第72話 好きな人と、好きだった人

 繋がれた2人の手が離れて、瑞樹が踵を返して会場を出て行くと、その背中を見送った岸田も施設の中に戻る。


 瑞樹には戻らないと言った岸田だったが、もうとっくにバスが出てしまっている事は取り出したスマホを見て知っている。

 物凄い件数の着信履歴とメッセージが届いていたからだ。

 メッセージにはもう待てないから、勝手に帰って来いとコーチが痺れを切らせたと、津田からメッセージがあったのだ。


 当たり前だと苦笑いを浮かべた岸田は、どうせ歩いて帰るのなら瑞樹から受け取った手紙を読もうと、もう人気がない観客席に腰を下ろした。

 岸田は小さく息をついた後、瑞樹からの手紙の封を切って中に入っていた便箋を取り出して視線を落とす。


『岸田君へ。


 お元気ですか?もうお互い高校3年生ですね。

 岸田君は進学?それとも就職?


 進学なら受験勉強頑張ってる?数学が苦手だったよね?

 私は志望大学に向けて、毎日眠い目を擦りながら、勉強頑張ってるよ!

 実は今日、あの時の事を沙織達が謝りに来たんだ。

 それで今どこに住んでいるのか分からないし、番号が変わってしまったみたいで連絡も取れなくなってるんだけど、どうしても岸田君のこの事を伝えたくて、今この手紙を書いています。


 この前ウチの学校で文化祭があったんだけど、そこに平田が来てね……中学の時、岸田君が私に隠していた事を知らされました。

 あ!勘違いしないで欲しいんだけど、別に怒ってるわけじゃないよ?

 ……知らされた時はショックでへたり込んだりもしたんだけど、岸田君は自分が悪者になってでも、私の心が壊れてしまわないようにしてくれたんでしょ?

 私のせいで辛い思いさせてしまって、本当にごめんなさい。

 今は岸田君になにもしてあげられなかった事が、本当に心残りです。


 転校する前日に一日デートした事覚えてる?

 私は一緒に観た映画や、その映画で盛り上がった事、ボーリングで私が勝っちゃって岸田君の悔しそうな顔を今でも覚えてるよw

 あのデートがあったから、岸田君がいなくなった後も、何とか耐え抜いて英城学園に進学できました。

 誰も私の事を知らない学校に進学したくて、偏差値的に無理目な学校に進学しちゃったから、授業についていくのに凄く苦労したんだけ、今は凄く学校が楽しいです。


 岸田君はまだ水泳続けてるの?

 私はあの頃、水泳に打ち込んでる岸田君が羨ましかった。

 あの頃の私には何もなかったから……。

 でもね!そんな私にも夢中にって言うか、高校に進学してから身を守る為に自分を偽ってきたんだけど、私と本音で一緒にいてくれる友達が出来たんだ。

 だから自分を偽る事をやめる事が出来て、今すごく楽しいの!

 辛いはずの受験勉強まで苦にならないくらいにね!


 でも壊れないで今の私がいるのは、あの時岸田君が守ってくれたおかげだよ。

 本当に感謝してます。

 だから、岸田君の気持ちに応える為に、謝りに来た沙織を許す事にしたんだ。

 また昔みたいに仲良くするのには、多分まだ時間がかかると思うけど、ゆっくりと時間をかけて話をしようと思ってる。


 ――この際だから、思い切って言っちゃうけど、あの頃実は岸田君の事が好きでした。

 あんな風にされたら、好きになっちゃうよ!

 だから、転校しないで同じ学校に進学してたら、きっと私の方から告白してたと思う。

 そうしていたら、また違った未来があったのかなって考える事が、今でもあったりなかったり?w

 あ! 違う未来を考えた事はあるけど、別に今が嫌いなわけじゃないからね!?


 実はねぇ、こんな私だけど……今、凄く好きな人がいます。

 まぁ、一方的な片思いなんだけどさ(;'∀')

 その人がね、ずっと殻に閉じこもっていた私を温かい世界に連れ出してくれたの。

 その人が今の楽しくて幸せな時間を与えてくれたから、片思いだけどこの気持ちは最後まで諦めたくないと思ってて、ずっと傍にいて欲しい人なんだ。

 お節介なのは、誰かさんに似てるんだけどねw


 ――岸田君は今、好きな人はいますか?

 もしいるんだったら、その気持ちを大切にしてね。

 もう会う事はないかもしれないけど、私はずっと忘れないし、ずっと岸田君の幸せを願ってるよ。


 最後に、私のせいで嘘で塗り固めさせてしまった岸田君だったけど、1つだけ本当に事があったよ!

