第75話 あの人の元へ 前編
5月27日 間宮さんの誕生日当日。
私はいつものように日課になりつつあるジョギングをしていた。
いつものルートを走っていつもの充電ポイントで足踏みしながら、いつもの部屋を見上げる。
今日が自分にとって大切な日であっても、このルーティンは変わらない。
(……あ、カーテンかかってる。とうとうあの部屋に誰か住み始めたんだ)
ずっと窓になかったカーテンが閉まってるのを見て、間宮さんが住んでいた空気が無くなってしまった事を知った。
でも、もういいんだ。
だって、今日は間宮さんが元住んでいた所じゃなくて、間宮さんが住んでいる所に行くんだから。
今朝起きてから、ずっと不安しかない。
走れば少しは楽になるかと思ったんだけど、どうやらそれに期待できなさそうだ。
勿論、怖気付いて会いに行くのを止めるなんて選択肢は、私にはない。だけど、どうしても上手くいくイメージがもてなくて……何でもいいからゲンを担ぎたくなった。
(えっと、今日あの部屋に入居者が入ったという事は、きっと神様がもうここじゃなくて、あの人が住んでる部屋に行けって言ってる……って事にしよう、うん)
「よし、いこう!」
私は足踏みしてた足を前に出して、ジョギングを再開させた。その一歩一歩があの人の元へ続いてると信じて。
「……はぁ、はぁ、はぁ、やっとここまで走れるようになった」
間宮さんが住んでいたマンションを後にした私は、A駅前に着いて完全に止めた足に手を当てて、呼吸を整えようとする。
ジョギングを始めた当初、5キロ走れるようになりたいと目標を設定してルートを作った。そのゴールがこのA駅前なのだ。
最初は3割程度しか走れなかったけど、ついに完走できた。
まだ早朝だから駅前の人の流れも疎らで、比較的静かな時間帯でとても気持ちがいい。回復してきた呼吸を完全に整える為に大きく深呼吸してから体を左右に捻って伸ばしてると、私の視界の先にストリート用のバスケットコートがあった。
(えっと、確かこの辺に隠してるって言ってたよね)
そのコートを見て前に間宮さんが言ってた事を思い出した私は、金網に囲まれたコートの脇を探索していると、お目当てのかなり使い込まれたバスケットボールを見つけた。
「やあ、ボール君。君もご主人様に置いていかれたんだね……。私と同じだ」
私は見つけたボールを持ってコートに入る。
素人感まるだしのぎこちないドリブルでゴール下まで進んだ所で、これは使えるとフープを見上げてからスリーポイントラインまで下がった。
このシュートが入ったら、間宮さんが私の気持ちを受け入れてくれる――という事にしよう。
さっきのマンションの件では飽き足らず、今度はシュートが決まるか否かでゲンを担ごうと思ったんだ。
でもスリーポイントシュートは大阪で間宮さん達とやった時は、シュートが入る入らない以前にボールがフープに届かなかった。
これはゲンを担ごうにも、かなり分が悪いミッションだとボールを持つ手に力が入る。
難しい条件をクリアして、不安な気持ちを吹き飛ばしたい一心だったのだ。
間宮さんの真似をして打ってたら、女の子の力じゃ届かないからと両手打ちを教えて貰った。
お祭りの時にぴよ助を取ってくれたイメージが、私の頭の中にしっかりと記憶されている。
利き手の指をボールの縫い目に合わせ、ボールを構えるのと同時に目を閉じて深呼吸。
大切なのはイメージとリズム。
間宮さんが大阪で教えてくれた事。
「……大丈夫、自信もって」
膝を曲げた足から真下に力を込めて、フロアから上に向かって蹴りだした力を膝から腰へ繋いでいく。
その繋がった力が上半身を抜けて肩から腕に伝わってくると、私の体は自然と宙に浮いていて頭上に構えていたボールが最高到達点に達そうとしていた。
やがて最高到達点にボールが達すのと同時に、下から繋いできた力が指先まで伝わってくる。私はボールをそっと押し出すイメージでフープに向けて放った。
放たれたボールが綺麗な放物線を描く。
大阪では届きもしなかったボールが途中で降下する事なく、フープに向かって音もなく飛んでいく。
大阪の時は完全に運動不足で体の使い方が下手で上手く力の伝達が出来なかったけど、日課にしてるジョギングの成果で足腰が安定して上手く力を伝えられたはずだ。
やがて放たれたボールが『ゴンッ』と音を立てて、フープの手前に接触してしまった時、もう一つ教えて貰っていた肝心な事を思い出した。
確かまたバスケをやる事があったら、女性用の6号のボールでやればいいと言われた事を。今使っているボールは間宮さんのなんだから、当然男性用の7号!?
