第71話 さよなら

 どこかを見つめている。


 意味のなく、ただ何となく目を向けているだけかもしれない。

 だけど、俺には彼女の視線の先にあの人がいるように思えた。


 正面口で夕日の光を浴びて佇んでいたのは俺の恋人で、探し回っていた瑞樹志乃だった。


 俺がゆっくりと彼女に近付いていくと、志乃も俺に気付いて優しく微笑む。


 小走りで駆けよって来る彼女をよく見ると、所々汚れが目立っていた。やっぱりあの息の上がり方は相当な距離を走ってきてくれたからなのだと、少し草臥れた彼女の姿に確信を得た。


 だけど、志乃はそんな事など微塵も気にしていない様子で「優勝おめでとう!」と満面の笑みで自分事のように嬉しそうな声を聞かせてくれた。


「ありがとう。っていうか、随分探したんだぞ?」

「そうなの? 岸田君は大学のバスで帰るって聞いたから、お手洗いに行った後、折角来たから施設の中を探索してたんだ」

「そっか。津田先輩から体調が悪そうだって聞いて携帯に電話したんだけど、繋がらなかったから心配したよ」

「ああ……実は慌てて家を出てきたから、携帯忘れてきちゃってて」


 本当はもう時間がない。

 バスはもう駐車場に到着しているのだろう。さっきからポケットに突っ込んであるスマホが震えっぱなしだ。恐らく津田先輩やチームメイト達からの催促電話だろう。

 だけど、もう少し待って欲しい。

 今の本当の志乃を見せてくれている時でしか、多分話せないと思うから……。


「そうだったんだ。あー、あのさ……」

「ん? なに?」

「えっと……今日の俺って、格好良かった?」

「うん! 最高に格好良かったよ!」


 言って、志乃は目を細めてサムズアップして見せた。


(……うん。俺の知ってる志乃は、これまでそんな仕草を見せてくれた事がない……。やっぱり、今の志乃が本当の彼女なんだろうな)


「よかった。最後に格好つけられて」

「え? 最後って――」

「――答え、出たんでしょ?」

「…………」


 俺がそう言うと、志乃の表情が急激に暗くなった。

 本当に表情がコロコロと変わるようになった。

 知り合った頃なんて、本当に仮面を被ってるみたいに無表情で、彼女の表情を変えるのに苦労していたのが、嘘みたいだ。

 これから俺にとって過去一キツい場面になるってのに、猫の様に変わる志乃が可笑しくてつい吹き出しそうになった。


(でも……おかげで完全に腹は括れた、かな)


「俺に気を遣う事ないよ。志乃にちゃんと考えてって言ったの俺なんだしさ」

「……でも、その話は改めてでいいんじゃないかな。折角優勝して素敵な日になったんだから」


 志乃はそう言うけれど、俺は首を横に振ってそれを拒否した。


「言ったでしょ? 気を使わなくていいって。それに、俺が今訊かせて欲しいんだ」


 志乃は黙ったまま俯いた。

 きっと言葉を必死に選んでいるんだと思う。


「俺は志乃と付き合いだしてから、今日までずっと卑怯な事をしてきたって負い目があったんだ」


 恐らくこのまま彼女の言葉を待っていても、まともに言葉にするまでにかなり時間がかかるだろう。だから助け船ではないけど、俺の中にずっとあった気持ちを話す事にした。


「あの日、志乃に2度目の告白をした日。会ったのは偶然だったけど、告白したのは君の心が弱っていると分かったからなんだ」


 そう、あの日。君は迷子の子猫のようだったね。

 まるでずっと信じてきたご主人様に捨てられたような顔をして、俺の前に現れた。

 その時、俺が考えた事は凄く浅ましいものだった。


 俺はそんな彼女を心配する風を装って、チャンスだと喜んだのだから。

 今の彼女は心に隙ができていると、振り向かせるのなら今しかないと朝飯に誘ったんだ。


 思った通り、彼女は俺に気持ちを受け入れてくれた。

 嬉しかったし、幸せな気持ちで一杯になった。

 でもその反面、罪悪感も確かにあって……その気持ちは今でも抱いている。


 付き合いだして初めてケンカしてからの志乃は、彼女として本当に完璧だった。手作り弁当を毎日作ってきてくれたり、いつも俺の事を気遣ってくれたり、本当に思いやりのある優しい女の子だった。

