十三 終焉の朝(2)

「先生、何をおっしゃられているの? 何か勘違いをなされているようですわね。わたくし、そんな鍵まったく知らなくてよ」


「御林君……」


 桜子さんの言葉を聞くと、少し悲しそうな顔をして先生は僕の名を呼ぶ。


 呼ばれた僕は無言でポケットの中から一本の古びた鍵を取り出し、それを彼女の方へと差し出した。


「それは……」


 その鍵を見た瞬間、桜子さんの表情が変わる。


「失礼かとは思ったのですが、事情が事情なので、先程、御林君に頼んで強引にあなたの部屋を探させていただきました。無論、不開あかずの間の鍵であることも確認済みです」


「まあ、ひどい。女子の部屋をそんな勝手に……御林さんもひどいですわ」


 桜子さんは怒っているのかいないのか、よくわからないような抑揚のない声で僕らの行いを非難する。


「す、すみません……」


 僕は後ろめたさに俯いたまま、彼女の顔を見ることができない。


「もう言い逃れはできませんよ」


「……ええ。そうですわね。確かにそれはわたくしが子供の頃、よく遊んでくださった菊枝様にいただいた不開あかずの間の鍵ですわ。今もいろいろ一人で物思いに耽りたい時などに、こっそりあの部屋を使っていることは認めます。ですが、先生。だからといって、わたくしが犯人だという証拠にはならないんじゃなくて? よしんば、わたくしが叔父様・叔母様の命を奪ったのだとしても、どうして実の妹である梨花子の命まで奪わなければならないの? それに、どうやってわたくしが梨花子の水差しに青酸カリを入れたとおっしゃるの? わたくしは皆さんとずっと一緒にいて、そんな機会は一秒たりとなかったはずじゃなくて? あの時、それができたのはやっぱり薫さんか、もしくは藤巻さんだけですわ」


 問い詰める先生に、鍵のことは素直に認めた桜子さんであったが、殺人の容疑については一切認めず、淡々とした口調で矢継ぎ早に先生に反論する。


「梨花子さんを殺さなければならなくなったのも、咲子夫人同様、後に梨花子さんも柾樹君に危害を加える可能性が出てきたためでしょう。それについてはですね、じつは御林君が盗み聞いていたりするんですよ。調理場であなたと梨花子さんが会話しているその中で、〝どんな手段を使っても柾樹君をこの家から追い出してやる〟とかなんとか、梨花子さんが言っていたのをね」


 さっきといい今といい、そんな風な言い方をしては、まるで僕が卑劣な人間みたいじゃないか……。


 デリカシーのない先生に、そう心の中でツッコミを入れたいようにも思うのだが、それ以上にいっそう強い後ろめたさを自分に感じ、やはり僕はただじっと黙って俯いていることしかできなかった。


 桜子さんは、どんな顔で僕を見ているのだろうか? ……気にはなるが、その反面、それを知ることがとても恐ろしく、今の僕には彼女の顔を見ることができない。


「水差しに青酸カリを入れたのも、なあに簡単なことです。あれは後から入れたんじゃない。最初から水差しに塗られていたんです。藤巻さんに聞いたところ、あの時、あの水差しはすでに台の上に出してあったとのことです。そうしておけば、いつものように梨花子さんに頼まれた藤巻さんがそれを使うのは明らか。食事の仕度をなさっていたあなたになら、いくらでもチャンスがあったわけです。ちなみにその青酸カリは茂氏から奪ったものの残りを使ったのでしょう。他の二人についても同様ですね?」


「その水差しを、わ、私は何も知らずに……」


 事実を知って、藤巻執事が大変申し訳なさそうな顔で嘆いた。


「藤巻さん。あなたは犯人に利用されただけです。何も悔やむような落ち度はありません。それからもう一つ。桜子さん、あなたは食事の支度をする最中に梨花子さんと薫君のスープの中にだけ睡眠薬も入れておいたのです。食後のお茶はランダムに配られてしまいますが、スープなら自分でよそうことによって狙いを定められます。そうして、二人だけを先に二階へ行かせることで、薫君だけに毒を盛る機会があったかのように見せかけたのです。後は梨花子さんが夜中に水差しの水を自分で飲んで死亡し、またも密室での殺人となって、あなたのアリバイも確保される。二度も使用したことでトリックがばれる危険性があり、さらに封印されてしまったためにあの不開あかずの間のトリックが使えない状況においては、じつに都合の良い方法だったのでしょう」


