第83話 恐れと不安

 ネカフェに向かおうとした俺を志乃が一緒に寝ようと呼び止めた。

 その言葉の意味が、志乃にだって解らないわけではないはずだ。


 部屋をあけ渡すつもりだった俺だったけど、結局志乃の言う通りにここに残り、今はシャワーを頭から浴びながらこれから起こるであろう出来事に思案を巡らせている。


 ついさっき俺達はお互いの気持ちを伝えあい、晴れて恋人になった。


 志乃はいつから俺の事を想ってくれていたのか、正確には知らされていない。

 俺もいつからなのか説明を求められても困るんだけど、今は本当に大切な女性として見ている。


 そんな女の子と結ばれるのを拒否する理由なんて全くない。


 なのに……このモヤモヤした気持ちは何なのだろう。


 単純に年の離れからくるものなのだろうか……それとも。


 いつまでも志乃を待たせているわけにはいかないと、俺は頭の中の整理がつかないまま浴室を出て志乃が待っているリビングへ戻ると、彼女はカウンターテーブルの椅子にチョコンと座っていた。


「えっと……シャワー空いたよ」

「……う、うん」


 俺がそう声をかけると、志乃は緊張した面持ちで着替えを胸に抱きかかえて席を立ち、入れ替わりで浴室に姿を消した。


 志乃が浴室に向かったのを確認した俺は、バスタオルで頭を拭きながら冷蔵庫からビールを取り出して席に着く。

 プルタブを開けて自分に勢いをつけようと、一気に喉にビールを流し込んで大きく息を吐くと、やがてシャワーの音が聞こえだして鎮めようとした鼓動が余計に激しく脈打ち始める。


 男として好きな女と一線を越えるのは何もおかしな事などなく、寧ろ自然な事だ。


(……なのに、何ビビってんだ俺は)


 ふと視界に入った陶器の蓋を開けて、中にあったあのキーホルダーを取り出して小さな鈴を鳴らしてみる。


 チリン


 相変わらず綺麗な音を聞かせてくれる。


 優香と死に別れてから男として生きてこなかった時間が長すぎたせいで、臆病になってしまったんだろうか……。


(――違うな)


 俺はまた大切な人を失ってしまうかもしれないと、心のどこかで怖がってるんだ。

 志乃と一線を越えてしまったら、その気持ちが更に大きくなる事が心底怖いんだ。


(……情けない)


 志乃はありったけの勇気を絞りだして、まっすぐ俺に気持ちを伝えてくれた。

 きっと今頃シャワーを浴びながら、不安と怖さを洗い流そうと努めているんだと思う。

 どんなに俺の事を好きになってくれてたとしても、初めてなんだから怖くないわけがない。

 そんな彼女の一大決心に対して言い訳を並べて、自分が傷つく事から逃げようとしていたんだ。


 そんな情けない自分に苛立って、飲みかけのビールを飲み干した空き缶をグシャリと握り潰した。


 志乃は誕生日プレゼントとして、自分の全てを俺に捧げるつもりなのだと知って、彼女の想いの大きさを知った。


(……単純でいいんだ)


 素直に志乃の気持ちを喜べばいい。

 人間なんて根っこは単純なはずなのに、その単純な思考の上にごちゃごちゃと余計なものを積み重ねるから、本質を見失ってしまう。俺は30年生きてきて、その事を痛感した。


 死に別れた優香の事。

 その日から気持ちをずっとあの場所に置いてきた事。

 優希の気持ちに応えられなかった事。


 そして、なにより……。


 29歳の誕生日から今日まで志乃と過ごしてきた時間の事。


 今は、今だけはこれまで起こった出来事を全て忘れて、単純に俺は志乃に何を求めてるのかを考えた時、シャワーを浴びてる志乃と恐らく同じ気持ちに辿り着けた気がした。


 俺にとって志乃は誰よりも好きな女の子で、誰よりも大切な女の子なんだ。

 そんな志乃にもっと近づきたい。

 心を通い合わせたい。

 もう2度と志乃を誰にも渡したくない。


「それでいいんだ。先の事なんて、今は考える必要なんてなかったんだ」


 ◇◆


 頭から浴びたシャワーを止める事が出来ない。


(私から誘っておいて……情けない)