 だけど、完璧過ぎる彼女に違和感を覚えるのに、大して時間はかからなかった。

 どんなに笑顔で接してくれても、どんなに傍にいてくれても、志乃の心は俺に向いていない気がしていた。

 まるで、周囲に羨ましがられる恋人はこうだろうと意識して作った、人形のように感じていたんだ。


 きっと志乃の心があの人の心を探しているからなんだと、直ぐに分かった。

 だけど……それでも、俺は志乃を手放したくなかった。

 気が付かないフリをして、間宮さんにもありもしない事を風潮しにいったりもした。

 2人の心の距離をもっと引き離せば、いつかきっと俺に振り向いてくれる日が来ると、自分に言い聞かせてきた。


 俺が志乃を手放さない限り、彼女は絶対に離れていかないと信じていたから、今はそれでいいと思ってたんだ。


 でも……駄目だった。

 志乃より先に俺の方が耐えられなくなった。

 俺の恋人として必死に取り繕う姿に耐えられなくなって、色々と理由をつけて強引だったかもしれないけど、俺は志乃と距離を置く事にしたんだ。

 そうすれば、志乃が抱いている罪悪感から解放させてやれると思った。きっと彼女も罪悪感を抱いていたと思うから。

 ずっとあの人に向けていた気持ちが行き詰ってしまって苦しんでいる時に、俺の気持ちに甘えるように逃げてしまった事に。


 志乃を縛っていた鎖を解いて、罪悪感とか捨て去って1度ちゃんと考えて欲しかった。本当に自分がしたい事はなんなのか、本当に傍にいて欲しい人は誰なのかを。


 きっと志乃が考えてどんな答えに辿り着いても、この罪悪感は消えないだろう。消してはいけないとも思う。


(――これが、俺の罪と罰なんだから)


「――それはお互い様なんだよ。岸田君」

「……え?」

「あの時の岸田君が考えている事は分かってた」


 俺が自分の中で懺悔をしていると、オロオロしていた志乃が何時の間にか、真っ直ぐにこっちを見ていて「でもね」と続ける。


「そんな岸田君に逃げたのは私の意志なの。だから、岸田君が悪い思う必要はないの」

「い、いや……でも!」

「確かに私達は少し歪んだ関係だったかもしれない、だけど、一緒にいて楽しかった。それはホントで嘘じゃない! ホントに楽しかったから――辛かった」


(楽しかったから辛い……か)


 矛盾している言葉だけど、俺には理解出来てしまう。

 だって、俺も同じような事を感じていたから。



「辛いだけだったら、多分耐えられたんだと思う。私が弱かったのが原因だから……。でも、あの日から怖くなっちゃったんだ」

「あの日?」

「そ、その……私達がキ、キスした日から……だよ」

「キスした事が余計だったって事?」

「ち、違くて! その……怖くなったのは、キスしてからいつか私の全部を捧げた後に、それでもあの人へに気持ちが消えなかったらどうなってしまうんだろうって思ったら、怖くなっちゃって……」


 あの人の事を忘れたくて俺を頼ったはずなのに、それでも忘れられなかったらという恐怖心と、俺に対して申し訳ないと思う気持ちが生まれたのだと彼女は言った。


 志乃はずっと感情を押し殺してきただけで、決して感情を失ったわけじゃない。

 きっと固い殻をの中でずっと1人で考えてきたのだと思う。

 もし、この殻から完全に出る事が出来た時、自分はどうなってしまうのだろうと。


 その殻を破るのは俺でありたい。

 転校して離れ離れになった後も、ずっとそう思ってた。

 だから志乃と再会を果たして同じ大学を目指していると聞いた時、俺は運命を感じたんだ。

 だけど、その時にはすでに彼女の殻は破られていて、体に張り付いている殻の破片を1枚1枚と丁寧に剥がしている状態だった。


 悔しかった……。俺は悔しかったんだ。

 俺にしか破れないと思っていた志乃の殻を破った奴がいるという事実が、どうしようもなく悔しかったんだ。

 でも、その悔しいと思う気持ち自体が間違いだったんだと、ついさっき気付かされた。


 気付いたきっかけは俺の応援をしてくれていた彼女と、ここで立っていた彼女の姿を見た事だ。


 あんなに周囲の視線などお構いなしに大声で俺に声援を送ってくれた志乃の表情が、俺の知る彼女のどれでもなかった事。

 そして、ここに1人立っていた志乃の雰囲気というか空気感が、名古屋で偶然見かけたあの人からも感じたからだ。


 もしかしたら、あの人も過去に何らかの傷を背負っている人間なのかもしれない。


 ――だからなんだろうな。

 志乃とあの人の笑顔がダブって見えていたのは。


 きっと、あの人より先に志乃と再会出来ていたとしても、俺では完全に彼女の殻を取り払う事は出来なかっただろう。


「実は……さ。志乃と付き合いだして少し経ってから、間宮さんの病室に行ったんだ」

「え?」

「瑞樹を頼むって言われてたから、報告しておこうと思って。迷惑だった?」

「う、ううん。ホントの事なんだから……別に」

「その時さ。ノックして病室に入った時、間宮さんの期待したような顔が一瞬で曇ったんだ」

「……曇った?」

「きっと、病室に入ってきたのが、志乃じゃなくて俺だったからガッカリしたんだと思う」

「……それは岸田君の思い違いだと思うよ? だって病院の前で岸田君と会った日、私は間宮さんに怒鳴って病室から飛び出してきたんだもん」

「そうかなぁ、俺にはそうとしか見えなかったけど……。それじゃ、その事も確かめてくればいいよ」

「――あ」

「会いに行く気になったんでしょ?」

「…………」


 かなり葛藤に葛藤を重ねてきたんだろうと思う。


 大好きな人が俺のせいで苦しんでいる。

 志乃の為に生きたいと思っている奴が、彼女を苦しませる原因になるのは悔しい気持ちもあるけれど――やっぱり本意じゃない。


(俺だって、最後くらいは格好つけないと……な)


