第85話 2人で迎える朝 前編

 おぼろげな意識の中、左腕の重みと若干の痺れに目を覚ます。

 瞼が自然と開いた先には、左腕に頭を乗せている志乃が、俺に全身を預けるように抱き着いて静かに寝息をたてていたた。


(……そうだった……俺は志乃と……)


 僅か数時間前の濃密な時間を思い出すと気恥しさもあったが、それ以上に幸福感で満たされた。

 幸せそうな顔をして寝ている彼女を起こさないようにベッドから出て朝食でも作ろうかと思ったが、志乃の半身が被さっていて身動きがとれない。

 (――いや、ぶっちゃけ俺が離れたくないだけだろうな)


 カーテンの隙間から差し込む光が、ダークブラウンの志乃の髪を艶やかな栗色に染め上げている。

 衣服は勿論着ておらず、生まれたままの体にシーツだけを纏っている。薄いシーツが彼女の体の線を浮かび上がらせていて、正直あれだけの夜を過ごしたというのに、またあの美しい体に触れたくなってしまう。

 そんな邪な気持ちを振り払って志乃の髪をよく見てみると、彼女の髪は染めているのではなくて地毛なんだと初めて気が付いた。

 そういえば昨晩顔を近付けて志乃の目を見た時、日本人特有の真っ黒な目ではなくて、明るい茶色がかった色だったのを思い出した。


 志乃は生まれ持って色素が薄い体質なのだろう。


 それだけの事なんだけど、本人から聞いたわけじゃなく自分で気付けたのは、恋人となり近付く事を許された特権があるからなんだと、改めて俺は志乃と特別な関係になれた事を実感した。


「――ん」


 加藤が言ってた浮沈艦って単語と、今の無防備過ぎる志乃のあまりのギャップに笑いが込み上げてきそうになった時、気持ち良さそうな寝息が途切れて長いまつ毛が静かに動いたかと思うと、綺麗な瞳が姿を現した。

 志乃は俺の左腕に頭を預けたまま寝惚け眼でキョロキョロと辺りを見渡して、やがて彼女の瞳が俺の目をみた。

 少しの沈黙の後に「おはよう」と声をかけると、志乃の意識が戻っていくにつれて、ぼんやりと開いていた瞼がパッチリと開いていく。


「……お、おはよ」


 緊張が混じった声色で挨拶を返した志乃は、おずおずとまた俺の胸元に潜り込むように顔を埋めた。


「志乃?」

「……恥ずかしい」


 顔を埋めていて顔は見えないけど、耳まで真っ赤にしてる志乃を見て、昨晩の大胆さとのギャップがどれだけ勇気を振り絞った行動だったのかを知り、俺の心がまた志乃を求めてしまいそうになる。


「…………夢じゃなかった」

「ん?」


 志乃は昨日の出来事が眠ろうと意識を手放す直前に、これが夢だったらどうしようと不安に思ったらしい。


「夢じゃなくてホントによかった。あんな幸せな時間――生まれて初めてだったから」


 抱き着いている志乃の両手から伝わる力が、心地よく感じる。


 大切な人とこうして一緒に朝を迎える日が訪れるなんて、少し前までは考えられない事だった。

 でも今、腕の中に納まっている人が俺を変えてくれた。

 愛おしい気持ちと感謝の気持ちがどれだけ彼女に伝わっただろうか。


 好きな人に自分の気持ちを伝える事の大切さと難しさを、俺はこの年になって初めて知った気がする。


『若さは勢い、大人は理性で生きてる』


 何時だったか、何か嫌な事でもあったのか珍しく泥酔する程に飲んだ親父が、自分に言い聞かせるようにそう話していた事を思い出した。


 年齢的に十分に大人になってる俺も例に漏れず、何時の間にか理性ばかりで生きてきた気がする。

 それが悪いとは思わないけど、時にはガキみたいに勢いに任せて生きる事も大人にだって必要なんだと思えるようになった。

 昨晩なんて勢いがなかったら、とても志乃とこんな関係になれてなかったと思う。

 きっと理性を総動員させて、無理矢理にでもネカフェで夜を明かしたはずだ。

 だけど、勢いの助けを借りたせいで理性の裏側にある本音を、志乃にきちんと伝えられたかどうかは、正直自信がない。

 とはいえ、寝起きでこんな事をウダウダと話すのも違う気がする。


(だから――今は一言だけ伝えよう)


