四 はじまりの密室(1)

 苦痛以外の何ものでもない昼食会を終えると、先生と僕は柾樹青年に伴われ、この屋敷に着いて早々に行った問題の部屋へと再び赴いた。


 この部屋は茂氏が毒死していたという、けして気持のよい場所ではないのだが、それでも先程の怨念渦巻く食堂にいるよりかは何十倍もましだ。あの精神衛生上極めて宜しくない雰囲気に当てられ、僕はいまだに気分が優れずにいる。


「ふぅ……お腹いっぱいです」


 ……なのに……それなのに……。


 陰鬱な表情の僕とは対照的に、秋津先生はたいそう満足したというような顔でお腹を擦っている……あの状況下で食事が楽しめるなんて、とてもじゃないが信じられない。


「先生、ほとんど食べてないじゃないですか。てか、よくあの場でそんな食事を楽しめますね?」


「ご存じのように私は食が細いのです。ゆえに実際に食すよりも見た目やその場の雰囲気重視なんですよ」


 白い目を向けて嫌味を言う僕であるが、先生はどこ吹く風という様子でちょっと通ぶってそう返す。


 ……て、あの雰囲気は明らかに食事が不味くなるだろう?


 天性の気質なのか? あるいは影が薄いために人の眼を気にしなくなったためなのか? 線の細い見た目に反して先生はけっこう図太い精神の持ち主なのである。


「さて、それでは改めまして。本当にその日、ここが密室だったのかどうかを調べてみることにいたしましょう。御林君、ちょっとその窓を開けてください」


「あ、はい」


 一頻りお腹を擦った後、そう言って先生はその部屋に一つしかない窓を僕に開けさせ、水色に塗られた窓枠やら、その窓枠の中程に付けられた鍵やらを丹念に調べ始めた。


 ちなみに鍵は、左右の扉の金具に金属製の棒を渡して開かないようにする、単純な構造のかんぬき型である。


「ふ~む……特に異常はないようですねえ」


 そして、密室を作り出すトリックの跡のようなものを何も発見できないと、外に開いた窓から顔を出し、首を左右に振って周りを確認する。


「両どなりの部屋も、やっぱり空き部屋ですかあ?」


 顔を外に出しているため、ちょっと遠い声で先生は柾樹青年に尋ねる。


「いえ。窓に向かって右の部屋は薫君が使っています。ちなみにさらにそのとなりが僕の部屋です。それから、左の部屋は〝不開あかずの間〟です」


不開あかずの間?」


 柾樹青年の返事に、先生が不意に首を中へ引っ込めて聞き返した。


「はい……あ、いえ、別にこれといった深い意味があるわけじゃないんです。ただ単に鍵がなくなってしまったっていうだけで。かれこれ20年近くも前からのようですけどね」


不開あかずの間〟などと言われると、なんだかとても意味ありげな響きに聞こえてしまうが、真相はなんてことはない。ただ単に鍵がなくて、純粋にドアが開かないというだけのことらしい……でも、20年近くそのままとなると、それにしては長い間放ったらかしのようにも思えるが……。


 そんな僕の疑問を察したかのように、柾樹青年が答えた。


「この部屋や僕と薫君の部屋も含めて、ここに四つ並んでいる部屋は皆、かつて使用人部屋として使われていたものみたいです。でも、前の戦争に負けてこの方、華族であったこの花小路家も斜陽でしてね。見た目ほど裕福ではないんです。なので、今雇われてる使用人は執事の藤巻さんくらいのもので、食事の用意なども母や桜子姉さん達女性陣がやっているんですよ。だから鍵を取り替えてまで使う必要もないので、今になっても放置したままになってるってわけです。もっとも、それ以前からすでに使ってはいなかったようですが……」