 さっきから体の震えが止まらない。

 強く心に決めた事なのに、土壇場で怖さが込み上げてきた。


 誰よりも大切な人と結ばれたい。

 これが私の揺るぎない本心だ。


 だからこの怖さはこれからする事自体じゃなくて、良介が本当に私と関係をもつ事を望んでくれているのか自信がもてない所からくるものなんだと思う。

 嬉しいとは言ってくれたけど、私が誘わなかったら一緒に朝を迎えるどころか、ネカフェに行こうとしてた良介の本心が分からない。


 こればかりは1人で悩んでも答えは出ない。

 だから、シャワーを終えたら訊いてみよう。

 本当に、私でいいのかを……。


 シャワーを浴び終えて脱衣所へ出てきた私は、バスタオルで全身の水気を拭き取りながら、準備していた着替えに目を向ける。


(……えっと、こういう時って……下着付けるのかな)


 確か高校の時、摩耶が男は脱がせるのも楽しみにしてるから下着にも気が抜けないとか言って、真剣に下着を選んでたっけ。

 一応こういう状況を想定して……というか期待してはいたから、一番お気に入りの下着持ってきたけど……。


 言って、私は着替えの下着を手にして眺めてみる。


「……やっぱり子供っぽいかな」


 ……うぅ、良介の好みとか訊けてればなぁ。

 それに、こういう時ってパジャマでも大丈夫なのかな。

 これも子供っぽいパジャマだし……。


 これまで生きてきて、そんなの考えた事もなかったから、いざって時にちゃんと予習してこなかった自分を恨む。


(あ、そうだ! これとこれを外して……これも履かなくいいよね)


 ◇◆


 恥ずかしいだろうからと先に照明を薄暗く落としていた部屋に、ガチャリと脱衣所のドアが開く音が届く。

 本当に物が少ない部屋だから、そんな音でもやたらと響いて聞こえた。

 やがてリビングのドアが開く音がすると、カウンターに座っていた俺の視線が自然とドアの方に向かう。


 リビングのドア付近に立っていたのは、まだ少し湿っている髪をアップにして膝上辺りまで裾が伸びているビッグTシャツに身を包んだ志乃だった。

 本来なら下に七分丈のパンツを組み合わせるシャツだと思うんだけど、シャツだけを着た志乃は恥ずかしそうに裾を手で軽く引っ張っている。


「シャワー……頂きました」

「お、おう。えっと何か飲むか? って言っても烏龍茶とミネラルウォーターしかないんだけど」

「じ、じゃあ、お水がいいかな」


 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してグラスに移し替えた俺は、カウンター席に座っている志乃に手渡すと、「ありがと」とグラスを受け取って小さく喉を鳴らした。


