第70話 勝利の女神
全身の筋肉が締めあがっていく音がする。
今すぐにでも、暴れたがってる力が爆発しそうだ。
鼓膜に響いた瑞樹の声援が全身を突き抜けて行く感覚があった。
今、観客席から見ている瑞樹の顔から、仮面が剥がれ落ちているのが分かる。
ずっと見ていたい表情だった。
そして、ずっと見たかった表情でもあった。
自分にだけ向けられている瑞樹の視線に、岸田は何かを悟って、そして何かを覚悟した。
全選手の紹介が終わって各選手は1度プールに入って、すぐにスタート台に戻る。
スタート台に向かう岸田の目は、瑞樹の声援を受ける前とは別人のように鋭く水を睨みつけている。
そしてスタート台の手前まで来た時、岸田は口角を上げて白い歯を見せたかと思うと、高々と右の拳を天井に突き上げ人差し指を立てた。
他の誰でもない。大きな声援を送った瑞樹に向けて勝利宣言をして見せた岸田の体から、闘志がみなぎっている。
(あいつの前で、これ以上格好悪いとこ見せられるかよ!)
スタート台に立ち電子音のスタートの合図が会場に鳴り響くと同時に、選手達は一斉にスタートを切った。
岸田は好スタートを切り、水面に浮上した時には3位につけていた。
一説によれば水泳競技において、予選を最終枠で通過した選手が泳ぐレーンが一番不利だとされている。
それは中央のレーンから作り出される波が障壁になり、一番端のレーンが他のレーンよりも抵抗が増えてしまうからだ。
しかし、今の岸田にそんな事は関係なく、力強いストロークで障壁を切り裂いていく。
それはまるで、瑞樹が周りの声を切り裂き届けた声援のように。
更に圧巻だったのは50Mをターンした直後だった。
すでにMAXスピードだと思われた岸田の泳ぎが更に加速して、ターン直後に2位浮上、残るはトップを追い抜くのみとなったのだ。
確かに今年入部した特待生にとって大事な大会なのは間違いないが、それは国体に出場する為という意味ではない。
どちらかといえば新人戦に近いもので、実際エントリーしているのはどの大学も1回生の出場者が多く、2回生以上のエントリーは少ない大会だったのだ。
だが、予選を全てトップ通過してきた現在1位を泳ぐ選手とついさっき岸田が抜いた選手は各大学の主要メンバーで、大学に入って何の実勢もない岸田にとっては完全に格上の選手なのだ。
そのトップを追い詰める位置につけた事により、スタートするまで罵声を浴びせてたK大のメンバー達が、大いに盛り上がりを見せる。
そんな連中を背に勝手な奴らだと呆れる瑞樹達を余所に、白熱したレースは進行していく。
不思議な感覚だ。
これまで最大限に集中出来た事は何度もあった岸田だったが、その時は周囲の音が一切入ってこなくなり、自分の泳ぎだけに意識を完全に向ける事が出来た。
その状態になった時は体がイメージ通りに動いて、目の前のレースに勝つ事だけを考える事だ出来たのだ。
だが、今の状態は違う。
やたらと周囲の音が耳に届くし、視界が広がって周りがよく見えている。だからといって集中力が散漫になっているわけでもない。
その証拠に体の動きが着水してから尻上がりによくなり、今では筋肉の細胞の動きが分かる気がして、正直怖く感じる程なのだ。
視界が広がった先に、息を切らせながら大声で声援を送ってくれている瑞樹がいる。
瑞樹は津田と肩を組んで観客席の最前列にある手すりをメガホンでバンバンと叩きながら、猛追撃している岸田に声が枯れてしまうのではないかと心配になるほどに、大きな声援を送り続けている。
レース終盤でトップに食らいついている状況だというのに、岸田はそんな瑞樹に向けて心の中で呟くのだ。
(今の志乃からは仮面が一切見えない。そうか……、君は答えを見つける事が出来たんだな)
岸田の中に確かにあった必死に追いかけてて手に入れた『何かが』手元からするりと抜けてしまい、慌ててその『何か』を掴もうと手を伸ばすと、その手はプールサイドを叩いていた。
結果は格上の選手を2人抜いた、岸田の大逆転勝利!!