 それは持っているといい事があるって言って、私にプレゼントしてくれたあのキーホルダー。

 あのキーホルダーが私の前に、間宮良介という大切な人を連れてきれくれたんだ。

 これがなかったら、間宮さんに出会える事もなかったし、こうして幸せな時間を送れてなんていない。

 キーホルダーがなかったらって考えると、今でも怖くなっちゃうもん。


 私を助けてくれてありがとう。

 あのキーホルダーをプレゼントしてくれてありがとう。

 岸田君のしてくれた全部に、感謝しています。 瑞樹 志乃』


 手紙の内容はここで終わっているはずだったのだが、この後に1行だけ新しい筆跡でこう書き加えられていた。


『今までありがとう。貴方の事が好きでした』と。


 最後まで読み終えた便箋に、ポトポトと雫が落ちる。


「俺だって好きだった! 大好きだったんだ!」


 瑞樹の前では最後まで我慢できていた涙が、手紙の最後の文章に決壊を起こして止めどなく溢れてくる。


 もうここには誰もいないというのに、岸田は泣いているのを悟られまいと前かがみになった時、手に持っていた封筒からチリンと綺麗な音を鳴る何かが、足元に落ちた。

 落ちた物に目を向けると、綺麗な音が鳴った物の正体は昔瑞樹にあげた小さな鈴が付いたキーホルダーだった。


 岸田は何も言わずに落ちたキーホルダーを拾い上げて、両手でギュッと握り声を殺して泣いた。


 どれくらいそうしていただろう。

 気が付くと観客席の最上段の方から「岸田君」と呼びかけられていた。

 ハッと我に返った岸田が見上げた先には、もう先にバスで帰ったはずの津田の姿があった。

 岸田は慌ててジャージの袖を目元に当てて涙を拭い、瑞樹からの手紙を封筒に戻す。


「なんで……ここに? バスはもう行ったんですよね?」

「ご、ごめんね。余計なお世話なのは分かってるんだけど、その……心配で」


 津田はもう待てないと言い出したコーチに自分も残り、責任をもって岸田を大学に帰すと、この場に残ったのだと言う。


「子供じゃないんですから、1人でも帰れますよ」

「うん。それも分かってるんだけど……ね」


 言って、津田は岸田が座っている席の段まで降りてくると。「隣、いいかな」と問いかける。

 無言で頷く岸田を見てニッコリと微笑みながら隣の席に腰を下ろした。


 隣に座る岸田の顔をチラリと横目で見た津田が、小さく溜息をつく。


「やっぱり余計なお世話だったみたいだね……。ごめん」

「……いえ」


 岸田の目が赤くなっている事に気付いた津田は、この場にいたはずの瑞樹と何かあったから集合時間になっても来なかったのだと察した。


「……あの、し、瑞樹をここへ呼んだのって、津田先輩ですよね?」

「え? う、ううん! 瑞樹さんが自分で貴方の応援に駆けつけてくれたんだよ」

「気を使って嘘なんて言わなくていいですよ。今日の事は彼女に言ってなかったんですから」

「……そ、そっか。あ、あはは――ごめん」

「いえ、正直助かったし、嬉しかったです。ありがとうございました」

「ううん。役に立てたのなら……よかった」


 ホッと胸を撫で下ろす津田の前に立った岸田は何も言わずに、握り拳を作った右手を差し出す。

 津田はそんな岸田に首を傾げながらも、差し出された手に右手を恐る恐る出すと、握り拳が解かれてチリンと綺麗な音がする物が津田の掌に落ちた。


 落とされた物を見ると、掌の上にあった物は瑞樹からの手紙が入っていた封筒の中にあった、あのキーホルダーだった。


「折角作ってくれた弁当……すみませんでした」


 そして岸田は昼休憩の時、津田が用意してくれた手作り弁当を拒否した事を詫びる。


「あ、ああ、気にしないで。頼まれてもないのに、私が勝手に作った物なんだから」

「それでもですよ。断るにしてもあれはなかったと思いますし……ね。だからお詫びってわけじゃないですけど、良かったら受け取ってください。古くて何の変哲もない物なんですけど――持ってるといい事があるそうです」


 そう話す岸田の顔が昼休憩の時とは別人のような、まるで憑き物でも取れたかのような、優しい顔を津田に向けていた。


「――あ、ありがとう」


 津田はこのキーホルダーが何なのか知らない。

 だが、岸田がその事を津田に話す時が訪れた時が、きっと岸田の止まった足が前に進む時なのかもしれない。


「いえ、それじゃ、のんびりと駅まで歩きましょうか」

「うん!」


 2人は観客席から立ち上がって、メンバー達がいる大学に向かってゆっくりと歩き出すのだった。


(――さよなら、ありがとう)


 ◇◆


 岸田と別れた瑞樹が元来た道を歩いて戻り、電車を乗り継いでA駅まで戻ってきた時はすっかり日も落ちていて、少し肌寒い風が駅を行き交う人達の元を吹き抜けていた。


 必死に走って疲れ切った足を動かして改札を潜る。

 動きやすい恰好だったとはいえ、いつもジョギングで使っている靴を履いていたわけではなかった為、踵に靴擦れを起こしていたのだが、その痛みがあまり感じられない程に瑞樹の心は疲弊していた。