「しまっ!」と声をあげかけた時、フープに当たったボールが手前に弾かれずに奥にあるバックボードに『バンッ』と音を立てて上に跳ね上がった。
私は予想外のボールの行方を懸命に目で追う。
完全に勢いを失ったボールはフープの上で1度小さく跳ねてから、リングの淵をクルッと半周回ったかと思うと、そのまま鎖で編まれたネットを揺らして、フロアにテンテンと跳ねて落ちた。
「――は、入った!?」
転がっているボールを見て、私は誰もいないのに入ったかどうかのジャッジを求める。まさかホントに入るとは思わなかったから、仕方がない。
「入った……入った! はいっったーーー!!!」
まさかのスリーポイントが決まって早朝の駅前で大はしゃぎする私ってとは思うけど、今はどうでもいいと力いっぱい飛び跳ねて喜びを体全体で表した。
「君も一緒に間宮さんのとこに行こう!」
転がっているボールを持ってそう話しかけた私は、そのままボールを抱えて自宅へ戻る事にした。
「旅は道連れって言うもんね!ってこれは違うか」
もう緊張と嬉しさで訳が分からなくなって、1度落ち着こうと真っ先にシャワーを浴びた。
汗がお湯と一緒に流れ落ちていく度に、さっきの変なテンションも落ち着いてきて、いよいよだと覚悟を決める。
シャワーを浴び終えた私は手早く朝食を作って、家族4人でテーブルを囲んだ。
両親に昨日のオムライスは何だったんだって散々訊かれたけど、まさかお父さんに今日新潟にいる好きな人に食べて貰う為の練習なんて言えるはずもなくて、私は大学の集まりでとか何とかと誤魔化した。
朝ごはんを食べ終えて洗い物を済ませた私は、予約している美容院へ。高校を卒業した時にかなり切ったんだけど、少しでもあの人に綺麗に見られたいという気持ちと、私なりの決意表明という意味も込めて髪を切り整えた。愛菜に話したら「あざとい!」とか言われそうだけど、やっぱり好きな人には綺麗に見られたい!これが女心ってやつだと思う。
美容院の帰りにやっぱり誕生日といえばケーキだよねと、事前に纏めておいたレシピに必要な材料を買い込んで帰宅後、すぐにキッチンに入った。
そんな私の様子を見た両親が「またオムライス?」と怯えた声で訊いてくる。確かに昨日は迷惑かけたなとは思うけど、そこまで嫌がらなくてもいいと思う。希なんて「危険回避!」とか言いながら家を出て行くし……。
私はそんなお父さん達を無視してケーキ作りに没頭していると、お母さんが何かを察したみたいでさり気なくサポートに着いてくれた。
そんなお母さんの気持ちは嬉しかったけど、しっかりバレてるみたいで恥ずかしくもあった。
マル秘レシピと睨めっこした末に、やっと納得出来るものが完成した。今回作ったケーキは綺麗にデコレーションしたロールケーキだ。
完成したロールケーキを準備してた箱に詰めて、箱の両端に仕切りを作りそこに買っておいたドライアイスを仕込む。
詰め終わった箱に大人っぽいデザインのリボンを巻いて、慎重に冷蔵庫に入れた私に「誰かの誕生日なの?」とお母さんが訊いてきた。私が黙ってコクリと頷くと「そっか」と何だか嬉しそうだった。
やっぱりお母さんにはバレているみたいだけど、揶揄うわけでもなく支度してくると部屋に戻ろうとする私に「いってらっしゃい」と小さく手を振る姿に照れ臭くなった。
「うーん……よし! これとこれの組み合わせにしよ」
着る服を選んで着替えを済ませたところで、ドアをノックする音に「どうぞ」と返すと、何時の間にか部屋着から外行きの恰好をしたお母さんが入ってきた。
「あれ? お母さんも出掛けるの?」
「うん。久しぶりにお父さんと、夏物の服を買いに出掛けようと思ってね」
そう話すお母さんは何だか嬉しそうで「相変わらず仲いいね」と言うと、お母さんの頬が少し赤くなった。
結婚して長い時間を過ごしてきたにも関わらず、ケンカする時もあるけれど、こうして嬉しそうに2人で出掛ける姿を見て、私は羨ましく思う。
「ていうか何時も思うんだけど、お父さんはともなくお母さんって支度するの本当に早いよね」