「志乃」


 まだ慣れてないせいか俺が呼び捨てで声をかけると、ピクッと肩を震わせる。


「ん? なあに?」


 まだ恥ずかしいのか、志乃は顔を埋めたまま俺の呼びかけに応じた。


「――好きになってくれて、ありがとう」


 そう一言だけ抱きしめている志乃の髪に額を当てて、自分の気持ちを集約させた言葉を伝えた。


「……え!?」


 思いがけない台詞だったのか、埋めていた顔どころか抱き着いていた俺の体をよじ登る様に這い出てきた志乃が、驚いた顔を向ける。


「……それ、私の台詞だよ?」

「いや、俺が言うべき台詞だろ」

「えー? 絶対に私だと思うんだけどなぁ」


 志乃は照れ臭そうに笑みを零すと、やがて目を閉じて唇を重ねてきた。


「ふふ、おはようのキスだね」

「そうだな――」


 今度は俺の番だと志乃に軽くキスを落とすと、昨晩の延長かのように甘い空気が部屋中を漂い、トロンとした目をした志乃を見つめてゆっくりと顔を近付けた時、お互いの腕時計のアラームが小さくなった。

 途端、志乃のトロンとした目が大きく見開いたかと思うと、ガバッと俺の体に腕を立てて部屋中をキョロキョロと見渡し始める。


「な!? ど、どうした?」

「じ、時間!?」


 志乃が指さした先には壁掛け時計があって、時刻は午前9時を指していた。


「時間がどうかしたのか?」

「どうかしたって、今日って月曜日なんだよ!?」


 そこで初めて志乃が慌てている理由が分かったのと同時に、そういえばと言ってなかった事を思い出して「どうしよう! どうしよう!」と困惑してしまっている志乃に苦笑いを浮かべた。


「えっと、わるい、言ってなかったな。元々、今日は用事があって有給使ってて休みなんだ」

「へ? そ、そうなの!? えっと、じゃあ私邪魔だよね!? 支度したらすぐ帰るから……」


 用事があるのにアポなしで押し掛けた挙句、泊まり込んでしまった為に俺の邪魔をしてしまったと思い込んだのだろう。

 志乃は慌ててシーツを捲ってベッドから飛び降りた。


「いやいや! 用事っていっても大した事じゃないんだ」


 俺が今日休みを取ったのは、病院で検査を受ける為だと説明した。所謂、術後検査というやつで暫くの間は定期的に受ける事になっている。

 ただ、その度に東京にあるあの病院まで出向いていられない為、今の自宅から近い同系列の病院に術後検査を引き継いでもらう事になっていたのだ。


「だから大して時間もかからないし、それに11時予約だから今からでもゆっくり朝飯だって食べれるよ」

「そ、そうなんだ……はぁ、ビックリした」

「あー、そんな事よりも……さ」

「ん?」

「朝から刺激が強過ぎるんだけど……」


 チラチラと視線を向ける先には、慌ててベッドから出たせいで全裸の志乃の姿があった。

 俺が言いたい事に気付いた志乃は顔を真っ赤にして大慌てで再びベッドにダイブすると、シーツを体に巻き付けて恨めしそうに俺を睨む。


「えっち! すけべ! 変態! 馬鹿ぁ!」

「……理不尽過ぎんだろ!」


 そう言い返しながらも、朝日に照らされた生まれたままの志乃の姿を脳裏に焼き付けたのは、言うまでもないだろう。


 まだ時間に余裕があるとはいえ、そろそろ起きて朝食でも作ろうとベッドから出た俺が手早く部屋着に着替えていると、後方から引き続き恨めしそうな眼差しを向ける志乃がいた。


