第86話 2人で迎える朝 後編
「ほい! おまたせ」
お待ちかねのフレンチトーストとゆで卵にコンソメスープ、そして自慢のホット珈琲をカウンターに並べると、志乃の目が一層キラキラと輝いた。
待ちきれない様子の志乃の隣に座って、2人一緒に「いただきます」と手を合わせる。
「んーーーっ!! おいひい!」
足をパタパタと動かしてほっぺが落ちそうと言わんばかりに左手を頬に当てて、無邪気に俺が作ったフレンチトーストを頬張りながら志乃が満面の笑顔を見せた。
「そっか。口に合ってよかった」
美味そうに食べる志乃に頬を緩ませた俺も食事を始める。
「そういえば良介ってもう営業職じゃないんだよね? じゃあ、もうスーツとか着ないんじゃないの?」
「ん? いや、出勤の時とかはスーツだぞ。ただ会社に着いたら上着だけ着替えるけどな」
「へえ、どんな格好するの?」
「白衣に着替えるんだよ」
「ええ!? 白衣とか着るんだ! 何だか科学の先生みたいだね」
どうやら俺が白衣姿で仕事をしているのが相当意外だったらしく、身を乗り出して喰いついてきた。
確かに未だに白衣を着る事に違和感があるけど、そんなに驚く程なのかと照れ臭くなってると、「先生で思い出した」と志乃がパンと両手を叩いた。
「どした?」
「実はね、藤崎先生に夏期合宿に英語の臨時講師として参加してみないかって誘われたんだよ」
「志乃があの合宿の講師に?」
「うん。でね? まだ返事はしてないんだけど、良介と付き合う事になったら誘われた事を話すように言われたんだけど、これってどうして?」
志乃にそう問われた俺は、送別会の席で天谷社長に頼まれた内容を思い出した。
「……なるほど、そういう事か」
「え? なになに? どういう事?」
「うん。その話をする前に、志乃はどうしたいか答えは出てるのか?」
「うーん、興味はあるけど、私なんかに務まるのかなって自信がなくて……」
俺は「講師の件を引き受ける気になったら説明するから」とだけ志乃に答えて食事を再開した。
志乃は釈然としない様子で首を傾げていたけど、「良介がそう言うなら」と一応この話をするのを止めた。
その後もずっと会えなかった分を取り戻すみたいに色んな話をしていると、志乃から夕方の新幹線の切符をネットで予約してると聞いた俺は「それなら検査が終わったら出掛けよう」と持ち掛けると、志乃は「うん!」と嬉しそうに頷いた。
とはいえ、中途半端な時間から観光というのも時間に追われるだけだし、移動手段が自転車しかない今の状況では現実的に無理がある。それにこれからいくらでもそんな機会があるのだから、先に大阪の実家から車を引き取ってからでも遅くはないだろう。
だから、今日はやっぱりあそこに行くのがいいと思った。
「それで、どこに連れて行ってくれるの?」
「それなんだけど……家具屋とかどう?」
俺がそう誘うと、志乃は後ろの極端に物が少ない空間を眺めながら口を開く。
「……もしかして、注文してる家具がまだ届いてないんじゃなくて……本当に買ってなかったの!?」
「そうなる……かな」
俺は「今だから話すけど」と切り出して、新潟での生活の事を話す事にした。
「実はこっちに来てから、仕事以外の事は何もする気になれなかったんだ」
「前のマンションなんてシックで大人っぽい部屋で、拘ってるんだろうなって部屋だったじゃん。どうして?」
志乃は何もない空間を見渡しながら、そう問いてくる。
「だから……その、なんだ……。志乃とあんな形で別れたうえに、岸田と付き合いだしたって聞かされて……凄く後悔してさ。何も手に着かなかったんだ」
俺は志乃が病室を飛び出していった日から、ずっと突き放してしまった事を後悔していた事を話す。
好きだと自覚した相手に男として見られていないと感じてショックを受けて、いい大人が拗ねたみたいにあんな事を言ってしまった事をずっと引きずっていたんだと。俺は胸中に秘めていた想いを改めて打ち明けた。
志乃とこんな関係になるまで気にしてなかったけど、この部屋は昨日までの俺の心の中を映した鏡なんだと思えた。
確かにずっと目標にしていた仕事には着けた。
だけど、仕事以外に時間の使い方が分からなくなってしまったんだと、俺は今までどれだけ空虚な生活を送っていたのか思い知らされた。
「そっか……。でも、何時までもこのままじゃ駄目だよ。こ、これからは私も……その、泊まる事になるんだし……ね」
「変なところで照れるなよ」
「そ、そんな事言っても、何もかも初めてなんだから仕方ないじゃん!」
食事を終えて洗い物を2人で済ませた後、また俺はサイフォンで珈琲を淹れた。相変わらずいつ飲んでもこの珈琲は心を落ち着かせてくれて、さっき志乃に話した気恥しさを和らげてくれる。
