第84話 初めての夜 

 俺の腕の中に納まっている志乃の姿は本当に美しく、そしてか細くて壊れそうな危うさを同居させていた。


 その美しい形を壊さないように、「好きだ」と呟いてそっと志乃の唇に自分の唇を重ねる。

 志乃の緊張を少しでも和らげようとキスを落とした後、そっと彼女の首筋にも優しくキスを落とすと、彼女の微かに甘い吐息が聞こえた。

 志乃を怖がらせない為に、全神経を集中する。

 ここまで神経を使っていれば、己の快楽はさほど得られないのは分かっている。

 だけど、今夜はそれでいい。

 志乃が大切に守ってきたものを俺に許してくれた事実だけで、十分に満たされているから。


 直接肌を重ねた方が安心してくれるだろうと、シャツを脱いで再び志乃を抱きしめようとしたが、ベッドに寝かされてされるがままだった彼女が突然上体を起こして、俺の横腹にそっと触れた。

 触れられた箇所に目を落とすと、そこは刺された傷跡がある場所だった。


「見ていても、あまり気持ちのいいものじゃないだろ」

「……ううん、そんな事ない――そんなわけないよ」


 言って志乃は傷口に顔を近付けたかと思うと、「こんなに綺麗なもの初めて見たよ」と愛おしそうに呟いて、優しく数回傷跡にキスを落とした。


「お、おい」

「この傷は――私が癒し続けるから」


 まだ傷跡は生々しさを残している。

 目を逸らしてもおかしくない。

 だけど、志乃はその傷を優しく包み込むように唇を当てる。その行為が俺の心に響くものがあって、気が付くと愛おしそうに傷口を見ている志乃の頭がぼやけて見えた。


「ど、どうしたの!? あ、もしかして痛かった? ごめんね」


 慌てた様子で俺に謝る志乃に首を傾げると同時に、ポロっと俺を見上げる志乃の顔に雫が落ちた時、初めて自分が泣いている事に気付いた。


「あ……はは、傷が痛むから泣くとか……子供かよ」

「え、違うの? じゃあ――」


 何で泣いているのかは、志乃の顔を改めてよく見た時に気付いた。


「――今更だけど……さ。志乃が無事で本当に良かったって思っただけだ」


 本当に今更な事だったけど、あの日意識が戻ってから志乃の無事を安堵する暇もなくケンカ別れしてしまったから、今日までこうしてよく顔を見れなかったんだ。

 だから、こうして俺の腕の中にいる志乃を見て、ようやく生きている事を実感した。


「……ホントに無事でよかった……ホントに」

「……ねぇ、良介」

「ん?」

「全部脱がしてくれない?」


 突然志乃はそう言うと、まるで親に服を脱がせて貰う子供のように両手を天上に向けた。


「は? え? あ、いや、脱がすって――」

「――今から……その、するんだよね? なら、脱がないと……ね?」


 何を言ってるの?と言わんばかりの表情で、相変わらず志乃の両手は上げられたままで、ついさっきまでの彼女とは別人のように感じられた。

 シャワーを浴び終わってから――いや、リビングに入ってきてからのおどおどする様子が微塵も感じられない。


「それはそうなんだけどさ。恥ずかしい……だろ?」

「勿論恥ずかしいよ? でもね、私の無事を喜んで涙を流してくれる良介に、私の全部を見て欲しくなったの。だから……ね」


 志乃はそう言ってベッドから立ち上がって、俺の正面に立った。

 彼女の目からは全く迷いが感じられなくて、ただ真っ直ぐに俺の目を見つめている。


 そんな堂々とした志乃を見上げていると、もう俺の中にあるはずのブレーキを完全に見失ってしまって、気が付けば立ち上がって志乃の服に手をかけていた。


 まずシャツを捲るように下から上に脱がせて下着姿にさせた志乃を目の当たりにした俺は、汚してしまう罪悪感と欲望が渦巻いて彼女が着ていたシャツを手に持ったまま動きを止まってしまった。

 だけど、下着姿になった志乃は恥ずかしそうに胸元と下半身にそれぞれ腕を覆うだけで抵抗する仕草をみせずに、残りの下着を脱がされるのを何も言わずに待っている。


 恐らく1分もない程の時間だったと思うけど、俺にとってはやたらと長く感じる時間動きを止めていると、志乃が申し訳なさそうに俯いた。


「……やっぱり良介の好みじゃなかった? 子供っぽい……よね」


 どうやら俺が動かなくなった事が自分がつけている下着が気にくわないからだと勘違いしたらしく、下着姿にされても堂々としていた志乃が両手で自分を抱きしめるように下着を隠して、そう俺に問う。


「い、いや……そんな事ない。ただ……な」


 俺の反応で何かを察したのか、恥ずかしそうに下着を覆っていた手を離して再び続きを促すように、今度は両手を俺の方に向けてきた。

 そんな志乃の気持ちを酌もうと、俺は彼女の下着に手を掛ける。

 あまり時間をかけると羞恥に彼女が耐えきれなくなるかもと、俺は上下の下着を出来るだけ間隔を空けずに脱がせた。


 目の前には完全に一糸まとわぬ姿の志乃がいる。

 裸体を晒した志乃は少し俯き、両腕で可能な限り体を隠していたが、その効果は殆ど意味をなさず、逆にその仕草が劣情を搔き立てられた。


 お互いに何を言うでもなく、部屋には壁掛け時計の秒針が時を刻む音だけが響いている。


 何か言わないといけないと分かっているのだが、何故かいつものような機転が利かない。

 本当に今まで感じた事がない程に、様々な感情が自分の中で渦巻いて言葉が全く生まれてこないのだ。


 生まれて初めて裸体を異性に晒した女の子がいる。

 その羞恥は男では想像も出来ない程のはずだ。

 こんな時こそ、年上の男の出番のはずなのに……。


 異性を好きになる。


(初めての経験じゃないってのに……なんで……)