「どうした?」

「……何か着る物貸して欲しいんだけど」


 そう言う志乃の周辺を見渡すと、昨晩着ていたシャツを下敷きにしたままだったみたいで、グシャグシャになっていて着れそうにない状態だった。


「着る物……か」


 簡素な部屋着が数着あるにはあるが、生憎洗おうとしていて洗濯機に突っ込んだままだ。後は仕事に着ていくスーツを数着引っ張りだしただけで、他の服はどの段ボールにあるのか把握していない。

「うーん」と唸りながらキョロキョロと寝室を見渡すと、洗濯を済ませてハンガーに掛けているワイシャツを見つけた俺は、東京のマンションに志乃を泊めた時にこのワイシャツを着ていた事を思い出した。


(……あの時はワイシャツ1枚で寝ている志乃に引き寄せられて、思わずキスしてしまいそうになったんだったな)


 このシャツを着て話してくれた内容を考えると不謹慎だったなと反省する反面、流した涙が神秘的に映ってとても綺麗だった彼シャツ姿の志乃を見て、何も感じないのは不可能だとも思った。


「すぐに用意出来るのって、このワイシャツだけなんだけど……いい?」

「それってあの時借りたシャツだよね? ふふ、何だか懐かしい」


 志乃はクスクスと思い出し笑いしたところを見ると、さっきの事で拗ねるのを止めてくれたみたいでホッと安堵した。

「ありがとう」と俺のワイシャツを受け取った志乃が白いシャツを白い肌に包み込ませ始めた。


 恥ずかしいからと俺に背を向けて、ベッドの上でスルスルと滑るような綺麗な腕をワイシャツの袖に通す仕草が妙に艶っぽく、劣情を抱かずにいられなかった俺は無理矢理意識を志乃から切って、キッチンに向かった。


「え? 私が作るよ」

「いや、昨日は全部志乃が作ってくれたんだから、朝食くらいまかせてくれ。といっても志乃みたいに立派な物は作れないけどな」

「んー……わかった。それで何作ってくれるの?」

「冷蔵庫にあるものだと、フレンチトーストとその他諸々かな」

「え? フレンチトースト!? やったぁ! 私フレンチトースト大好き!」


 両手を上げて喜びトタトタとカウンターに歩み寄って来る志乃の姿は年相応の女の子で、そんな彼女に頬を緩ませた。


 カウンター越しからキッチンに入った俺が調理している手元を、ワクワクした様子で志乃が頬杖をついて眺めている。


 こんな優しい朝は何時以来だろうか。


(……そうだ。優香と生活している頃以来か)


 優香を失ってから、どれだけ人との温もりを拒絶してきただろう。始めは優香の死を受け入れられなかったのは間違いない。

 だけど何時頃からか覚えてないけど、俺はこんな時間を手に入れるのを諦めていたんだ。

 ずっとこのまま年をとって、死んでいくものだと思っていた。


 でも、優香の存在を優しい記憶に変えてくれたのが、今目の前で目をきらきらさせて俺の手元を眺めている志乃だった。

 何度も、それこそ本当に何度も俺が無意識に作り出していた壁を壊そうとしてくれた。

 俺なんかを好きになったばかりに、辛い想いをさせたと思う。

 そんな志乃を見てきて、初めて変わりたいと考える事が出来たんだ。


 自分の気持ちに気付いてからも色んな事があって、もう駄目だと思う時もあった。


(……実際本当に死にかけたわけだしな)


 だから今度こそ、この優しい時間を失いたくなと強い願いを込めて、今目の前にいる志乃に朝食を作るんだ。

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