志乃も俺の話自体には何も口を挟む事はしなかったが、彼女は彼女で思う所があったのか少し思い詰めた表情を見せていたけど、珈琲の香りを吸って表情が柔らかくなったようだ。
「そろそろ病院に行くけど、志乃はどうする?」
「私は支度に時間がかかるから、ここで待ってるよ」
「そっか。じゃあ、すぐ済ませてくるからちょっと待っててくれ」
「うん、いってらっしゃい!」
志乃に見送られた俺は、新しい相棒に跨りペダルを漕ぎだす。
ここに住み始めてから、こんなに心を弾ませてペダルを漕いだ事はない。それが何だか可笑しくて、思わず1人口角をあげて病院を目指した。
◇◆
「さてと! 良介が帰ってくるまで頑張りますか!」
良介を見送った私はすぐに髪を1つに纏めてワイシャツの袖を捲り、積み上げられた段ボールを漁った。
食器や調理器具を探した時に目星をつけていた段ボールから探してた物を見つけて、リビングの方に振り返る。
この部屋は物が少ないからパッと見は綺麗に見えるんだけど、よく見てみるとあちこち埃が溜まってるし、フローリングも妙に滑る事が気になってた。
家具を置くのなら掃除しやすい時にするのが効率的だから、私はここに残ったんだ。
よく家事を請け負ってた私は掃除する事が億劫ではない。寧ろ、良介の部屋が快適になるのなら掃除し甲斐があると嬉しくなるくらいだ。
住む部屋は住人を体現すると、誰かが言っていた。
だとするなら、もしかしてこのガランとした部屋はこれまでの良介の心を表しているのかもしれないと思っていた。
だから、さっき話してくれた事と私の予想が合致していたから、私は何も触れなかったんだ。
それに気にするなって言ってくれたけど、岸田君に逃げた私が良介に言ってあげられる言葉なんてない。
だから言葉がないのなら行動で、身も心も良介のものにして欲しくてそれが叶った今、私は自信をもって自分を好きになれた。
私の全部は良介の為にあるって考える事が出来れば、これからも自信をもって生きていける。
だから、この部屋から始めよう。
この部屋で私達の物語を紡いでいこう。
(その為には、まずはお掃除だよね!)
気合いを入れて掃除に没頭していると、カウンターに置いてあったスマホからアラームが鳴った。
大体2時間くらいで帰ると聞いていたから、支度にかかる時間を逆算した時間にアラームをセットしてたんだ。
「ふぅ! もうそんな時間なんだ」
本当はもっと徹底的に掃除したかったけど、帰ってきた良介を待たせるわけにはいかない。
「とりあえず、家具を置くと掃除しにくい場所は粗方綺麗に出来たから、いっか」
続きは今度ここに来た時にするとして、明け方まで愛して貰ったうえに掃除を頑張って更に汗をかいたから、私はシャワーを浴びようと掃除を終わらせて浴室に向かった。
シャワーを浴び終えて脱衣所で体を拭きながら、全自動の乾燥機が付いた洗濯機で洗っておいた私の服を取り出してると、ふと洗面台の鏡に映る自分の姿が目に入った。
バスタオルを籠に置いて鏡に映る自分の体をマジマジと眺めながら、私は下腹部辺りに手を置いて目を瞑る。
私……良介と結ばれたんだよね。
恥ずかしくて訊けなかったけど、私、ちゃんとできたのかな。
私は……幸せだったけど、良介はどうだったんだろ。
昨晩の事を想い返すと、気恥しさと不安と幸福感で胸がギュッと締め付けられる感覚があったのと同時に、もう数時間したら良介と離れないといけない現実に切ない気持ちに苛まれた。
だけど想いが届いて恋人になったのだから、これからは無理矢理に会う理由を探さなくても何時でも会いに来ていいんだからと、自分に言い聞かせて脱衣所を出た。
粗方身支度が整ったところで、タイミングよく玄関を開ける音と共に良介が帰ってきた。
「ただいま――って、なんかこの部屋綺麗になってないか?」
「おかえり、良介。うん、家具を置く前に掃除した方がいいと思ってね。余計なお世話だった?」
「まさか! その……、昨日の事で志乃の体調に気を配らないといけないってのに、こんな事させてごめん」
「ふふ、私は元気だから心配しないで。それに、さっきも言ったけどこれから私も泊めてもらうんだからね」
「ありがとう、志乃。これからは気を付けるよ」
「ううん。どういたしまして」
良介は「もう昼過ぎで腹減ってるだろうから、途中で昼飯食べていこう」と私が一番好きなあの柔らかい笑顔を向けてくれた。
その笑顔を見て本当に帰ってこれたんだと改めて実感した私は嬉しく、嬉しくて……思わず良介を抱きしめてキスをした。
ここから始めよう。
良介の大きな手を握って、これから私達色に染めていく部屋の鍵を2人で閉めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます