十一 夜魔(4)

 手を繋いだひなたと俺は、その野生の花が咲き乱れる夜の草原を、夜露に濡れる草木を掻き分けながらさらに走る……。


 なぜか記憶に強く焼きついた、目の前を走り行く白い背中を懸命に追いかけているこの情景……。


 ……そうか……これはあの時と……ひなたをここへ連れ出したあの時と同じ感覚だ……だから、こんなにも懐かしいんだ……。


「……!」


 そのことに気づいた瞬間、初めてこちらを振り向いたひなたの白い顔には、くったくのない太陽のような満面の笑みが浮かんでいた。


 たぶん、今のひなたも俺と同じ気持ちなんだろう……あの日も、きっとそうだったに違いない……結果的にあんなことになってしまったけれど……だけど、こいつも俺達も楽しかったんだ! 


 ……だから、こいつは俺達のことを恨んでなんかいない……こいつは、こんなこと望んでなんかいなかったんだ……俺の前に現れたのだって苦しめるためじゃなく、みんなのことを俺に知らせようとしてくれていたんだろう……こいつは、この悲劇を俺に止めてほしかったんだ……。


「ひなた、もういい!」


 宵闇に蒼白く浮かび上がる花畑の真ん中で、俺は不意に足を止める。


 すると、後へ引かれる反動に腕がピンと伸びた後、俺の言葉に何かを察したのか、ひなたももうそれ以上、俺の手を引っ張るのをやめた。


「…ハァ……ハァ……ようやく諦めたか……」


「…ハァ…ハァ……過ちを犯したこの場所で……ハァ……ハァ……死にたいっていうわけね……」


 こちらが走るのをやめると、追いついた両親も2、3m後方で止まり、肩を大きく揺らしながら荒くなった息を整えようとしている。


「……ああ。俺はあんた達の大切な娘の命を奪った。だから、俺を殺したいっていうんなら、殺されたって別に文句はない……だけどな、これだけは言わせてもらう!」


 俺はひなたの手を静かに離すと、振り返って彼女の両親に面と向かい合う。


「確かにこいつは…ひなたは外へ遊びに出たことで命を落とした……でも、こいつは楽しかったんだよ! 初めて昼間に外を走り回ることができて、アレルギーのことなんか忘れてしまうくらいにほんと楽しかったんだ!」


 そして、堂々と胸を張ってしっかりと目を見開き、二人を真っ直ぐに見据えながら最後に言うべきことを遠慮なく主張する。


「日光アレルギーだから仕方のないことはもちろんわかってる……でも、日除けカバーで完全武装するとかして、たまに外へ遊びに行くことだってできたはずだ……ひなたは、ずっと太陽の下で遊んでみたかったんだよ……今なら、どうして二年前にひなたの霊が姿を現すようになったのかわかるような気がする……こいつは、ずっと閉ざされていた別荘の部屋のドアが開いたことで、閉じ込められていたそこから外へ遊びに出たんだ。だから、あんた達のとこじゃなく、こども達の前に姿を現したんだよ!」


「うるさい! 知った風な口をきくな!」


「そうよ! おだまりなさい! 他人が何様のつもり!?」


 好き勝手、耳障りなことを言い散らす俺に両親は怒号を浴びせかけるが、それでも俺はやめない。


「いいや黙らない! だから、こいつは俺達のことを恨んでなんかいない。あんたらのしたようなことを、ひなたは望んでなんていないんだ! いや、それどころか、みんなの居場所を俺に教えてくれて、むしろ、この悲劇を止めさせようとさえしていた……こいつを…ひなたをこれ以上悲しませるなっ!」


「うるさいと言ってるだろう! 黙らんなら、とっととその口を塞いでやる!」


 なおも口を閉じない俺に、苛立つ父親が注射器を振り上げて襲いかかろうとしたその時。


「やめてえぇぇぇぇーっ!」


 幼くカワイらしい女の子の声が、蒼白い夜気に包まれた山上の花畑に響き渡った。


 ひなたが俺の前に飛び出し、両腕を思いっきり左右に開くと再び両親の前に立ちはだかったのだ。


「ひなた…………」


「ひなた……あ、危ないから、そこをどきなさい」


「……そ、そうよ、ひなた。さ、ママの所へいらっしゃい?」


 予期せぬその行動に驚いた俺達は、それぞれの言葉で彼女の名を口にする。こいつの声を聞いたのは幽霊としては初めて……生前を含めてもそれこそ10年ぶりだ。


「パパ、ママ、もういいの。シュウジくんが言うように、あたしはみんなのこと怒ってなんかいないんだよ?」


 二人の前に立ちはだかったまま、今度は穏やで優しげな声で、ひなたは両親に語りかける。


「だ、だけど、ひなた、こいつらはおまえを……」


「そうよ。あなたを遊びになんか連れ出さなければ、あんなことになんかならなかったのに……」


「……ううん。あたしね、シュウジくん達とこのお花畑で鬼ごっこできて、すっごく楽しかったんだあ……だからね、この前・・・、パパとママがここへ来てくれた時もすごくうれしかったんだよ?」


 邪魔をする娘に動揺し、言い淀む父と母にひなたは首を横に振ってみせると、笑顔でさらに続ける。


「せっかく今日も来てくれたんだし、もうこんなことやめて、パパもママもひなたと一緒にこのお花畑で楽しく遊ぼう? あたしね、ずっとこうしてお外でパパとママと遊びたかったんだあ」


「ひなた……」


「ひなちゃん……」


 娘のその言葉に、それまで殺気に満ちていた両親の顔はまるで憑き物が落ちたかのようにくしゃくしゃに弛緩する。


「じゃ、まずは向こう・・・まで駆けっこだよ?」


 そんな父親と母親の間へ割って入ると、ひなたはそう告げながら二人の手を取って握りしめる。


「ひなた……それが、おまえの……」


 そこには、花畑で両親と娘が楽しそうに手を結ぶ、ごくごく普通の親子の姿があった。


「それじゃ、いっくよ~! よーい…ドン!」


 そして、俺のことなど最早忘れ去ったかのように、ひなたの号令を合図にして、親子三人は夜の花畑を一斉に駆け出し始める。


「アハハハハハ…」


「ハハハハ…ひなた、速くなったな!」


「ちょ、ちょっと二人とも速すぎよ!」


 蒼白い月明かりの照らす下、咲き乱れる野花を掻き分け、楽しそうな笑い声を上げながら草原を疾走して行く親子三人……。


「…………っ! いや待てっ! そっちは…」


 そのなんとも微笑ましい姿に見とれてしまい、思わずぼんやりと眺めてしまう俺だったが、その時ふと、気にすることも忘れていたある危険性が不意に脳裏を過る……。


 確か、三人が駆けて行くその方向には、真人の落ちたあの崖があるはず……。


「ひなたっ! 危ない! そっちは…そっちには崖が…!」


 俺は、遠ざかる三人の背中へ向けて、慌てて大きな声を張り上げる。


「アハハハハハ…」


「ハハハハハハ…」


「オホホホホホ…」


 だが、その瞬間、楽しげな笑い声を上げたまま、三人の姿がパッと夜の闇の中に消えた。


「……っ! ひなたっ…!」


 俺は咄嗟に駆け出すと急いで三人の消えた地点へと向かい、それでも、注意深く足下を確認しながらスピードを落として崖の直前で止まる。


「………………くっ…」


 そして、おそるおそる身を乗り出して崖の下を確認すると、月明かりに蒼く照らし出された薄暗い谷の底には、ひなたの父親と母親二人の、無惨に横たわる姿があった……。

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