第69話 心からの声援

 重要な大会だった。


 この大会は新しく入部してきた特待生にとって、今後の部内での立ち位置を決定付ける場だったんだ。


 俺は第2次予選を何とか滑り込んでファイナルへの出場権を獲得した。

 予選が終わって戻った控室で待っていたのは、鬼コーチからの怒号だった。


(まぁ、そうなるよな……)


 他の部員達は俺を嘲笑うのを隠そうともせずに、これから起こるであろう俺に向けられるコーチの罵声を楽しみにしてるんだろう。

 大学に来てすぐに俺はコーチに期待されていて、明らかに他の新入部員と格差をつける対応をとられていた。

 そのうえ、入学してすぐに噂になる程の絶世の美女と名高いあの瑞樹志乃と付き合える事になったんだから、妬む奴らは1人や2人じゃない事は知っていた。

 そんな俺が日を追うごとに堕ちて行く様は、そいつらにとって格好の的なんだろうな。


「岸田ぁ! 一次、二次と何やってんだ!!」

「……すみません」


 コーチが怒るのも無理はない。

 K大水泳部は何名も全国クラスの選手を抱えている名門クラブで、このレベルの大会では当然のように優勝して当たり前というチームなんだ。

 そんなチームの名を背負った俺がファイナルの出場権を手に入れたとはいえ、こんな内容では納得してもらえないのは自分でも分かっている。


「いいか! ファイナルでもそんな気のない泳ぎをしてみろ! これからのお前の立場がヤバくなると思え! 分かったな!!」

「……はい。すみません」


 平謝りする俺に鼻を鳴らして苛立ちを隠そうともせずに、コーチは控室から出て行った。

 コーチがいなくなって下げていた頭を上げると、俺の前に恐る恐るといった感じで津田先輩が現れた。

 津田先輩とはあれ以来まともに話をしていない。

 遠慮がちに声を掛けられていたけど、俺は殆どシカトを決め込んでたのだ。


「き、岸田君なら大丈夫だよ。そ、そうだ! お腹空かない?」


 津田先輩は手に持っていたチェックの巾着袋を俺に差し出した。


「そ、その……彼女のお弁当には敵わないかもだけど、私なりに栄養バランスとか考えて作ってみたんだ。よかったら――」

「――すみません。食欲がないので遠慮します」

「で、でも! 少しでも食べないとファイナル――」

「――アップの時間まで1人にさせて下さい」


 俺は津田先輩の言葉を尽く遮って1人控室を出た。


 ◇◆


 控室を出た俺は体育館内を歩き回った後、結局さっき泳いでいた第1プールにある観客席にいた。


 少し前まである程度埋まっていた観客席だったけど、その殆どが各大学の水泳部員ばかりだったんだろう。元々大した規模の大会じゃないから水泳部員がファイナルの準備や昼飯を食べる為に席を離れれば、観客席は空席だらけだ。だけど俺は最上段の隅にある席に腰を下ろした。

 眼下にあるプールを見渡すと、水面がキラキラと眩しく輝いている。

 ついさっきまであったはずの水の荒れは鳴りを潜めて、ひっそりと静まり返った水面を見ていると、意識が自分の中に入ってくるのが分かった。


 ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出してトークアプリを起動させると、ずっと開いていない志乃のアイコンにメッセージが届いている事を知らせる数字が表示されている。

 あれから何度も志乃から電話の着信やメッセージが届いていた。

 いつものテラスに行かなかったのだから当然だけど、俺は志乃からの連絡を全て無視したのだ。

 あの夜、志乃に背を向けてからずっと苛立っていた。

 それはあの日の志乃にではなくて、自分自身に腹が立って仕方がなかったんだ。


 何があの人の事は気にしてないだ……。

 志乃よりも俺の方が気にしてるんじゃないか。

 挙句の果てに、会いたくないから距離をとって連絡を無視したり……ガキ過ぎるだろ、みっともない!