「俺の事は気にしなくていいって言ったでしょ。でも、ちゃんとこの場で言葉にして聞かせて欲しい」


 そう言うと、志乃は今にも泣きだしそうな顔をしていて、1度ゆっくりと呼吸を整えたかと思うと、こっちが照れて目を逸らしてしまいたくなる程に、まっすぐな目を向けて口を開いた。


「私は間宮さんが好きです。逃げ出して忘れようとしたけれど、駄目でした」

「うん」

「この気持ちを間宮さんに伝えないと、前に進めそうにありません」


 かなり緊張しているのだろう。何故か敬語で話す彼女がなんだか可笑しかった。


「だから、その……これ以上、岸田君とお付き合いできません」

「……うん。わかった」

「……怒らないの?」

「怒って欲しいの?」


 彼女は本当に怒って欲しそうに見えた。

 実際、怒る場面なのかもしれない。

 だけど、とてもじゃないが俺は怒る気にはなれなかった。

 惚れた弱みと言えばそうかもしれないけど、それだけではない事を俺は知っている。

 志乃の心の隙に付け込んで、恋敵を傷つけようと有りもしない話を聞かせた俺に、そんな資格なんてないのだから。


「さっき志乃が言ったんじゃん。お互い様ってさ」

「お互い様……か。ズルい言葉だよね」

「はは、まったくだ」


 苦笑いを浮かべる彼女に、俺は右手を差し出して握手を求めた。

 この握手が俺達の関係を終わらせる事は、きっと志乃も分かっているはずだ。


 俺の初恋が終わる……のか。


 腹を括ったつもりだったけど、その時が直前に迫ると急にとてつもない寂しさと悲しさが押し寄せてきて、真っ直ぐに笑顔で別れようと決めてたのに、差し出した自分の手に志乃の手が伸びてくるのを見たくないと思った。


 だけど、もう後戻りは出来ないと無理矢理沈んだ気持ちを浮上させようとした時だ。もうすぐ志乃の柔らかい手が差し出している俺の手に触れるはずなのに、感じた感触は志乃の手じゃなくて紙のような感触があった。

 俺は怪訝な顔で差し出した手に視線を落とすと、志乃は握手を交わそうとしている手ではなくて、1通の手紙を俺に手渡したのだ。


「え? これ……は?」


 手渡された物を確認すると、それは可愛らしい封筒だった。


「えっと、これは……中学の時のトラウマを乗り越えられた時に……ね。無性に岸田君に手紙を書きたなくって書いたものなの。届け先も知らないのにね」


 困ったような笑顔を見せる志乃に、俺はいったいどんな顔をしていただろう。


「……それでも書いてくれたの?」

「うん。ずっと机の引き出しの奥に仕舞ってたんだけど、まさか岸田君に手渡せる日が来るなんて、あの時は考えもしなかった」


 受け取った手紙の感触を確かめていると、彼女は照れ臭そうに頬をポリポリと掻いて話を続ける。


「岸田君が私に考える時間をくれて自分がどうしたいのか気付けた時に、その話をする時に読んでもらおうと思って、それから持ち歩いてたんだ」

「……そっか」

「あ、出来れば……さ。私のいない所で読んで貰えると嬉しいかなって」

「今読んだら、駄目なんだ」

「だ、だって……恥ずかしいもん」


 少し揶揄うつもりで言った事に、予想以上に慌てる志乃を見て可笑しくて笑ってしまった。


 だけど、この手紙のおかげで少し気持ちが軽くなった気がした。


「ありがとう。それじゃ、改めて」


 受け取った手紙を左手に持ち換えて、再び右手を彼女に差し出した俺に、もう迷いはなくなっていた。


「うん。今までありがとう、岸田君」

「こちらこそだよ。ありがとう、志乃」


 差し出した右手に柔らかくて温かい手が触れると共に、お互いが別れの言葉を口にする。

 彼女から伝わってくるこの優しい温もりは、もう俺のものじゃない。

 名残惜しいとは思わないと言えば嘘になるし辛い気持ちもあるけど、、不思議と今は穏やかな気持ちで志乃と握手を交わせている事に驚いた。


「俺は間宮さんみたいに器の大きい人間じゃないから2人の仲を応援は出来ないけど、志乃の幸せは祈ってるから」

「うん、ありがとう。私が言える立場じゃないけど、岸田君が幸せになるように祈ってる」

「ありがとう。それじゃ、そろそろ戻らないとだから」

「引き留めてごめんね。さよなら……岸田君」

「うん。さよなら……

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