「そんな……桜子、あなたが梨花子を……」


 娘を殺した犯人もまた自分の娘であると知り、彩華夫人は力なくそう言って崩れ落ちる。


「さすがは名探偵の秋津先生。おもしろい推理ですわね。でも、薫さんの自殺についてはどう説明いたしますの?自分が犯人だと書かれた自筆の遺書もありましたのよ?」


 それでも、桜子さんは冷静な声で、自身の犯行を否定する。


「いえ。薫君は遺書の中で自分が犯人だなどとは一言も言っていません。というより、あれはそもそも遺書なんかじゃないんです。じつはですね。あの偽の遺書についても以前に御林君が、偶然にも盗み見ているんですよ。そうです。あなたに出そうとする直前の薫君の手紙をです」


 ますます重く圧しかかる罪悪感に、僕は俯いたまま身体を強張らせる……僕の行為が、結果、彼女を不利な状況に貶めることとなってしまったのだ。


「その手紙というのは、あなたが両親の血液検査に協力してくれたことへのお礼と、それから薫君が抱く両親に対する疑念についての告白でした。彼もかわいそうに、その秘めた苦悩を打ち明けられる人間があなたしかいなかったのでしょう。あの遺書はその手紙の文章の中で、見ようによってはまるで薫君が犯行を認めているかのようにもとれる部分だけを切り取ったものだったのです。だから、あんなにも余白が少なく、紙面いっぱいに文字が書かれていたのですよ。それは初めから計画されていたものではなく、偶然、薫君から送られてきた手紙を見て、あなたが急に思いついたものだったのでしょうが、まさか薫君も自分の出した手紙が遺書にされてしまうなどとは思ってもみなかったことでしょうね」


 先生はじつと桜子さんの方を見つめ、執拗なまで丁寧に彼女の犯行を解説してゆく。


 その話を、彼女はどんな思いで聞いているのだろうか?


 僕は無意識にそっと顔を上げ、ちらとそちらを垣間見る……だが、それでも彼女は顔色一つ変えておらず、いまだ静かに微笑んだままだ。


「しかし、その手紙の内容から、私はある重要な情報を得ることができました。一つは薫君に協力を求められたあなたが、茂・咲子夫妻と薫君本人以外、誰も知らなかった薫君の秘密を一人だけ一早く知っていたということ。その秘密を以前から知っていたあなたは、茂氏ばかりか咲子夫人までをも殺さなければならなくなったその時、それを利用して薫君を犯人に仕立て上げることを思いついたのです。だから、せっかく自殺ということで解決していた茂氏の殺害を蒸し返してでも、あんなミステリ好きがいかにも思いつくようなワイヤートリックの跡を残して、暗に二人の死が他殺であることを教えたのです。それも、現場のすぐとなりに部屋のある薫君だけにしかできない犯行だとしてね」


 先生は、息吐く暇もなく、さらに続ける。


「そして、二つ目には――その手紙には続きがあったようですが、薫君も何かの拍子にあなたが不開・・の間を今も利用していることや、クローゼットの抜穴の秘密を知ってしまい、迂闊にもそのことをあなたに伝えてしまったということです。想像するに、薫君はあなたが不開あかずの間に入り、その後、なぜかとなりの部屋から出てくるところでも目撃してしまったんじゃないですかね? はじめ、あなたはたぶん、薫君に容疑の目を向けさせるだけで、彼を殺すことまでは考えていなかったのではないかと思います。しかし、この手紙を読み、あの部屋の秘密を知られたことがわかると、あなたは犯行の発覚を恐れるあまり、彼も始末しなくてはならなくなった……そうではありませんか?」


 その丁寧というよりも、むしろしつこいくらいの口調で問い詰める先生に対して。


「……フフ…フフフフ…」


 彼女は、答える代わりに笑った。


 なんとも愛らしく、しかし、それがゆえになんとも恐ろしく、身の毛もよだつような笑い声である。


「探偵というご職業の方は想像力が逞しいものですのね。だけど、先生。その話は現実的ではありませんわ。もしも、わたくしが薫さんを殺そうとしたとしましてもよ。この状況で青酸カリを飲ませるなんてできまして? まさか、毒を飲めと言われて素直に飲むわけはないし、何かに混ぜて飲まそうにも、こんな状況では疑って飲んではくださらないと思いますわよ? いいえ、薫さんだけでなく、茂叔父様や咲子叔母様の時だってそうですわ。そこまでわたくしを犯人だとおっしゃられるのなら、きっと、その方法もご存知なのですわよね?」