 志乃は努力して俺を見ようとしてくれていたのは、一番近くにいたんだから分かっていたんだ。

 なのに、時間をかけてとか言っておきながら、焦る気持ちを抑える事が出来なかった。

 元々傷だらけの彼女を、余計に傷つけてどうすんだよ!


 分かっていたのに……。彼氏の俺が傷を癒してやらないといけないのに……。拗ねて無視するとか、本当にどうしようもないな……俺。


 それにこの現状だってそうだ。

 K大からスカウトの声がかかって即答で承諾したけど、俺は本当に水泳に賭ける覚悟があるんだろうか。

 心のどこかで受験勉強から逃げる事が出来ると思っただけなんじゃないか?


 本当に好きな事をやっているのなら、恋愛事情程度でここまで好不調の波が大きくなったりしないんじゃないだろうか。


 ……いや、違うな。

 恋愛相手が志乃だから、露骨に影響がでるんだろう。

 良くも悪くも俺にとって志乃の存在は、自分で思っていた以上に大きなものになっていたんだ。


(……そんな存在の志乃を……俺は)


 歯をギュッと食いしばってこれまでの自分の行いを悔いていると、ジャージのポケットに入れているスマホが震えてアップの時間になった事を知らされた。俺は中に入り込んでいた意識を表に戻してアップを行う為に戻りたくない控え室に戻った。


 ◇◆


 総合体育館の正面口で腕時計を頻繁に気にしながら、ソワソワと施設の門を不安気に見つめる人影があった。


 もうファイナルが間もなく始まるアナウンスが流れてから数分が経過しているのに、正面口にいる人物はK大の水泳部のメンバーパーカーを羽織っている。

 明らかにファイナルに出場するK大水泳部の関係者だというのに、何故この時間にここにいるのか……。


(お願い! お願いだから!)


 そう正面口で心から強く叫んでいるのは、K大水泳部マネージャーである津田だった。


 ファイナルが始まる時間になって、警備員以外の殆どの人間は会場の中に入っていった為、体育館前は殺伐とした空気だけが漂っている。


 津田は岸田にあんな態度をとられたにも関わらず、プライドをかなぐり捨てて頭を下げて岸田の応援を頼んでいた、恋敵である瑞樹志乃の到着を今か今かと待っていたのだ。

 幸いな事にファイナルは始まってしまったが、岸田が出場する100M自由形は3種目目で、まだ僅かだが時間に余裕があった。


(大丈夫! あの子はきっと来てくれる! 岸田君が本気で好きになった女の子なんだから――きっと、必ず来てくれる!)


 その時、握りしめていたスマホから設定していた時刻になった事を知らせるアラームが鳴った。

 そのアラーム音は2種目目の競技が終わった事を意味している。


 だが、ずっと縋る様に見ていた門の外にはこちらを気にする素振りも見せない見知らぬ通行人と、その奥を走り抜けていく車しか見えない。


(……お願い……します)


 津田が目をギュッと閉じて天にそう念じた時だった。


「津田先輩!!」


 暗闇から一気に広がった視界の先に、心の底から待ちわびていた姿と、心から望んでいた声が津田の耳に飛び込んできた。


「瑞樹さん!!」


 津田の視線を独占して離さない瑞樹が、激しく息を切らせて津田の元に走って来る。


 瑞樹の姿を見た津田は、瞬時に状況を理解する。

 着ている服装がファッション性を削った機動性重視の服装だった事。それはつまり駅からここまで走って来る事を始めから決めてきていた事。

 そうなってしまった事情までは分からないが、間に合わないかもしれない時間であっても、絶対に間に合わせるという瑞樹の強い気持ちが伝わって、津田の目頭が熱くなった。


(……あぁ、私はなんて人に勝負を挑んだんだろう)