K大が陣取っている観客席から大歓声があがり、岸田はその中にいる津田と抱き合って喜びを爆発させている瑞樹の姿を捉えて、スタート前と同じように天井に向かって立てた人差し指を勝利の女神に向けた。
瑞樹はそんな岸田に最高の笑顔で応えると、見つめられた目を一切逸らす事なく、岸田に人差し指を向けて片目を閉じた。
それは岸田がずっと見たかった彼女。
ずっと見せてくれなかった彼女。
今まさに自分に向けられている瑞樹が、ずっと見たかった新しい彼女の姿なんだと思うと、岸田の目に膜が張り水と共に涙が零れた。
(そんな顔が出来るようになったんだな)
今の瑞樹の姿を引き出したのが自分でなかったとしても、岸田は喜びを抑える事が出来ない。溢れ出る感情を誤魔化す為に、岸田はレースに勝った喜びを爆発させて水面を激しく叩き「っしゃーーーっ!!」と雄叫びを上げるのだった。
決勝の全種目が終了して、種目別に表彰式が行われた。
岸田もエントリーした種目で、一番高い所に立ってチームメイト達がいる観客席に手を上げた。
だが岸田の視線はチームメイト達ではなく、その中にいるはずの瑞樹の姿を追っていたのだが、何故か彼女の姿がそこにはなかった。
表彰式が滞りなく終わり、選手達はそれぞれの控室へ向かう。
岸田が控室に着くと、ファイナル前は鬼の形相で怒り心頭だったはずのコーチが「よくやった! 期待していた以上の泳ぎだったぞ!」と上機嫌で労う。現金なものだと苦笑いを浮かべる岸田であったが、正直悪い気はしなかった。
撤収準備を整えたメンバー達が控室から出ようとしたところで、マネージャ―の津田からバスの到着が遅れているからこの場で待機するようにと告げられたのを機に、岸田は真っ先に津田の元へ駆け寄る。
「津田先輩、ファイナルの時に志乃と一緒にいましたよね?」
「え? あ、う、うん」
瑞樹に別れろと言った事を話して『もう俺にも彼女にも関わらないで下さい』と言われてしまった。それからずっと練習に関しての連絡程度しか話さなくなった岸田の方からまともに話しかけられた津田は、挙動不審な返答しか出来なかった。
「表彰式の時はいなかったみたいですけど、どこ行ったか知りませんか?」
「えっと、少し気分が悪くなったからお手洗いに行くって観客席から離れたっきり戻ってこなかったから、帰っちゃったのかもしれない」
「そうですか! どうも!」
言って岸田は待機しろと言われていた控室を飛び出した。
(帰ったなんて有り得ない。あの時の志乃を見れば、それだけは断言できる! 志乃は俺に話があるはずなんだ――そして、俺も彼女に言わないといけない事があるんだ!)
岸田は一般の人間が入っていける場所を隈なく探し回ったが、結局瑞樹の姿を見つける事が出来なかった。
「あ、そうだ! 携帯!」
余りに慌てていた為、文明の利器であるスマホの存在を忘れていた岸田は、慌ててジャージのポケットからスマホを取り出して瑞樹の番号をタップした。
だが、何度かけても瑞樹は電話にでる事はなく、トークアプリからメッセージを送ったが、既読すら付かなった。
「……なんで。もしかして、本当に帰ってしまったんじゃ……」
最大の武器も効果を発揮せず、岸田は大きな溜息と共に総合体育館の中央ロビーのフロアにしゃがみ込んでしまった時、手に握られていたスマホから着信音が鳴った。
「も、もしもし!?」
岸田は誰からの電話なのか確認もせずに、慌ててスマホを耳に当てて叫ぶように電話にでた。
「あ、もしもし、岸田君?」
「……あ、あぁ津田さんか」
「私でごめんね。遅れてたバスが裏にある大きな駐車場に着いたから、荷物は私が運んでおくから岸田君も急いで来て!」
津田からの電話はタイムアップを告げるものだった。
「あ、はい。わざわざすみません。俺もこれから向かいますので」と電話を切った岸田が正面口を横切って裏口に向かおうとした時だ。
正面口から見える外の景色が横目に入った時、思わず息をのむ光景に岸田の足が止まった。
高層ビルの間から差し込む真っ赤な光で、夕暮れなんだと知らされた。
そんな光を浴びて綺麗な赤色に染まる髪が風に揺られているのを見て、岸田の足はバスが待っている裏口ではなく、正面口の自動ドアを開けて外に出ていた。
岸田の手の大きさしかない程の小さな整った顔立ちに大きな瞳、そして透き通るような美しい肌を綺麗な髪が際立たせている。
目の前に佇むその女性はあまりに美しく、幻想的にすら感じるもので、岸田の視線を釘付けにした。
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