第82話 キスの先

 本当に好きな人とのキスって凄いと思う。

 唇の感触と温もりが自分の唇から伝わって、体中に幸福感が満たされてく。


 岸田君との初めてのキスはドキドキしたけれど……少し怖った。

 勿論、岸田君がわるいんじゃなくて、私の気持ちが定まってなかったからだ。


(そういえば、これがファーストキスじゃないって良介に話した方がいい……のかな)


「あ、あの……ね。もう1つ話さないといけない事があるんだけど……」

「ん? なんだ?」


 初めて唇を重ねてから震える心が抑えられなくなって何度も何度も交わしたキスで乱れた息を整えてると、熱くなった頭の中が落ち着いてきた途端、これがファーストキスじゃない事に後ろめたさが湧いてきた。


「りょ、良介とのキス……なんだけど。は、初めてじゃないの――ごめんなさい」


 別に初体験をしたわけじゃないから、黙っていればいい。多分愛菜達に相談したらそう言われるんだと思う。

 でも、もう彼には嘘や隠し事はしたくないから、正直に岸田君との事を話そうと決めた。


「それって岸田とだよな?」

「……う、うん」

「そんなん謝る事じゃないだろ。岸田と付き合ってたわけなんだしさ」

「で、でも……その……男の人って気にするんじゃないの?」

「人によるんじゃね? 志乃みたいな綺麗な女の子と付き合ってるんだぞ? そりゃ岸田だって男なわけだしさ。俺は別に気にしないよ」

「……あ、ありがと。で、でもね! キス以外は初めてだから!」


(――な、何言ってんだろ……私)


「み、志乃!?」

「あ、あはは。さ、さてと! ケーキも食べ終わったし洗い物するね」


 カウンターに並べられている食器を纏めて慌ててキッチンに運んで洗い物を始めたのは、勿論とんでもない事を口走ってしまった照れ隠しだ。


「俺も手伝うよ」

「え? で、でも」

「志乃の気持ちは嬉しいんだけど、何もしないってのも居心地悪いんだよ」

「そ、それじゃあ……お願いします」

「おう」


(……志乃)


 間宮さんが私の事が好きだって言ってくれてから、自然に私の事を呼び捨てにしてくれている。


 体に痺れる感覚があって、凄かった。


 ずっとこんな事を夢見てたから、私の手料理を食べてもらって、今こうして並んで食器を洗ってる事に現実味があまりなくて、ふわふわと飛んでいきそうな気がする。

 私も気持ちが高ぶってしまって思わず良介なんて呼び捨てちゃったけど、遥かに年上の人に偉そうだったかな……。

 だけど『良ちゃん』って呼び方は優希さんや早紀さん。それに優香さんが使ってる愛称だから、何だか使いたくなかった。

『良君』も可愛くて捨てがたいけど、何だか間宮さんのイメージにしっくりこない。

『良介さん?』んー悪くないと思うけど、私の目標から外れてる気がするんだよなぁ。私は頑張って少しでも対等の立場で話が出来る女になりたいから、『さん』付けは何だかいつまでも、見上げてる気がするから却下だ。

 それにかなり偉そうな呼び方だとは思うけど、完全に呼び捨てる方が特別な関係っぽいし、何より一番近い存在になれた気がする。


「あ、あのさ……」

「ん-?」

「間宮さんの事……その、良介って呼び捨てにしていい……かな」

「家族以外の女の人に呼び捨てられるのって、何気に初めてかも」

「え? そ、そうなの!?」

「あぁ、大体何故か『ちゃん』付けだったからな」

「……そうなんだ。それじゃ、私も良ちゃんの方がいいよ……ね」

「え? なんでだよ。呼び捨てにしてくれていいって! つかさっき呼び捨てにしてたじゃん」

「あ、あの時は……その、願望が漏れちゃったと言いますか……」

「はは、なんだそれ。んじゃ、それでいいじゃん。何かその……特別な感じがするし……な」

「そ、そっか……いいんだ……えへへ」


 何と言えばいいんだろう。

 色で例えたら、お部屋の空気がピンクに染まった感じと言えばいいのかな。


 とにかく幸せ過ぎてふわふわする感覚があるんだけど、ずっと変な緊張感がとれない。

 食器を洗う手が震えてしまって思わずお皿を落としそうになる程だ。

 だけど、隣で同じように食器を洗う良介は何時もと変わらないのが何だか気に入らなくて「――良介は慣れてるもんね」と皮肉を込めて呟いてみた。


「え? なんか言ったか?」

「……別に何でもないよ」


 聞こえるか聞こえないかの微妙な声で言ったから、水道の水の音で聞こえなかったみたいだけど、まぁいいか。


 洗い物が終わって一息ついていると、良介が隣の部屋に積み上げている段ボールを漁りだした。何をしてるのか気になったけど、私が何も言わずに様子を伺っていると、今度は小さな鞄を手に持ってそのまま浴室へ向かって何やらゴソゴソしてる。


 流石に何をしてるのか気になった私は浴室に向かって、良介に声をかけた。


「ねぇ、なにしてるの?」

「何って、志乃のバスタオルとタオルの準備してるんだよ。着替えとかはあるんだよな?」

「え? う、うん。日帰りが無理なのは分かってたから、一応持ってきてるけど……」


「そっか。タオル類はウチので我慢してくれな。もう少ししたら風呂も沸くし、この部屋を自由に使ってくれていいから」


 そう言う良介は当然と言わんばかりに、玄関に向かって行く。


(……ま、まさか……流石に……ねえ)


「ち、ちょ、ちょっと待って! 良介はどこに行く気なの!?」

「どこって、さっき言ったろ? 志乃がこの部屋を使って、俺がネカフェに泊まるって」


(まさかとは思ったけど……マジか)


 確かにそんな話はしてたけど、あれはあくまで付き合う前にした話だったはずだよね。


(今は正式に恋人になれたのに……)


「どうして? 私達って付き合ってるんだよね?」

「それはそうだけどさ。来客用の布団って全くないし、雑魚寝するにしてもこの辺りはまだ朝晩冷えるんだよ」


 この人は私を過保護に扱い過ぎてると思う。

 大切にしてくれるのは素直に嬉しいけれど、もう少し強引っていうか……良介の方こそホントに私を女だと思ってるんだろうか。


「だ、だったら、一緒にベッドで寝ればいいじゃん!」

「いやいや! だからさっきも言ったけど、俺だって男なんだって」

「分かってるよ!」

「付き合ったっていっても、つきさっき付き合い始めたばかりなんだから……その、駄目だろ。でも一緒に寝たりしたら流石に我慢する自信がないっていうか……さ」


 良介は頭を掻いてプイっと目を逸らしてそう言う。

 彼の優しい気持ちが理解できないわけじゃない。


(――だけど今の私には、その優しさは必要ない)


「……私はまだ誕生日プレゼント渡せてないんだよ?」

「プレゼントって……何言って――」

「――我慢なんてしなくていい……だから一緒に寝よ? 良介」

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