 なるほど。そういうことか……この広い屋敷には部屋が腐るほどあるし、確かに使う必要のない部屋だったら、わざわざ鍵を直すのも面倒なのかもしれない。


 そういえば、ここに到着して以来、こういった大邸宅には付き物のメイドやら料理人やらの姿を一度も見ていないと思ったら、それもそうした家庭の事情によるものだったみたいである……でも、花小路グループを束ねる花小路家の一族だというのに、それほどまでに貧窮してるんだろうか? いや、ってことは、やっぱり同姓なだけでまったくの別モノの花小路なのかな? あと、別にどうでもいいことかもしれないが、〝前の戦争〟っていう言い方が、まだ若いくせになんか古臭い……。


「ま、僕のような生まれの者からして見れば、それでも大金持ちに見えますけどね」


 新たに知り得た情報から僕がいろいろ考えていると、柾樹青年がそう呟いて、自嘲するかのように笑みを浮かべた。


「……あのう、先程、彩華婦人がおっしゃっていたことは本当のことなのですか? あなたのお母様がここの使用人だったという話です」


 その呟きを拾い、先生がちょっと訊きづらそうに、だが、まるで遠慮することなく、ずけずけと柾樹青年に尋ねる。


「はい。本当です。僕の母は桂木菊枝かつらぎきくえといいまして…ああ、僕も以前は桂木姓を名乗っていたんですが……母はここの女中をしていたんだそうです。まあ、それを知ったのは僕がここへ来る直前、つい一月ほど前のことなんですけどね。その女中をしていた頃にこちらの父といい仲になって生まれたのが僕なんだそうです。驚きましたよ。生まれてこの方知らなかった僕の父親が、まさか旧伯爵家の当主だったなんて。今でも正直、信じられないというのが本音です。生前、母もそのことは一切話してくれませんでしたしね」


「と、言いますと、お母様はもう…」


「ええ。昨年、辛労がたたったのか病で亡くなりました。僕を身籠った頃、当然、父には継母ははという立派な妻がいたので、父との関係がばれて母はこのお屋敷から出されたそうです。その後、となり町にある実家に戻って僕を生んだんだそうですが、家族に迷惑がかかるということで僕が物心つく時分には実家も出て、それからは女手一つで僕を育ててくれたんです」


 先生の言葉を継ぐ形で、柾樹青年は自らの出自についての説明を続ける。


「そんな母も昨年亡くなり、東京で工場に勤めながら一人暮らしをしていた僕の所へ一月前に執事の藤巻さんが尋ねて来て、そこで初めて知らされたんです。僕の父が花小路幹雄であること。男子に恵まれなかったその父が、僕を跡取りとして花小路家に迎えたいと思っているということを……そして、父の願いを断り切れずに、まるで狐にでも摘まれたような心持ちのまま、僕は花小路家の一員としてこの家に移り住むこととなったというわけです」


 それが、彼が花小路家に来た経緯か……だから、継母である彩華夫人や叔母である咲子夫人があんなにも彼のことを邪険にしていたわけだ。時折、家族を他人行儀な呼び方で呼んでいるのも、彼自身、それまで育ってきた世界とはまったく異なるこの環境に今もって違和感を感じているためなのかもしれない。


継母ははや叔母が僕を嫌うのも無理はないんです。父の浮気相手の子供が突然現れて、跡取りだなんて急に言われてもね……僕は、そんな不倫の子なんですよ」


 柾樹青年はなんとも淋しそうな笑みをその顔に浮かべて、そう、最後にぽつりと付け加えた。


「あのう、ところでこの部屋は以前、どのような人がお使いになっていたんですか?」

 

 普通ならみんな押し黙ってその場を沈黙が支配するような、そんな重苦しい話を聞いた後なのであるが、先生はさして気拙くなる様子もなく、気になったそのことを率直に尋ねている。


「……え? ……ああ、それがですね。寄寓にもこの部屋を最後に使っていたのは、なんと女中だった頃の母らしいんですよ」


 ……!?


