたのは、元気な朝の挨拶ひとつと、凄く重量のある張り手だった。
清々しい朝から、その雰囲気をぶち壊して僕にこんな接し方をしてくる奴はこの世に一人しかいない。
「楓!! いつもやめてって言ってるじゃないか!」
「あはは。だって、勇気っていじるとオーバーリアクションしてくれるから面白いんだもん。やめられないとめられないって感じ?」
かっぱえびせんかよ。確かに背中を叩いた時と音が似ている気もしなくもないけど。
僕は涙目で背中をさすりつつ、非難する言葉を発するが、楓はたははと笑うだけで悪びれる様子はなく、話を続ける。
「そんなこと言って本当はこんなにかわいい幼なじみに相手してもらえてうれしいくせに。運命の采配で、幼なじみになれなかった人にはない特権だよ、特権」
毎回、背中を全力で叩かれる特権なんてのしつけて返却してやりたい。
「自分で可愛いとかいうのかよ。いや、確かに楓は傍目で見ても可愛いと思う、けど」
「可愛いのは認めてくれるんだ。ありがと」
ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて、僕の顔面を見つめる楓。
恥ずかしくなり、僕はごまかそうと捲し立てる。
「じ、事実なんだからなんにも恥ずべきことなんてない。むしろ、好きなことを好きといえない、そして笑うような世の中がーーーー」
「はいはい、分かった。それで、けど?」
楓は取り乱す僕を軽くいなして、手のひらを向けて話の先を促す。
完全に手のひらで踊らされている。
こういう心理的な、コミュニケーションの攻防では勝てないなぁ、僕。
軽く咳ばらいをして、気持ちを落ち着かせて発言を続ける。
「んっ…その性格と僕に対する仕打ちとかでマイナスに振り切れそうだし、何より」
僕はそこで発言を区切ると、両目で楓の上半身をなぞるように観察する。
髪型は橙色のショートカット。顔つきは全体的に引き締まっている。大きな瞳は彼女の内面からにじみ出る元気さと爛漫さを感じさせ、口元はぷくりと瑞々しく膨れていて、発展途上の女性の色気を醸し出している。
梅原楓という女性を有体に評価すれば、美少女ということになるのだが、残念ながら、決して完全無欠の美少女というわけではない。それは二重の意味で。いや、二重の側面でって言ったほうが正確か。一つ目は言うまでもなく、僕に対する仕打ち。これは精神的な欠陥。もう一つは……
僕は上半身の最上部に向けていた視線を中部に向ける。そこにあるのはいわゆる二つの果実。俗称だと、おっぱい、になるんだけど、そこにはーーーー
「ひんーーーー」
「勇気~? どこを見て、なにを言おうとしてるのかなぁ? ん!?」
僕の顔を下から覗き込み、もの凄い眼光で、けれどもニコニコした笑顔で楓は遮ってきた。
こわい。顔は笑っているのに目が猛獣のごとき鋭さってどうなってんの。
命の危機を覚えた僕は、「いいえ、なんでもございません」と当たり障りのない返答をして、呟きかけていた言葉を胸の内にしまう。
こっそり内心で楓がド貧乳なのは周知の事実だけどね、と呟いて秘密裏に抵抗する。
すると、
「勇気~? なにか心の中で私に対して失礼なこと考えてない?」
なぜか、バレた!? 読心術!? それとも、僕ってそんなに思考が読みやすいのか。
「べ、別に考えてないよ!? いやー僕に対する態度がもう少し優しいものになれば恋愛対象になるのになぁって思っただけだよ。ほんとほんと」
「取り乱しすぎだし、やたら饒舌すぎてむしろ怪しいよ、勇気」
呆れたような表情を浮かべて、どこか可哀そうなものを見るような目を向けてくる楓に、僕は「そんなことないんだけどなぁ、あはは」とぎこちない愛想笑いを返す。
空虚な笑い声が喧騒の歯車が回り出した街に響く。傍を通過する近隣住民の奇妙なものを見るような目が非常に痛くて精神がまいってしまいそうだ。
などと、僕が羞恥心に耐えていると、楓ははたと何かを思い出したような顔つきになり、打って変わった恥じらいで顔を朱に染めながら尋ねてきた。
「と、ところでさ、勇気。ちょっとききたいことがあるんだけど、いい?」
「う、うん。なに?」
雰囲気が一変した楓に、僕もいくらかドキドキしながら応じる。
「えっと、その、私の勇気に対する態度がもう少し優しいものに変われば恋愛対象になるってほんと?」
どこか不安げな表情で問いかけてくる楓。その瞳はうっすらと水滴で潤んでいる。
そのいつもと違う様子の楓を見た僕は心がかき乱される。
楓とは小学校の時の登校班からの腐れ縁だ。いつも僕の手を引いて振り回し、登校中に何度転んでけがをしたかわからない。先生に怒られても、その性格が変わることはなく、僕は保健室の先生に「また来たのね」とぼやかれてしまうほどの常連さんだった。
だから、僕にとって、楓は女友達というより親友に近い。いつでもそばにしてくれるかけがえのない人。
幼なじみであり、そして親友。
そう楓を認識している僕は彼女のことを恋愛対象として見たことがない。
加えて、普段のもてあそぶような態度もそれに拍車をかけている節があるので、楓本人にも原因はある。
けど、今の楓は弱弱しく触れたら崩れてしまいそうなはかなさを覚える。乙女の色が差した楓に、僕は不覚にも庇護欲をそそられてしまった。
だから、冷静さと思考力を奪われた僕はとりとめもない言葉を溢してしまう。
「そ、それは実際にそうなってみないと分からないかな? でも、可能性は否定できないというか、なきにしもあらずというか、まあ、その、うん、不確定って感じかな?」
「そうなんだ、じゃあ、私頑張ってみようかな」
楓は火照った表情でじんわりと湿り気を帯びた声を漏らすと、僕との距離を詰めるように一歩歩を進める。
至近距離に近づいた楓に対して、僕の心臓の鼓動が激しさを増していく。
「ちょ、楓。いきなりどうしたの。体が近すぎると思うんだけど」
「勇気、照れてるの? なら、私に対して少なくとも好意は持ってくれてるんだね」
「あ、当たり前だろう。そうじゃなかったらこの年まで一緒にいたりしないよ」
僕がそう言うと、楓は屈託のない笑顔を浮かべた。
その表情はとても魅了的に映り、僕の心に形のない温かい感情を呼び起こす。
僕は楓に知らず知らずのうちに惹かれていたのか?
