第76話 あの人の元へ 後編
「それじゃ、いってきます! お母さん」
「うん、いってらっしゃい! 気を付けてね。私達もすぐに出るから」
瑞樹は玄関先まで見送りに出てきた華と別れて、自宅を飛び出した。拓郎が出掛けるなら駅まで送ってやると言ってくれたのだが、どうせ道中に質問攻めにあう予感しかしない瑞樹は当たり障りのない理由をつけて断った。
自転車で駅まで向かいたいところであったが、自転車の振動でロールケーキが型崩れを起こす恐れがある為、瑞樹は迷わず徒歩でA駅に向かう。
駅に着いてからも常にロールケーキが入った箱に気を配りながら改札を潜り、いつもなら運動不足解消の為に階段でホームに上がるのだが、今日は階段と並走して設置されているエスカレーターを使う。
エスカレーターがホームまで残り4分の1まで差し掛かった時、瑞樹の後方でドサッと何かが倒れる音がした。
瑞樹は顔だけ振り返り音の出所を探ると、老夫婦らしき2人が荷物の重さに耐えきれずに、階段の途中で転倒しているのを目撃した。
倒れた2人とエスカレーターと階段側ですれ違った時、重そうな荷物だなと気になっていたが、案の定転倒してしまったようだ。
すぐにでも手を貸したかった瑞樹だったが、エスカレーターに乗っている状況ではどうする事も出来ずに2人を心配そうに見つめる。
ゆっくりと昇っていくエスカレーターに苛立ちながら遠ざかっていく老夫婦から目を離さなかったが、他の通行人が邪魔で倒れてからどうしているのかよく見えない。
だが、後少しでエスカレーターを上り切る所まで来た時、転倒している老夫婦に誰かが歩み寄る姿が微かに見えた。
老夫婦を無関心に階段を降りて行く通行人達が邪魔だったが、どうやら男性が老夫婦に歩み寄り、倒してしまった荷物を持って老夫婦を階段の下まで付き添う姿をエスカレーターを上り切った所で確認出来た。
どんな人なのかまでは確認出来なかった瑞樹だったが、男性の行動が彼女の心を温める。以前、間宮が東京の人間は冷たい奴ばかりだと嘆いていたのを思い出した瑞樹は、遠い新潟にいる間宮に向けて呟いた。
(ほら! 東京の人だって思い遣りのある人だっているんだからね!)
間宮に会えたら自慢してやろうと口角を上げる瑞樹は振り向くのを止めて、停車している電車へ軽やかに乗り込んだ。
無事に東京駅に到着した瑞樹は事前にネットで手配していた新幹線の乗車券を窓口で受け取り、間宮が住む新潟に向かう新幹線に乗車した。
ロールケーキが入った箱以外の荷物を棚に上げて席に着いた瑞樹は、買っておいた缶珈琲を口に含んで車窓から駅のホームを行き交う通行人達を眺めながら思う。
(そういえば、1人で新幹線に乗って遠出するなんて初めてだ。さっきまで不安ばかりだったけど、何だか冒険に出発するみたいでワクワクしてきた)
暫くすると、ついに不安と期待に胸を躍らせた瑞樹を乗せる新幹線が、間宮がいる新潟に向けて走り出した。
――ここから、2人にとって長い長い1日が始まる。
「ここが新潟駅かぁ」
新潟駅に到着して新幹線を降りた瑞樹は辺りをキョロキョロと見渡しながら、次の電車に乗り換える為に移動する。
東京と比べて圧倒的に通行人が少なく、快適に次のホームに歩を進める事が出来る。生まれも育ちも東京で人混みをすり抜ける術を心得てはいるが、決して人混みが好きなわけではない瑞樹にとって、新潟を歩くのは快適そのものなのだ。
移動する足取りが軽い。
颯爽と風を切るように歩いていく。
それは人混みの中を窮屈に歩くのではなく、自由に歩けるからだろうか。それとも、ずっと会いたかった人が住んでいる町の空気に触れる事が出来たからだろうか。
とにかく、新潟に着いてからの瑞樹は晴れ晴れとした様子だった。
事前に調べたルートを確認しながら電車を乗り継ぎ、ついに間宮のハイツがある最寄り駅に辿り着いた瑞樹。
思っていたより遥かにあっという間にここまで来れたというのが、瑞樹の正直な感想だった。新潟と聞くと遠距離というイメージがあったが、実際に行ってみると瑞樹にとっては大した距離には感じなかった。
それを可能にした日本が誇る新幹線という文明の利器に感謝しつつ、とりあえず休憩がてら駅前にあるカフェに足を向ける。
店内はいかにも個人経営といった感じの店で、どちらかというとカフェというより喫茶店といった感じの店だった。
そんなレトロな空気を感じながら注文した珈琲が出されるまでの間に、ここまで大切に運んできたロールケーキが入った箱の中をチェックすると、ケーキにデコレーションを施した部分も含めてしっかりと原型を維持しているようで瑞樹は安堵の息を吐く。
箱を横にずらして窓から外を眺める。
ここが間宮が生活している町だと思うと、何故だか関心深い気持ちになる。暫くして運ばれてきた珈琲を口に含んで腕時計で時間を確認すると、針は午後5時前を指していてほぼ予定通りに進行している事に口角を上げた。
勢いでここまでやってきたが、この突撃作戦には最大の不確定要素がある。
それは、間宮本人にアポがとれていない事だ。
連絡先が分からなかったから、当然といえば当然だった。
昼過ぎに突撃する事も考えたのだが、昼間だと留守の可能性が高いだろうと夕方のこの時間に訪れたが、だからといって留守の可能性が消えたわけではないのだ。
ただ外出していて留守だったのなら待てばいい。
瑞樹にとって一番最悪なパターンは、間宮の誕生日を誰かに祝って貰っていて留守にしている場合だ。
間宮の過去を知っている瑞樹は、流石にすでに恋人ができていて、その女性と誕生日を過ごしているというのはないと考えている。
だが、間宮に気持ちを寄せている誰かに誘われている場合なら、可能性は決して低いとは言い切れない。
もっと言えば外出しているのではなく、他の女性と今から向かおうとしている部屋にいた場合の事を想像しただけで、瑞樹の胸は張り裂けそうな痛みを感じた。
「……でも、それでも……逃げないと誓ったんだ。どんな結果になっても、このまま前に進めない事の方が絶対に駄目なんだから……」
そう呟いて気持ちを奮い立たせた瑞樹は、もう1つの文明の利器であるスマホを取り出した。
立ち上げた地図アプリに間宮が住んでいる住所を入力して検索した結果、ここから徒歩だとそれなりの距離があるのが分かった。
だが折角来たのだからとタクシーを使わずに歩いて向かう事にした瑞樹は、カフェを出て地図アプリを頼りに歩き出す。
道中、観光気分で間宮が住んでいる町を興味深く探索しながら歩いていくと、決して活気があるというわけではなかったが、何と言うか落ち着く感じを受けた。
原因は何故だろうと考えながら歩いていくと、偶々すれ違った通行人達の雰囲気が違う事に気付く。
東京の人間は目に見えない時間に常に追われている感がある。それは働いていない学生にも同じ事が言えて、友達と遊んでいる時でさえ無意識に速足になっている事もある。
それに比べて決して呑気にしている訳ではないのだが、ここの人間はどことなく余裕を感じた。
間違っているかもしれないが、瑞樹にはそう感じたのだ。
そんな空気を感じながら歩を進めている瑞樹のスマホが鳴り、地図アプリが画面から消えた代わりに、希の名前と番号が表示された。
「もしもし?」
「あ! お姉ちゃん!?」
「うん。どうしたの?」
「あのね、今ね――」
そこで耳に当てていたスマホのスピーカーからプッと音が聞こえたかと思うと、それ以降希の声が聞こえなくなった。
「希? あ、バッテリーが切れてる」
そういえばと思い返してみると、昨晩はそわそわして中々寝付けずにベッドでコロコロと転がっていて、うっかりスマホの充電をするのを忘れていたのを思い出したのと同時に、瑞樹は大変な事に気が付く。
バッテリーが切れてスマホが使えなくなったという事は、目的地までの地図が見れなくなってしまったという事に。
(ど、どうしよう……)
誰かに道を訊こうにも、間宮のハイツの住所はスマホのメモアプリに書き込んであるだけだった為、ザックリとした所までは覚えているが、細かい番地までは覚えていなかった。
全く土地勘がない瑞樹は、いきなり迷子になってしまったのだ。
元来た道を引き返す事は出来るが、引き返しても何も解決しないと途方に暮れていると、瑞樹のすぐ横に軽自動車が停まった。
軽自動車からハザードがチカチカと焚かれたかと思うと「あの、すみません」と運転手に声をかけられた。
「人違いだったらごめんなさい。もしかして瑞樹さんじゃないですか?」
「え!?」
ここは新潟だ。
こんな場所に、間宮以外の知り合いなんているわけがないはずの瑞樹に声をかけてきた女性の口ぶりから、どうやら自分の事を知っているようだと驚いた。
「……そ、そうですけど」
「あ! やっぱり瑞樹さんだ!」
少し自信無さげに声をかけてきた女性は、声をかけた相手が瑞樹で間違いない事を確認した途端に明るい声を上げる。
声をかけてきた女性はとても綺麗で、如何にも仕事が出来るといった雰囲気があり、美人というよりも所謂格好いい女性といった感じだった。
「……えっと」
「ふふ、いきなり声かけてごめんね。私は川島っていいます。覚えてないかもしれないけど、天谷さんのゼミで1度見かけた事があるんだよ?」
(天谷さんのゼミって私が通ってたゼミの事? 東京のゼミの話……だよね)
言われてみると、確かに初めて見た気がしなくなってきた瑞樹は、失礼なのは百も承知で川島の顔をジッと凝視する。
(私の事知ってるみたいだけど誰? ん? ちょっと待って! この雰囲気って――)
「あっ! ゼミで間宮さんと一緒にいた人!」
「はは、正解! やっぱり間宮さんとセットで覚えられてたかぁ。ていうかビックリしたよー! こんな所に瑞樹さんがいるんだもん」
「えっと、私も驚きました。まさかここで間宮さん以外の人に声をかけられるなんて思ってもなかったので」
「まぁそうだよね。ところで、こんな所で何してたの? って愚問だね。間宮さんに会いに来たんだね」
「……そうなんですけど……あっ! 川島さんって間宮さんが住んでる住所ってご存知ですか!?」
その問いかけに、川島は行った事はないけれど話には聞いた事があるから知っていると答えると、瑞樹は途中でスマホのバッテリーが切れてしまって困っていた事を話した。
「――なるほどね。そういう事なら送ってあげるから乗りなさい」
「え!? い、いえ、迷惑でしょうから道だけ教えて貰えれば……」
「別に帰る途中だから、迷惑なんかじゃないよ。こうして噂の瑞樹さんに会えたんだもん。ドライブがてら少し話相手になってよ」
噂という単語が気にはなった瑞樹だったが、こういう言い回しが出来る川島の大人の優しさに触れた気がして、厚意に甘える事にした。
「えっと、それじゃお言葉に甘えさせて頂きます」
「そうこなくっちゃね! さ、乗って!」
川島は助手席に瑞樹が乗り込み、シートベルトを締めたのを確認すると、ハザードを消してアクセルを踏んだ。
「ところでどうして日曜日の今日なの? 東京から距離もあるんだし、土曜日の方が良かったんじゃない?」
「はい。えっと……今日が間宮さんのお誕生日で、お祝いがしたくて来たんです」
川島は「あぁ、そっか」と納得してから、間宮には何時ごろに行く事になっているのか問うと、瑞樹はアポなしで来たから本人は何も知らないと答えた事に心底驚く。
瑞樹は事前に連絡をとりたかったが、連絡方法がなかったのだと付け足すと、川島は大きく頷いた。
「そっか! 間宮さん携帯持ってないもんね。何度か不便だろうから持てばって言ったんだけど、その度に今は余り必要性を感じないからって未だに買ってないんだよ」
(何故だろう……。『必要性を感じない』という言葉が『お前と話す必要性を感じない』って言われた気がする……)
その後は「こんな時間に会ったりしたら、今日中に東京に戻れないんじゃない?」と何か言いたげな含みをもたせて訊いてきた川島に、駅前のネカフェで始発まで時間を潰すのだと川島の想像している事を否定した。
そんなやり取りをしていると、やがて川島が運転する車が停まりハザードが焚かれた。
「着いたよ。部屋番までは聞いた事ないけど、確か2階に住んでるって言ってた」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
瑞樹は川島に礼を言ってシートベルトを外してドアノブに手を掛けた時、「1ついい事教えてあげる」と呼び止められた。
「いい事……ですか?」
瑞樹は手を掛けていたドアノブから離して、川島の言葉に耳を傾ける。
そんな瑞樹に満足気な顔をした川島は、先週末に開いた間宮の歓迎会の事を話して聞かせた。
「……怒った? 間宮さんが……私の事で」
「うん、どう? いい援護射撃になったでしょ!」
「え?」
「だから、気を落とさないで頑張れ、瑞樹さん!」
必要性を感じないと言われた気がして落ち込んだのを隠せていたと思っていた瑞樹だったが、川島には通用しなかったようだ。
「川島……さん。はい! ありがとうございます!」
間宮に対してだけは単純女だと自覚している瑞樹は、川島に聞かせて貰った話でさっきまであった凹んだ気持ちを一瞬で吹き飛ばす。 そして作り笑いではない、本当の笑顔を川島に向けた。
「ああ、それと。スマホのバッテリーが切れたって言ってたよね? 瑞樹さんのスマホってどっち?」
「えっと、これですけど」
言って、瑞樹はスマホの背面のりんごのマークを見せた。
「なら丁度よかった。外出用の予備の充電器なんだけど、これ持って行って間宮さんの家で充電させてもらうといいよ」
「いえ、送って貰ったうえに、そんな事までしてもらうわけには……」
「ポータブルが切れた時の予備だから、気にする事ないよ。ほら!」
言って、遠慮する瑞樹の手に充電器を手渡した。
「ホントに何から何まで……すみません」
「いいって、いいって! それじゃ私は行くね」
「はい、お気を付けて。ありがとうございました」
「どういたしまして! じゃね!」
川島はそう言い残して、アクセルを踏み込んで走り去った。
◇◆
「――ここが間宮さんの新居か」
東京で住んでいたマンションと比べたら小さい建物だけど、建ってまだ数年って感じの新しい感じがする。
外壁の色使いとか、建物のデザインが少し変わっててお洒落な佇まいだ。だけど、周りの建物が年季の入った家ばっかりだから浮いてる感じが可笑しくて、笑ってしまいそうになるな。
「2階の部屋だって言ってたから、角部屋から探して行こう」
まだ探検気分が抜けない私は、ドキドキしながら階段を上って一番端の角部屋から順に表札を探す事にした。
まずは左側からと角部屋の表札を見ると、『松井』と書かれている表札が玄関横に張り付けられていた。
この調子で順番に調べて行けばいずれ探している部屋は見つかると、私はテンポよく表札のチェックしていくと、反対側の角部屋に間宮と書かれていた真新しい表札を見つけた。
「あった! ここが間宮さんの新しい部屋だ」
まるで大冒険の末、最後の砦に辿り着いた気分だった。
自分の気持ちに疲れて逃げ出したくせに、周りに散々迷惑かけたくせに、もう1度冒険に出る資格を貰ってここまで辿り着く事が出来た。
私がもう少し強ければ、岸田君を傷つけずに済んだはずだ。
私がもっとしっかりしていれば、愛菜達に無用な心配をかけずに済んだはずだ。
でも、そんな経験をさせてもらったからこそ、今の私の中にある間宮さんへの気持ちがここまで大きく育ったのだとも思う。
さぁ! ついにラスボスの元に辿り着くまで、この扉を開けるだけだ!
「心の準備はいい? 私」
私は大きく、そしてゆっくりと深呼吸をして、目の前にあるインターホンの呼び出しボタンを押す。
東京の立派なマンションのインターホンの高級そうな音じゃなく、訊き馴染みのある一般的な音が鳴った。
だけど、部屋からは何の反応もない。
もう1度押してみたけれど、やはり結果は同じだった。
留守かもしれないという事は想定内だった。
だけど、一大決心してインターホンを鳴らした私には無情の結果なのは変わりなく、ただ項垂れるしかなかった。
時計を確認すると、18時前を指している。
この時間に留守という事は、夕食を外で済ませてくる可能性が高い。
つまりこの状況は、長期戦になる事を暗示していた。
項垂れた私だったけど、このパターンを想定して駅で買っておいた簡単に摂れるバランス栄養食とペットボトルの飲み物を鞄から取り出して、長期戦に備えて軽い食事を摂った。
諦めない。
間宮さんに会えるまでは、絶対に諦めない!
――20時を過ぎた。
まだ間宮さんは帰ってこない。
立っているのに疲れた私は、玄関のドア付近の壁に背中を預けてしゃがみ込んだ。
「…………遅いなぁ、間宮さん」
まるで親の帰りを待っている子供のような心境で、私は寂しく腕時計の針を目で追い続けた。
『……み……ずき?』
『……みず……き!』
頭の中で誰かが呼んでいる声が聞こえた気がした。
その声は懐かしくて、ずっと聞きたかった声。
私の心に直接響いてくる声だ。
そこで私は何時の間にか眠ってしまった事に気付いた瞬間「瑞樹!」と私を強く呼ぶ声がハッキリと聞こえた。
その声に私の意識が瞬時に覚醒して、目をパチパチと瞬きしながら見上げた先に見えたものは――驚いた顔をしている間宮さんだった。
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