 桜子さんは、勝ち誇ったように微笑を湛え、逆に先生を問い質す。


「ええ。もちろん、わかってますよ」


 だが、先生は彼女の予想に反して、すんなりとその質問に答えるのだった。


「……!」


 一瞬、桜子さんの目の奥に驚きと動揺の色が浮かぶ。


「朝、薫君の遺体を丹念に調べましてね。偶然にも見つけたんですよ。首筋に注射器の針を刺したような痕があることを……そうです。青酸カリを飲んだように見せていたのも偽装フェイクです。本当は青酸カリを直接注射して殺害していたんですよ。注意深く解剖すればわかるかもしれませんが、中毒反応は同じように出ますからね。それに針の穴一つならば、検視や司法解剖でも見落とされやすい。青酸カリは飲む・・毒物という先入観がありますし、口元にも青酸カリを塗る偽装が施されていたのですからなおさらです」


「注射……」


 その単語に何かを悟ったのか、柾樹青年が譫言のようにぽつりと呟く。


「ついでに咲子さんの遺体ももう一度よく調べてみましたら、やっぱり首に注射の痕がありました。もう確認はできませんが、おそらく茂氏の首にもあったことでしょう。学生時代、親類の医者の家で医学の手解きを受けたというあなたになら、注射器の扱いもお手の物だったはずです。そう。そうやってあなたは、梨花子さん以外の三人を殺害したのです」


 先生は自分の首の横とも後ともつかぬ部分を左手で叩きながら、懇切丁寧にその殺害方法を本人に説明をする。


「まあ、そうでしたのね。わたくしもてっきり青酸カリを飲まされたものと騙されていましたわ……でも、先生のおっしゃられる通り、遺体の首にそんな痕があったのでしたら、きっとそれが真実なのでしょうね。ですけど、それはわたくしが三人を殺害した証拠にはまったくなりませんわ。確かにわたくしには医術の心得が多少ございますけど、だからこそ言わせていただくと、首の裏に注射をするのってなかなか大変だと思いましてよ。突然襲いかかるには目標が定まりませんし、力づくというのも女の手では困難ですわ」


 それでもなお、桜子さんは犯行を認めない……しかし。


「え? 今、なんとおっしゃられました? よく聞こえなかったのですが何が大変だと?」


 先生は急に耳が遠くなったかのような猿芝居で彼女に聞き返す。そのわざとらしい演技がなんとも憎々しい。


「ですから、首の裏に注射するのは大変だと…」


「え? 今、首のとおっしゃいました? 私、そんなことと言いましたっけ? 皆さん、私は先程、首のどの部分に注射の痕があると言いました?」


 先生は恍けてそう尋ねると、確認をとるように他の者達の方を振り返る。その先生の顔を見つめ、彼女の家族達はその答えがわからないといった表情で微かに首を横に振っている。


「……!」


 同じく家族の方を振り返った桜子さんの顔が、突然、強張った。

「そうなのです。私は先程、注射器の針の痕が首筋にあったとは言いましたが、首の前だか横だか後だか、どの部分にあったのかまでは言っていないのです。それなのに、なぜあなたは首の裏だと知っていたのですか? このことは遺体を調べた私と御林君、あとは注射した張本人である犯人しか知らないはずです。そう……つまり、その事実を知っているということは、即ちあなたが犯人であることを示しているんですよ!」


 それまで以上にはっきりとした声で、先生がそう断言をする。


「………………」


 今度はさすがに桜子さんも言い返すことができず、唖然とした顔で立ち尽くしている。


「ちなみに女性のあなたでも、三人の首の裏に注射器を突き刺すのはさほど難しいことではなかったはずです。薫君の場合には現場の状況から判断するに、あの血液検査の紙を覗かせておいて、そこを襲ったことが想像されました。茂氏の時は先程言ったように、柾樹君殺害計画の予行演習の練習台にでもなってもらったんですかね? また、咲子夫人の時もそうやって油断させておいて、その隙に後からブスリ! と注射器の針を突き刺したんです。いや、女性のあなただからこそ、皆、油断したんじゃないでしょうか。そのくらいの隙があれば、注射器の扱いに慣れたあなたならば狙いを外すことなく相手を仕留めることができる。いずれにしろ、この一連の犯行はですね、どう考えても、あなたにしかできないものなのですよ。もう一度、お尋ねします……桜子さん、あなたが犯人なんですね?」


 すべての説明をし終えると、先生は再び、ゆっくりとした口調で改めて彼女に尋ねる。


「………………ハァ…」


 しばしの沈黙……そして、その沈黙を短い吐息で破ると、なぜか彼女はこの場にはそぐわない非常に穏やかな声で、先生の問いに答えるのだった。

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