 津田は初めて瑞樹に、そして岸田にした事を心の底から悔いた。


「はぁ、はぁ、はぁ……。ま、まだ間に合いますか!?」


 心に強い痛みを覚えた津田は、瑞樹の激しく息を切らせた声で我に返る。


「う、うん! ギリギリだけど、まだ間に合う!!」

「はぁ、はぁ……。案内お願い出来ますか?」

「まかせて! こっち!」


 瑞樹は津田の元に駆けつけ終えたばかりの足を再び動かして、津田と施設の中に駆けこんだ。


 前を走る津田が後ろを走る瑞樹に目をやると、辛そうに脇腹を抑えながら必死についてきている姿があった。汗だくで髪も乱れていて、大学で見かける瑞樹とは程遠い姿だった。

 だが、津田の中にある瑞樹のどんなイメージよりも、今の彼女は綺麗に見えた。


「ここを降りた所にウチの応戦席があるから、このまま最前列まで降りて岸田君に声をかけてあげて!」

「はい!」


 ここからは通路が狭くなる為、2人並んで降りると危険だと判断した津田は足を止めて、瑞樹が目指す場所を指し示す。


 自分を追い越して階段を降りて行く瑞樹の背中が、今の津田にはとても眩しく見えた。


 ◇◆


 階段を駆け下りて行く瑞樹の耳に、通路の左側から岸田の名前を呼ぶ声が聞こえてきたのだが、その声の内容はとても応援しているものとは呼べず、罵声と言ってもいい程に酷いものだった。瑞樹は岸田と同じK大水泳部のジャージの塊を睨みつけながら階段を下り進んでいくと、場内アナウンスから岸田の名前が紹介された。

「間に合った!」とラストスパートをかける瑞樹は、「貸して!」と叫びながら有無を言わさずすれ違いざまに誰かが持っていたメガホンを奪い取り、ついに応援席の最前列に辿り着いた。

 咄嗟に奪ったメガホンがライバル大学の物だとは、今の瑞樹に知る由もない。


 最前列に辿り着いた瑞樹は呼吸を整える間を惜しんで、すぐに握りしめていたメガホンを口に運ぶ。そして大量に肺に吸い込んだ空気を一気に吐き出すように言葉を吐きだした。


「岸田君!!」


 今の瑞樹に出せる最大声量で叫んだタイミングが、まさにドンピシャだった。

 岸田を紹介するアナウンスが流れ、観客席から罵声が混じったK大の耳障りな声援が送られる。

 その声援が落ち着いて次の選手紹介のアナウンスが流れ始める一瞬の谷間、静寂とは言えないが周囲の声がかなり消えた時に、岸田の名を呼ぶ瑞樹の声が響き渡ったのだ。


 その声は本当によく響いた。瑞樹の周囲は勿論の事で、岸田とスタート台に立とうとしていた他の選手達もメガホンを構えている瑞樹に視線を向ける程に。


 そして、呼びかけられた当人である岸田も唖然として立ち尽くしながら、観客席の最前列にいる瑞樹の姿を捉えていた。


「……志乃」

「はぁ、はぁ、はぁっゴホッ! ゴホッ! ゼェ……ゼェ……ゴホッ! はぁ、はぁ……」


 しかし、ここまで一切休まずに走り切り、呼吸を全く整えずに大声を出した瑞樹は軽い酸欠状態に陥ってしまい、自分の呼びかけに岸田が気付いているのは分かっていたが、両手を膝について下を向いてしまった。


 その時、激しく息をしている肩に誰かが手を置いた事に気付いた瑞樹は顔を上げずに視線だけ見上げると、そこには瑞樹に追い付いた津田の姿があった。

 津田は瑞樹に何も発する事なく、ただ微笑んで頷く。


 津田からの無言のメッセージを理解したのか、瑞樹も頷き返した。


 もう既に次の選手紹介のアナウンスが流れて観客席から選手に向けて声援が送られていたが、瑞樹はそんな事を一切無視して暴れる呼吸を無理矢理止めて再び肺に空気を吸い込ませる。

 少し肺に痛みを感じたが、瑞樹はお構いなしに再びメガホンを構えて叫んだ。


「頑張れ、岸田君! はぁ、はぁ……カッコいいとこ見せて!」


 瑞樹の声援はアナウンスや他の選手に送られている声援の壁を突き破って、確かに岸田の鼓膜を震わせた。

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