 しかし、その意表を突いた彼の答えには、僕ばかりでなくさすがの先生も眼球が飛び出るほどに目を見開いた。


 まさか、茂氏が死んでいたというこの部屋に、以前、彼の母親が住んでいたとは……その偶然にしては出来すぎた事実に、何か因縁めいた、なんとも不気味な繋がりを感じずにはおれない。


「すでにその頃から使用人は少なくなっていたらしく、母がここを出た後は、もう誰も使ってはいなかったみたいですね」


 だが、驚く僕らを他所に、柾樹青年はそれほど気にする風でもなく、さらに淡々と話を続ける。


 僕らは初めて聞く話なので驚いてしまったが、案外、本人の中ではこの奇妙な因縁を運命としてすんなり受け入れてしまっているのかもしれない。


 ……にしても、やっぱり因縁めいた話ではある。以前、この屋敷で働いていた女中の息子が20年ぶりに帰ってきたと思ったら、その女中の使っていた部屋で叔父が毒死する怪事件が起きなんて……。


 ああ、因縁といえば、柾樹青年の話ですっかりスルーしてしまっていたが、この右どなりが薫君の部屋だとすると、つまり、薫君にしてみれば、父親が自分の部屋のとなりで死んでいたことになる。しかも、一週間も死体はそのままに……息子の薫君としてはなんともやりきれない話であろう。


 これならば、柾樹青年や薫君でなくとも、茂氏の死が単なる自殺ではなく、もっと別の真実があるのではと疑ってみたくもなるというものだ。しかし、とするならば、やっぱりこの部屋は密室ではなかったということになるのか?


 その事件当日、密室であったというこの部屋の中を僕は改めて見回してみる。


「うーん……そうですかあ。では、お母様がここを出て以来、この部屋はずっと使われてなかったということですね?」

 

 先生も部屋を見回しながら、柾樹青年に改めて尋ねた。


「はい。まあ、掃除は時折していたようですけど」


 その返事に答えることなく、先生は窓際の右に置かれたベッドの下を覗き込む。部屋にある家具といえば、このベッドとクローゼット、あとはその横にある鏡台だけだ。


「別段、抜け穴とかはないようですね」


 つられて僕も覗いてみたが、先生の言う通り、僕にもそういったカラクリを見つけることはできなかった。


「御林君、次はそちらです」


「はい」


 ベッドの下の確認を終えると、先生は次に部屋の左に設置されたクローゼットの扉を僕に開けさせる。先生は基本、箸より重たいものは持たず、肉体労働は極力僕に任せる主義である。


「こちらも特に変わったところはないと……」


 先生の背後から、僕と柾樹青年も覗き込む。


 中は当然のことながら空っぽだ。見えるものといえば、クローゼットの古びた木製の背板のみである。


「鏡台もただの鏡台ですね。まあ、こんな鏡台やクローゼットから出入りできるのはプリンセス天功くらいなもんでしょうけどねえ。ハハハ…」


 続いて鏡台も調べ終えた先生は、そんな取るに足らない冗談を飛ばし、自分一人でウケている。


 ぜんぜんおもしろくないので、僕はそれを完全に無視する。柾樹青年もその冗談が理解できなかったのか、それともあまりにつまらなかったためか、ポカンとした顔で先生の方を見つめていた。


「そして、このドアには鍵がかかっていたと……鍵が直してあるのは、あなた達がこの部屋へ入る時、壊したためですね?」


 そんな僕らの冷たい反応も気にせず、続いて先生は開け放ったままになっているドアの方へ近寄っていくと、ドアノブの鍵部分とそのかんぬきが差し込まれる金枠の部分をじっと注視している。


 僕も近づいて見ると、確かに枠側のかんぬきが差し込まれる口に付けられた補強用の金属板がぐにゃりとひん曲がり、それが後で直されたらしい痕跡を残していた。


 おそらく体当たりでドアを開けた時にそうなったのであろう。どのようにしても誤魔化すことのできない確たる証拠の傷だ。ただし、それ以外に何かトリックを仕掛けたような跡は一切見当たらない。


「もう一度、叔父さんの遺体を見つけた時の状況をお聞きしたいのですが、その時、鍵のないのに気づいて、最初にこのドアを破って中に入ったのは誰です?」


 しばし注意深く見つめた後、ドアノブ部分から視線を上げた先生が柾樹青年に尋ねた。


「あの時は……確か藤巻さんがまず鍵のないのに気づいて、それから僕と桜子姉さんがそのことを聞いてここへ駆けつけ、ドアは僕が体当たりして開けました」


「で、中へ入って見ると、鍵を握った茂氏が倒れていて、窓にも鍵がかかっていたと。その窓の鍵を初めに確認したのは?」


「それも僕です。叔父を発見してその生死を確かめると、藤巻さんはすぐにこのことを皆へ伝えるために部屋を出て行きましたし、桜子姉さんはショックのあまり入口に立ったまま呆然としていましたから。僕はいったい何があったのかと、遺体の周囲を調べてみたんです。もしも事件性があるのなら、警察を呼ばないといけないでしょうし……」


「なるほど。では、茂氏が右手に鍵を握っていることに最初に気づいたのは?」


「それは……三人同時だったと思います。ドアを開けて、一目叔父の遺体を見れば鍵を持っているのはすぐにわかりましたから」


「それは本当にこの部屋の鍵だったのですか? 他の鍵だったというようなことは?」


「いえ。それはないと思います。藤巻さんが叔父の生死を確認するために近づいた時、鍵の番号を見て確かにこの部屋の鍵だと言ってましたから……ああ、鍵にはすぐにどこの部屋のものかわかるよう番号が書いてあるんです。ここのは確か、2FW3ですね。僕もその時、その番号を見た記憶があります」


「2F3W……二階西側の三番目の部屋って意味ですね。なるほど……では、その時、藤巻さんがその鍵をすり換えるような隙は……いや、藤巻さんばかりじゃなく、その後にも誰か鍵をすり換えるようなチャンスは?」

 

「いえ。それもありません。少なくとも僕が見ている限り、そんな時間はありませんでした。なにせ、叔父の死を確認するやいなや、すぐに藤巻さんは外へ飛び出していきましたからね。その後も僕はずっとこの部屋にいましたが、そんな不審な真似をするような人は見ませんでしたよ。それに一応、警察にも連絡することになって、それからすぐにこの部屋は封鎖されましたしね」


 淡々とした口調で問いかける先生の言葉を、柾樹青年は次々とこともなげに否定してゆく。


 どうやら先生は密室を作るトリックとして、その遺体が握っていた鍵を誰かが後にすり換えた可能性を考えたみたいだったが、柾樹青年の言を信じるならば、その筋も薄いようである。


「あと、叔父さんは右利きで?」


「はい。そうだったと思います」


「そうですかあ……ふむ。やはりこの部屋は完全な密室だったようですね」


 先生は顎に手をやり、少しの間物思いに耽ると困ったような顔で呟いた。


「では、やっぱり叔父は自殺だったのでしょうか? まさか幽霊じゃあるまいし、そんな密室の中で叔父を殺して逃げることなど、生身の人間にはできない芸当でしょうから」


 不意に押し黙り、頭の中で推理を巡らしているらしき先生に、柾樹青年が深刻な表情で問いかける。


「うーん……状況からはそうとしかいえないのですがねえ……ちょっとひっかかるところもありますし………もう少し考えさせてください」


 そんな彼に先生は、何か腑に落ちないことがある様子で悠長な返事を返す。


「とりあえず現場の状況はわかりましたが、まだこのお屋敷全体の様子がわかりませんので、引き続きご案内していただけますか?」


「ああ、そういえばそうでしたね。はい。では、参りましょう」


 こうして僕らはその後も、柾樹青年の案内で屋敷の中や外の庭なども夕方まで見て回ることとなった。


 ちなみに問題の部屋を出る時、ついでにとなりの不開あかずの間のドアも調べてみたが、やはりガチャガチャと音を立てるだけで、その名の通り・・・・・・その扉が開くことはなかった。


 また、他の場所でもこれといって事件と結びつくようなものを見つけることはできず、花小路邸での第一日目はそうして静かに暮れていった――。

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