「遅いぞ、志乃!」


 駅を出た所で自分を呼ぶ声が聞こえた瑞樹が、ピタリと足を止める。聞き覚えがあるその声に、瑞樹は懐かしさを感じた。


「……愛菜……結衣」


 立ち止まった瑞樹が呼びかけられた方を向くと、そこには少し大きな鞄を持った加藤と神山の姿があった。


 2人は立ち尽くして動こうとしない瑞樹に、歩み寄り優しい瞳を向ける。


「おかえり、志乃」

「愛菜、それに結衣も……どうしてここにいるの?」


 出迎える加藤達に、瑞樹が不思議そうに問う。


「どっかの風邪引き妹分が、死にそうな声で電話してくるんだよ」

「そうそう! お姉ちゃんがきっと落ち込んで帰ってくるはずだから、元気付けて欲しいってね!」


 加藤と神山がそう話すと、2人は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。


(……まったくあの子は。自分の事を考えなさいって言ったのに)


 だが今日は、今夜だけは、素直に希のお節介に感謝する。


「愛菜、あのさ。少しでいいから……その、胸貸してくれないかな」

「間宮さんの厚い胸板がないもんね。しょーがないから、私の豊満な胸を貸してやんよ!」


 瑞樹が加藤の前に立ち少し恥ずかしそうにそう頼むと、加藤は胸を張って瑞樹の頭をゆっくりと引き寄せた。


「え? いま豊満って言った?」


 瑞樹を抱き寄せた加藤の胸に視線を落とした神山がジト目で呟く。


「なに? なんか文句でもあんの?」

「いやー、言うに事欠いて豊満はないでしょ! 豊満は!」

「誰も言ってくれないんだからいいじゃん! それに結衣だって似たようなもんでしょ!?」

「あ、大学生になって2㎝アップしたから! まだまだ成長期なのだよ、私は」

「はぁ!? マ、マジか!?」


 加藤と神山のそんなやり取りに、何故か帰ってきたという安堵感を感じた瑞樹の肩が小さく震えだした。

 その震えに気付いた加藤が神山との口論を止めて、優しく瑞樹の頭を撫でて優しい声で呟く。


「お疲れ様。よく頑張ったね」


 加藤のその言葉が心に沁み込んだ途端、堰き止めていた涙腺が決壊を起こして瑞樹の瞳から大粒の涙が零れ始める。

 歪んだ視界の中で、岸田の色々な表情がまるで映画のエンドロールの様に、現れては消えていく。


 瑞樹は加藤の服の袖をギュッと掴み、必死に殺していた声を解放して大声で泣きだした。


 ――どれくらい泣いていただろうか。

 思い切り流していた涙が枯れて、ようやく泣き声が止んだ後も、正面から加藤、背中越しからは神山が優しく抱きしめてくれている。

 2人の優しい気持ちが伝わって、まるで小さな子供のように泣き切れた瑞樹の表情にいつもの色が戻った。


「愛菜、結衣。本当にありがとう」


 2人に包まれている瑞樹がそう告げると、加藤と神谷はゆっくりと抱擁と解いた中から姿を現した瑞樹の顔はボロボロになっていた。

だが、とても人に見せる顔ではないはずの今の瑞樹の顔に、2人はとても美しいものを見るような目を向ける。


「そういえば気になってたんだけど、2人共なんでそんな鞄持ってるの? どっか行くとこだったの?」

「ああ、これ? これは久しぶりのパジャマパーティーの準備に決まってるじゃん!」


 加藤が肩に下げていた鞄を見せつけて、得意気な笑みを浮かべる。


「そうそう! 私達は岸田君の事とか何も聞かされてないんだから、今日は朝までガッツリと語ってもらわないとでしょ!」


 神山も加藤に続いてニヤリと笑みを向けて、当然のように言う。


「え? 今から!? で、でも、何も準備してないよ?」

「ダイジョブ! ダイジョブ! 晩御飯は食べて来たし、寝るのは別に雑魚寝でいいしね! あ、お風呂は入らせて欲しいけど」

「よっし! そうと決まれば、志乃の家にレッツゴー!」


 2人は瑞樹に有無を言わさず、グイグイと背中を押して進みだす。


 言い出したら聞かない事をよく知っている瑞樹は、観念したように苦笑いを浮かべるしか術がなく、押されている背中に感じる温もりに感謝しながら、足を自宅へ向けるのだった。


 本当に2人がいてくれて良かったと思う瑞樹。

 2人の親友達の存在がどれだけ救いになったのか分からない。

 自分の後ろでキャッキャとはしゃぐ2人に、瑞樹はずっと一緒にいてほしいと心の底から願うのだった。


(岸田君。私、もう1度頑張るね。今までありがとう――さようなら)



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