 自分の情けなさに苛立ちを覚えた時、目の前で立っている志乃が「んっ!」と何かを決意したような声を発すると、体に巻き付けるようにしていた両手をゆっくりを左右に広げた。

「見て……良介。これが私の全て。これが良介が導いてくれた今の私。これが良介が命懸けで守ってくれた私の全部」


 綺麗だ。

 いや、これまで見てきたどんなものより美しい。

 その美しさは眩しさすら感じるもので、神々しい志乃の姿に完全に心を奪われた俺の目から――また涙が零れ落ちた。


 そしてようやく零れた涙と共に、俺の口から言葉が生まれた。


「もう2度と、あんな想いはしたくなかったんだ」

「…………」

「もう2度と大切な人を、失いたくなかった」

「…………良介」

「だからあれは自分の為にやった事で、志乃が責任を感じる必要はないんだ」

「……それでも……だよ。ううん、だからかもしれない」

「どういう意味だ?」

「私の昔の事で良介の心と体を傷つけたんだよ? だから……ね。責任を感じる事ないなんて……言わないで欲しい」


 俺の為にやった事なんて、少し無理があったかもしれない。

 だけど、志乃に余計は負担をかけたくなかったんだ。

 だというのに、俺の言葉で志乃を悲しそうな顔にさせてしまった。


「私にも背負わせて。私の心の傷を受け入れてくれたみたいに……私にも良介の過去を――傷を背負わせて欲しいの!」

「――――志乃」


 一糸まとわぬ姿で何一つ隠さず心も体もさらけ出して俺にそう訴えかけてくる志乃を、殆ど無意識に強く抱き寄せた。

 お互いの肌が重なり、志乃の体温が直接伝わってくる。


 背負わせて欲しいと言ってくれた事が嬉しくて、そして情けなかった。


 裸の志乃を抱きしめて劣情が増したが、それ以上に彼女への溢れ出した想いを全部伝えたくて、俺は志乃の口を塞いだ。


 貪り合う濃厚なキスを交わした俺達はまっすぐに見つめ合う。


「私の全てを貰って下さい」

「あぁ、嬉しいよ。ありがとう、志乃」


 腕の中に戻ってきた志乃を優しくベッドに寝かせて、再び口づけを交わした。


「――大好きだよ、良介」

「俺も大好きだ、志乃」


 軽く口づけを交わした後、唇と舌を志乃の首筋に這うように落としていくと「あっ」と甘い吐息が漏れた。

 まるで芸術かのような形の整った綺麗な胸を俺のゴツゴツした手で形を崩すと「んっ」と甘い吐息とビクッと体を震わせたのを見て、俺は完全に志乃の全てに溶け込む事しか考えられなくなった。


 全身という全身にキスを落とす行為を志乃が全て受け入れてくれて、やがて彼女の母性の塊がツンと上向くと、女性の性器が受け入れる準備が整ったと俺の指に教えてくれた。

 志乃の顔は完全に溶け切っていて、濡れきった瞳に途轍もない色気が溢れていた。


「……いい?」

「……うん。きて、良介」


 誰も受け入れなかった志乃の中は気が遠くなる程に温かく、まるで全身を力いっぱい抱きしめられているような感覚のなか、俺は……俺達はついに1つになった。


 ◇◆


 部屋が薄っすらと明るくなるまでお互いの気持ちを体全部を使って伝えあった俺達が愛し合ったベッドには、今は志乃が静かに俺の腕枕で寝息を立てている。

 そのあまりに無防備な寝顔はまさに天使のそれに見えた俺は、相当志乃に参っていると自覚した。


 正直、志乃と行為に及んだ間の記憶は、快楽を得る事よりも彼女自身に夢中だったせいか、幸せの一言に尽きた。

 特に志乃の純潔を散らした時の事は、生涯忘れられないものだった。

 シーツを力いっぱい握りしめて皺を作った右手と、俺の背中に回した左手の爪が残した痛み。

 痛みに耐える苦悶の表情と、頬を伝う綺麗な涙。


 そして、痛みがあるはずなのに、優しく微笑んで言ってくれたあの言葉を。


「愛してる、良介」

「……志乃」

「愛ってまだよく分からないんだけど、大好きって言葉じゃ全然足りなくて……」


 体の1部が繋がったままそう伝えてくれた志乃を、俺は心から愛おしいと感じた。


 俺の腕の中で安心しきった表情で寝息をたてている志乃の頬にそっとキスを落として綺麗な髪を優しく撫でると、彼女はとても気持ち良さそうに口角を上げる。


 志乃のあの言葉と表情、そして背中に残した痛みを俺は一生忘れないと心に強く誓いをたてて、俺も志乃のいる夢の中に意識を溶け込ませるように眠りについた。


 ――こうして、俺達の長い1日が終わったんだ。

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