「当たり前じゃない。何年日本のビジネスウーマンやってると思ってるの!」
言ってドヤ顔するお母さんが可笑しくて、思わず吹き出してしまった。
「出掛ける前に、ちょっと志乃と話をしたくてね。志乃も出掛けるんでしょ? 時間は大丈夫?」
「うん。まだ時間には余裕あるけど、どうしたの?」
「志乃って好きな人がいるのよね?」
私のベッドに腰掛けたお母さんが突然そんな事を訊いてくるものだから、髪を解くブラシが止まってしまった。
「い、いけない!?」
「まさか! もしそうなら嬉しいなって思っただけよ」
「…………」
「去年の夏頃だったかしら? あの頃から志乃の雰囲気が随分と変わったよね」
「……そうかな」
「ええ、特に笑い方が変わったわ。それまでの志乃は無理に笑顔を作ってたでしょ?」
「――え!?」
「アンタ隠せてると思ってたの? 母親なめないの」
そう話すお母さんの目に、とても深い優しさを感じた。
お母さんの話によると、どうやら中学3年のあの事件が起こってしまってから、すぐに様子がおかしいと感じたらしくて、それからは注意深く私を見ていたと言う。
それからはもしかしてと、悪い想像ばかり頭を過って眠れない日もあったそうだ。
だけど、私から助けを求めてこない限り勝手な行動を起こしてしまえば、隠そうとしている私の心に更に傷を負わせてしまうのではないかと、学校で何があったのか訊けなかったとお母さんを苦しませてしまっていたようだ。
そんな状態が暫く続いたある朝、いつものように朝食を作っている私の顔に変化を感じたらしい。
相変わらず作った笑顔だったけれど、それでも少しその笑顔が変わったと言う。恐らくお母さんの言う変化は、岸田君が私に声をかえてくれた時の話だろう。
それから日を追うごとに自然と明るくなってきた私が、ある日また戻りだしたと言う。きっと岸田君が転校してしまった辺りの事だと思う。
もう何度も喉から出かかっていた言葉が出せなかったのが苦しかったと、辛そうに話すお母さんの目に光るものが見えた。
でも、最後まで問い質さなかったのか。それは私が志望校を変えたいと言い出した時の目に、僅かに光が見えた気がしたからだと言う。
それから猛勉強を経て見事英城学園に入学して、少しは元気が戻ったように思えたけれど、やっぱり元の私には戻れてないとお母さんは落胆したそうだ。
だけど、高校3年生になって初めてゼミの合宿に参加して帰ってきた時の笑顔は忘れられないと、お母さんは嬉しそうに話してくれた。
あの時の私の目は希望に満ちていて思わず自分の目を疑った程だったという。そんな私の姿を見てこれまでの事が走馬灯のように頭の中に浮かんで、我慢できなったお母さんはシャワーを浴びてるフリをしてお風呂場で泣き崩れたと告白された。
「合宿で得たのは学力だけじゃなかったのね」
「うん。心から大切だと思える出会いがあって、その人達のおかげで私は救われたんだ」
「そっか。もしかして、その出会いの中に間宮さんもいたの?」
「……う、うん。間宮さんは臨時講師として合宿に参加してたの」
「志乃の好きな人って、間宮さんなのよね?」
「……そうだよ」
「そう。それなら親としても、志乃と同じ女としても、何も言う事はないわね」
「……お母さん」
「当然でしょ? 志乃を助ける為にあんな無茶してくれた男なのよ? 本当に素敵な出会いがあったのね」
「うん」
「頑張ってきて、本当に良かったね、志乃」
「……う……ん。心配かけて……ごめんね。お母さん」
私は手に持っていたブラシを手放して、静かにお母さんの胸元に額を当てた。
「ふふ、志乃が泣くところを見るなんて、何時以来かしらね」
「……う、うう……うぐっ……お母さん」
「頑張ってきなさい。志乃ならきっと大丈夫!」
「……うん、ありがとう。お母さん」
私の事を抱きしめてくれるお母さんと、これまでの辛かった記憶を洗い流すように涙を流し合った。
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