 瑞樹の隣の席に戻った俺も緊張を誤魔化すようにグラスに注いだ水を、一気に喉に流し込む。


 薄暗い照明にぼんやりと照らされたTシャツ一枚の志乃の後ろにあるベッドが、視界に入る。

 そもそも寝室がある間取りの部屋なのに、リビングのど真ん中に無造作にベッドが置いてあるのがおかしい。

 この妙な配置のせいでカウンターからベッドが視界に入ってしまって、必要以上に意識してしまう。

 誰も来るはずないと適当にベッドをリビングに置いてしまった事を、俺は心の底から後悔した。


「あ、あのね!」

「ひゃい!」

「ど、どうしたの!?」

「い、いや、気にしないでくれ……ホントに」


 邪な気持ちが大きくなってしまった俺は、不意に志乃に声を掛けられて妙な反応をしてしまった。

 それなりに経験がある俺だけど、みっともなくテンパってしまうのは、今の志乃から破壊力抜群の美しさが漂っているからだ。


「……ホントにいいのかなって」

「いいって、何がだよ」

「だ、だから……これから良介と……その」


 今にも消えそうな声でそう話す志乃が握っていたグラスの水が、小さく揺れた。


「怖くなったのか?」

「……うん。でも良介とそういう事をするのが怖くなったんじゃないよ? ただ私の独りよがりだったのかなって……そう思ったら怖くなって……」


 志乃が胸中の想いを告げた時、俺はある事を決心して彼女が座っている椅子を俺の方にクルリと回して、向かい合う体制を作った。


「志乃が東京に帰ったらバレる事だから話すけどな」

「うん……なに?」

「実は今日、志乃に会いたくて東京へ行ってたんだ」


 俺が恥ずかしい思いを我慢して東京へ行っていた事を話すと、志乃は驚く素振りすら見せずに、コクリと頷く。


「そうなんだってね。家に電話した時に希から聞いたよ」

「なんだ、もう知ってたのか」

「うん。凄く嬉しかったから良介が帰ってきた時、抱き着いちゃった」

「そっか――だからか」


 俺は知ってるのならと東京で走り回った事を簡潔に話した後、新潟に戻ってきてからの事を話した。

 電車を降りて自転車で自宅に向かっている最中に、1人で考えていた事を……。


「俺にとって最初で最後の我儘のつもりだった。でも、会えなくてこっちに戻ってきた時にさ、志乃の事を完全に諦めるように気持ちを整理しようとしてた」

「…………」

「だからここに帰ってきて部屋の前で志乃の姿を見た時、俺がどんな気持ちだったか分かるか?」

「…………喜んでくれた?」

「そんなもんじゃない! 体中が痺れてさ! 立ってるのがやっとで息するのも一瞬忘れてたくらいなんだからな!」


 俺はあの時の嬉しさが蘇って勢いよく席から立ち上がって、全身を使って喜びを表現して見せた。

 志乃はそんな俺を見て一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに嬉しそうに頬を赤く染めて微笑んだ。


「だから……さ、志乃を完全に俺のものにしたい気持ちは本当なんだ。ここを出ようとしたのは志乃の事だけを考えてした事だから」

「それじゃ……良介だけの気持ちは?」

「今すぐ志乃を抱きたいって思ってる。ていうか、もう我慢するつもりもないんだけどな」

「えへへ、嬉しい。じゃあ一生に1度しかあげられない私のプレゼント……受け取ってくれる?」

「あぁ、勿論だ」


 ◇◆


 ゆっくりと唇を重ねる。

 深く深く、俺は自分の気持ちを伝える為に体を密着させて、深くそして長く唇を重ねる。

 やがて舌を志乃を唇に触れさせて、ゆっくりと彼女の口の中に侵入させていく。

 志乃はピクっと驚いた動きを見せたけど、すぐに自分の口の中に入ってきた俺の舌におずおずと自分の舌を当ててきた。

 その感触を合図に志乃の舌に自分の舌を絡ませて、時に優しく時に激しく彼女の口内を貪る。


「……ん……あっ……んふ」


 静まり返った部屋を、志乃の甘い吐息とクチュクチュと唾液を貪り合う卑猥な音だけが支配する。

 暫く深いキスを交わしていると、最初はおずおずといった感じだった志乃が何時の間にか俺の後頭部に手を回して、もう離さないと言わんばかりに自分の方から積極的に俺の口内に舌を侵入させてきた。

 とてつもなく柔らかい志乃の舌が入ってきた事に完全にスイッチが入り切った俺は、彼女の舌を貪り尽くすように激しく絡み合わせた。


 やがて重ねていた唇を離すと、俺達の間には卑猥な唾液でできた糸を引いていて、その先には「はぁはぁ」と呼吸を乱して、今にも涙を流しそうな程にトロンと瞳を潤ませた志乃の顔があった。


 俺は何も言わずに志乃の背中と両膝に腕を回して、席から立ち上がる。所謂お姫様抱っこというやつだ。

 志乃をこうして抱きかかえるのは2度目だなと思っていると、彼女は嫌がる素振りなど見せずに俺を見つめたままアップにしていた髪を解き、両手を俺の首に回した。


 抱きかかえたままカウンターのすぐ後方にあるベッドへ移動して、志乃を優しく寝かせた後、俺は彼女の上に覆い被さるように両腕を立てた。

 艶やかで綺麗な髪がシーツに広がり、柔らかい明るさを落とした照明が志乃の姿を照らす。


 これからずっと死ぬまで忘れられない、濃密な夜を過ごすのだと、俺は志乃を優しく包み込んだ。



――あとがき――


業務連絡――残り、5話です!

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