第2話 相葉家の朝

「おはよう」


自室を後にした僕は階段を下り、正面にあるリビングに入る。


部屋の中には、母さんと制服姿の瑞葉がいた。母さんは台所で洗い物をしていて、一方の瑞希はテーブル座ってスマホを片手にテレビを見ている。


その横には僕の分の朝食が並べられているが、茶碗やおかずの卵焼きからは湯気が立ち昇っていない。


「おはよう、勇気。早く降りてこないからご飯冷めっちゃってるわよ。どうする、電子レンジで温めなおす?」


「いや、いいよ。僕、猫舌だからほんのり温かいくらいでちょうどいいし」

 

聞かれた僕がそう言葉を返すと、「猫舌だったの? でも、昨日の夕食に出た温玉うどんはすぐに口をつけていたがするんだけど…あれあれ?」と母さんは混乱して

いる。


まあ、僕は別に猫舌ではないしご飯は熱々で食べたいタイプだけど。


それよりも、僕には冷静にかつ早急に解決しなければならないことがある。


僕はリビングの扉の前からテレビを迂回するように移動して、自分の指定席の前にたどり着く。ちらりと横目で瑞希の様子を確認すると、どこか不機嫌な雰囲気を漂わせて、テレビに映る人物を凝視している。


これはどう見ても怒っていらっしゃるなぁ…。


「あの…瑞希さん?」


僕は席に腰掛けつつ、おそるおそる声をかける。


「……」


無視。顔どころか視線すらこちらに向けず、変わらずテレビを見つめている。


これは取り付く島もない状態だ。どうしたもんかな。


「もしもし、瑞希さん。約束を守らなくてごめんなさい」


「……」


「あの……すいません。そろそろ何か反応を示してもらえないでしょうか? お兄ちゃん、非常にいたたまれない気分になってくるのですが……」


「うるさい。私、芸能ニュース見てるの。耳障り」


時空の歪みにでも吸い込まれてしまったのかと僕が現実逃避を仕掛けた時、

ようやく気だるそうに振り返り、あからさまに不機嫌な表情で瑞希は答えた。


相葉瑞希。僕の血の繋がった実の妹。


容姿端麗、眉目秀麗、才色兼備、文武両道とはいかないが、それでも通う市立桜ノ宮中学では成績も上位に入るぐらいの実力があり、僕以外に対しては人当たりがよく面倒見がよいため人望厚く友達も非常に多い優秀といって差し支えない自慢の妹だ。

また、容姿も身内びいきなしに整っている。顔はすらりと引き締まっているし、顔のパーツの配置も悪くない。くりくりした大きな目が可愛らしく、たぶん同じ中学に通う男子たちは悩殺されているのではないだろうか。そして、悩殺された男子たちの視線はその下にある双丘に目が移る。決して大きいわけでもないが小さいわけでもない、幼さを残しつつ大人の妖艶さを放ち出し始めた林檎に、思春期真っ盛りの中学男子が目を奪われないはずはない。


要するに、僕の妹はいわゆる美少女というやつだ。


僕の前ではいつも、そして今もツンツンしているので僕には想像もできないけれど。


「それで、何の用なの。私、今とても気分が悪いんだけど」


「いや、さっきはわざわざ呼びに来てくれたのにすぐにいかなくて申し訳ないと思ってさ」


「別に気にしてないけど」


瑞希はさらりと呟く。


「え?」


「なに? まだなんかあるの?」


「いや、ないけど」


「そう」


興味無さそうな顔で瑞希は言うと、体をテレビの方に戻した。


会話が終了し、喫緊の課題が解決?した僕は、さらに冷めてもしまった朝食を食べ始める。

箸を手に取り、卵焼きに掴んだところで、もう一度、背中を向けた瑞希に声をかける。


「瑞希? やっぱりひとつだけ聞いていい?」


「なに?」


「なんでさっきは不機嫌だったの? 僕の事が関係ないならどうして?」


僕がそう尋ねると、半身でこちらを振り返ってから右手でテレビ画面を指差した。


指先を追って視線をそちらに向けると、『大人気の新進気鋭のアイドルが引退宣言!! その真相とは!?』とデカデカとテロップが表示されていた。


僕はそれを見て、全てを理解した。


「なるほど。瑞希が大ファンだったアイドルが引退するから気分が悪くなってたのか」


「それだと5割しか合ってない」


九分九厘合っていると思ってたんだけど違うの!?


「じゃあ、残り5割は? 僕の失態が原因なの?」


「兄貴のことははっきり言ってどうでもいい。不快感の燃料の一部にさなったかもしれないけど、割合でいえばちり。私がイラついてるのはこの人達の言葉」


ちりって。ちり発言には流石に傷つくよ。


「この人達って出演してるコメンテーターとか評論家とかのこと?」


僕が不意のダメージを癒しつつ質問すると、瑞希は心底呆れた表現を浮かべた。


「当たり前でしょ。何、兄貴には幽霊でも見えるの?」


「いや、見えないけど。念のために確認しただけだよ」


「まあ、いいけど。でさ、話は本題に戻すけど、この人たちってなんでこんなに上から目線なわけ?」


「それはやっぱり、その業界の専門家だからじゃないか? ほら、肩書にそれ関連の経歴が書いてあるじゃないか?」


僕が自分の意見を言いつつ、テレビの画面に映っている男の人を指さす。そこには、神音エンタープライズ株式会社の代表取締役だとかエンターテイメントレボリューション学園の理事だとか華々しい地位が付いている。


瑞希はそれを見て、「それはそうなんだけど」と一定の理解を示しつつも、納得はいかないようだ。


「でもさ、ケースバイケースっていうかこの人の意見が絶対に正しいわけじゃないでしょ。桜ちゃんが引退するって決断した理由とかそれまでの経緯とか知りもしないくせに、なんでこんなに偉そうに言えるの、こいつ」


瑞希のいう、桜ちゃんとは大人気アイドルとして活動していた皆星桜のことだ。僕は詳しくは知らないが、歳は僕と同い年の16歳。引退宣言前までは他の追随を許さないくらいの人気ぶりで、彼女の歌う曲は常に最新アイドルオリコンのトップ10を総なめにしていた。


瑞希はそのアイドルの大ファンらしく、部屋にはグッズやら写真集やらが大量にある。


大好きな人を辱められて瑞希さん、非常にイライラしているなぁ。可愛い顔で舌打ちの乱れ打ちしてるし。


とりあえず、話を聞いてあげて気持ちを落ち着かせよう。


「まぁ、あれだよ。テレビに出演しているから何かしらの専門家としての意見は言わないで欲しいだろうし、これは本当かどうかはわからないから想像の域を出ないけど、視聴率を取るために見ている人が求めている意見を言うようにお願いされているのかもしれないし」


「そんなの言われなくても分かってるし。でも、むかつくの。話している内容もそうだけど、なんなのこの態度。まるで他人事みたいにさ」


司会者のアナウンサーに意見を求められ、あれやこれやと語っている評論家を睨みつける瑞希。

ふと足元を見ると、ガタガタと激しく左足を上下させている。苛立ちが蓄積されているようだ。

と、そこで僕は瑞希の言葉に引っかかりを覚える。


「ん? 他人事みたいに?」


「そうだよ。この人、桜ちゃんの所属していた事務所の社長なの。そして、桜ちゃんの元マネージャ。この人が大出世できたのは桜ちゃんの大成功のおかげなの。なのに、この人はさも他人事のように語るの。それが私はムカつく」


「なるほどね。そういうことか。それは瑞希には許させないだろうな」


瑞希の言葉を聞いて僕はようやく彼女の怒りの理由がわかった。


僕の前ではツンツンしていることが多い瑞希だが、友人や他の家族の前では非常に優しい人間なのだ。母さんの家事の手伝いはするし、父さんの肩もみもする。同じ中学に通う友人が困っていたらためらうことなく手を貸すらしい。以前、家に遊びに来ていた友人らしき女の子達の会話が偶然耳に入ってきて知った。断じて盗み聞きしたわけではない。


つまり、瑞希は真面目で正義感の強い女の子なのだ。弱きを助け強気を挫くを体現するタイプなので、テレビに映る男の態度は非常に琴線に触れるのだろう。


「一番辛いのは桜ちゃんのはずなのに。大好きなアイドル活動を理由は分からないけど辞める決断をして、今までの努力が全部泡になっちゃって」


「うん」


「それなのにこの人はまるで他人事みたいに語って。一番近くにいた癖に桜ちゃんの悩みや苦しみに気づいてあげられなかったくせに、今も平然とした顔でテレビに出て被害者面して。私はこういう人間が一番嫌いなの」


「知ってる。それは、とても知ってるよ」


熱く自分の気持ちを吐露する瑞希に僕は頷く。そして、だから、僕のことも嫌いになったんだよね、と内心で呟く。


あの事故以来、僕は座右の銘「平凡に、リスクを回避して平穏無事に生きる」を体現するために、まさしくどこにでもいる平凡な人間として身の回りに起こるトラブルからもトラブルの発生する人間関係や場所も避けて生きてきた。それは僕のことで、両親はもちろんのこと、特に僕に甘えてきていた妹を悲しませないために。


事件の一報を聞いた瑞希はそれはそれは大泣きをしたらしく、その事を母さんから聞いた僕は心を痛めた。なんてことだ、大切な妹を悲しませてしまうなんて、と。


だから、僕あの日を境にしてあらゆるトラブルや挑戦を避けてきた。


でも、僕の気持ちや決意は真面目な瑞希にとってそのような後ろ向きの姿勢は許せないようで、僕の気持ちとは裏腹に、僕たちの兄妹の仲には深い断裂が生じてしまった。


だから、迂闊に同意したりすると、


「は? 兄貴に何がわかるの? 挑戦も冒険もしようとしない弱腰人間に。私、そうやって軽々しく意見を合わせてくる人間も嫌い」


「すみません」

 

瑞希の怒りの火炎を受けることになる。何度もやらかしてるのになかなか学習しないね、僕。

と、そこへ


「瑞希、勇気~。そろそろ学校に行く準備した方が良いんじゃないの?」


台所で一仕事を終えたらしい母さんが紅茶のティーカップを片手に話しかけてくる。

その声に反応して、リビングに掛けられている時計に視線を向けると、時計の針はいつもの出発時間に差し掛かろうとしていた。


「うわぁ、もうこんな時間に!?」


焦る僕。僕の皆勤賞が高一の4月中旬で消えてしまう。


「じゃあ、私は先に出るから。ママ、行ってきます」


対照的に、瑞希は冷静に足元に置いてあった通学カバンを掴み、肩に掛ける。


席を立ち上がり、リビングの扉に向かおうと足を踏み出しかけた時、こちらを振り向いて短く一言。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。気を付けてね、瑞希」


笑顔で僕が言葉を返すと、瑞希は少し顔を俯かせてこくりと頷くと、リビングの扉を開けて出て行った。


その後ろ姿を見届けた僕は全く手を付けていなかった朝食を一気呵成に流し込み、そのまま洗面所に直行し身なりを整えると、陸上選手も顔負けのステップとフォームで階段を駆け上がり、制服に着替える。

ここまでのタイム。約10分。遅刻のフラグがにょきにょきと生えてきてはいるが、まだ焦るような時間ではない。登校中にトラブルさえなければ。


「じゃあ、母さん。行ってきます」


一通りの準備を済ませた僕は、リビングの扉を開けて母さんに声をかける。


テーブルの椅子に腰かけて、癒しの時間を満喫していた母さんは声に反応し、こちらに顔を向けると、温かな微笑を浮かべる。


「はーい。行ってらっしゃい。トラブルに巻き込まれないように気を付けて」


「うん、分かった」


僕は頷くと、リビングの扉を閉めた。


そのまま真っすぐ玄関に向かうと、学校指定の革靴を履く。


気合を入れて、玄関の扉を開けると、眩しく感じるほどの光が目に入ってきた。


「うん、今日はいい天気だ。さて、登校時間まであまりないし、少し小走りで行こう」


青空を見上げて、深呼吸をして新鮮な空気を十分に取り込む。体内に侵入した空気が全身を駆け巡るのを感じつつ、僕は力強く駆け出した。






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