僕が人生で初めての感情の発露で戸惑っていると、楓はおもむろに更に距離を詰める。
彼女の吐く温かい息が顔の肌を撫でた。
「じゃあさ、これからもずっと一緒にいようよ。幼なじみとしてじゃなくて、親友としてでもなく、学友としてでもなく、世間一般でいう関係として」
「楓……」
その提案がとても魅了的に聞こえてしまうくらい、僕の脳は理性を失いつつあった。
頭の中にあるのは、ただ、彼女のことを見ていたいという純粋な愛慕の情だけ。
楓は僕の肩をわずかに震える両手で優しく掴むと、僕の両目を見つめる。うっとりした表情の楓は艶やかで色っぽくて、僕の心の中で沸き上がり続ける感情を増幅させていく。
周囲の人々の無数の好奇の視線が向けられていることを直感した。いつもなら、恥ずかしくなり理性を取り戻すところだけど、今の僕の脳は麻痺してしまっているのできにすらならない。
風が吹く。街路樹の葉が揺れる音が僕の耳を抜けていく。
静寂が世界を支配する中、楓は目を閉じる。そして、短く、しかし明瞭な一言をぷっくりした口から漏らす。
「勇気。目を閉じて」
「う、うん」
いたく情けない声で応え、僕はおそるおそる目を閉じた。
視界が闇に染まる。
途端に不安が体全体を走り抜けた。目の前が真っ暗になれば人間は自然と心細くなる。
でも、僕の耳朶をかすかに揺らす、楓の吐息の音が不安な感情を中和していく。
僕はこれ以上ない安心感に包まれつつ、その時が来るのをドキドキしながら待つーーーー。
が、待てど暮らせどその感触が唇から伝わってこない。
あれ? おかしいなぁ。それに、いきなり楓の息遣いが聞こえなくなったぞ?
僕がそうやって戸惑っていると、突然、この桃色の空気に相応しくない機械音が響く。
パシャ!パシャパシャパシャパシャ!!!
その音で、僕の脳は急激に冷静さを取り戻す。
そして、そのまま今度は急回転を始めると、今の音の正体を探ろうと海馬を刺激し、僕の人生で蓄積された記憶から答えを引き出してくる。
僕にとっては知りたくもない答えを。
言うまでもなく、その正体はスマホのカメラの撮影音である。しかも、超高速連写。
全てを理解した僕は、やるせない気持ちを胸に抱えつつ、ゆっくりと目を開けた。
「ふっふっ、ハロー、勇気。ご気分はいかが?」
「最悪」
端的に今の感情を答える僕。なんなら、今すぐに穴に入って閉じこもりたい気分だ。
核シェルターっていくらするんだろう?
「あはははは!! これは、最高の一枚が手に入ってしまいましたなぁ。見てみて、この期待した顔、あはははは!! ウケる」
腹を抱えて、大爆笑する楓。呵呵大笑とはたぶんこういう笑い方を言うんだろうな。
こちらに向けられたスマホの画面には、顔全体を強張らせて目を瞑っている自分の恥ずかしい顔が写っている。
先ほどとは、違った理由で顔が赤くなっていうのを感じる。
とんでもない弱みを握られてしまった。時が経てば、それは黒歴史として僕の人生史に刻まれることになるんだろうな。
あーどうしよう、凄く死にたい気分になってきた。
だが、嘆き苦しむ前に僕にはやるべきことがある。
「楓。これは僕からのせめてもの、お願いなんだけど。弱みを握った人間がそれを無条件で手放してくれると思うほど僕は馬鹿じゃない。だから、消してほしいとはあえて頼まない」
「良くわかってるじゃん。それで?」
ちっ、同情心に訴えつつ、潔い姿勢を見せれば自発的に消去してくれると思ったのに。
仕方ない、次善の策で妥協するか。
「だからせめて、その写真を友達に送ったりSNSで拡散したりしないで欲しいんだ」
僕がそうお願いすると、楓はなぜかバツの悪そうな顔になった。
「あ……ごめん。それは無理。というか、一歩遅かったというか」
「はっ? それはどういう意味? ま、まさか、SNSで拡散しちゃったの?」
「いやや、流石の私でもSNSの怖さは知ってるし、本人の承諾もなしに顔の画像をアップしたりはしないよ」
「だよね。じゃあ、友達に送ったの?」
「いや、その……友達というか知り合いという可愛い後輩というか」
視線を所在なく彷徨わせて言葉を濁す楓。
「お、おい、ま、まさか」
僕は冷や汗を流した。
最悪の可能性が的中してしまう恐怖に、言葉の端がかすかに震えてしまう。
楓は勢いよく両手の平を重ね、首を傾けて、腹立たしい小悪魔スマイルを作って言った。
「ごめん、瑞希ちゃんに送っちゃった。てへぺろ」
「それはやっちゃダメでしょぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?!?」
僕の全力の絶叫が町に響き渡った。
周囲の人たちの痛い人を見るような哀れみの視線が、今はむしろ心地よかった。
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