第68話 探し当てたホントの気持ち

 岸田君が出場するという大会当日の早朝。

 私は日課になっているジョギングを、今朝もこなしていた。

 何時のも時間に家を出て、何時ものルートに足音を刻む。

 そして、何時ものように私の充電ポイントである元間宮さんが住んでいたマンション前に着いた。

 何時もと違うのは、体を冷まさないように軽く足踏みをして動きを止めないのに、今朝は両足を泊めて両手をひざに落とした事だ。


「はぁ……はぁ……はぁ……。あ、あれ? ……ペース間違えたかな」


 走り始めた頃はこの辺りで息が上がってしまうのは珍しい事じゃなかったけど、今朝は完全にペース配分のミスだ。

 らしくないミスをした原因は、自分でもよく分かってる。

 一刻も早くここに来たいとう気持ちが強過ぎたからだ。


 容易に乱れた呼吸が整わないのを諦めた私はガードレールに寄りかかって、角部屋になる間宮さんが住んでいた部屋を見上げて、小刻みな呼吸を繰り返していた肺に、なるべく沢山の空気を取り込ませようと大きく息をする。


「……間宮さん。私はどうしたらいい?」


 徐々に乱れた呼吸が落ち着きだして楽になってきた私は、ずっと見上げていた部屋にそう呟いた。

 当然、返事など返ってくるわけじゃないけど、私は間宮さんが刺されてしまったエントランスに目を向けて、まるでそこに間宮さんがいるかのように黙って思考を巡らせる。


 津田さんと別れてからずっと考えてた。私はどうしたいのだろうって。

 津田さんに頼まれた通り会場へ出向いて彼に声をかけたとしても、状況が好転するとは思えない。

 少なくとも、今の私では無理だと思う。


 多分、私はまた選択に迫られてるのだろう。

 立ち向かうか、また逃げ出すのかを……。


(――間宮さん)


 事ある事に泣いてきた。

 何かに立ち向かう度に、あの人の腕の中で泣いてきた。

 そんな弱い私だけど、それでも頑張ってきた自負はあるんだ。

 だから、いくら彼に逃げてしまった私でも――頑張ってきた事まで否定したくない。


(……だから)


 認めるんだ。逃げた事を心の底から後悔している事を。

 認めるんだ。逃げ出した事をあの人のせいにして、自分が選んだ選択を正当化しようとしていた事を。


 ――私の為に。そして彼の為に。


 自分でも何時以来かぶりに目に力が籠った事を自覚した時、誰もいなはずのエントランス前で私が大好きなあの柔らかい笑顔を向けてくれたあの人の姿が見えた気がした。


「よっと!」


 寄りかかっていたガードレールから体を離して、大きく伸びて深呼吸すると、不思議なくらいに体が軽くなった。


 私は両手を左右に大きく開いて、その手を迷いなく両頬に叩きつけて『パンッ!』と周囲に自分の手と頬から大きな音を響かせた。


「いったーーー! ちょっとやり過ぎたかもー。ううん、これでいい! 凄く痛かったけど、これでいい!」


 叩きつけた手を離すと、元々お母さん譲りの白い肌の両頬にクッキリと手形が浮き出ていた。いや、見なくても凄くヒリヒリしてるから分かるんだ。


「私ってこんなに体育会系だったっけ? まぁ、いっか」と苦笑いを浮かべた私は、何かを吹っ切ったような晴れ晴れとした気分でジョギングを再開した。


 ペース配分を間違えたけど、少し休憩を挟んだおかげか気分をリセット出来たからかは分からないけど、何とかいつもの距離を完走できた。

 帰宅してすぐにシャワーを浴びて朝食の準備に取り掛かる。

 いつもなら家を出る前に済ませているんだけど、今日は土曜日という事でお弁当もいらないし、家族もゆっくり寝ているから後回しにしていたのだ。


「おはよ、志乃」

「あ、おはよう、お父さん、お母さん。ってあれ? どこか出かけるの?」


 休日の朝は2人共パジャマのままリビングに姿を見せるんだけど、今朝はきちんとした服装で現れた。


「んー、急に得意先に呼ばれてね。これから先方に会わないといけなくなったんだよ。まぁ、簡単は打ち合わせだけだから昼には帰れると思う」

「お休みじゃなくなったんだ」

「そうなんだ。まいったよ」


 ウチの両親は仕事でもパートナーとして働いている。

 だから、こうしてどこかへ出向く時は大抵2人セットで行動する事が多い。

 まだ朝食の支度に取り掛かったばかりで時間がかかると謝ると、お父さんが「こっちの都合だから気にするな」と言って、トーストした食パンにバターを塗って2人で眠そうな顔をして食べていた。

 せめて美味しい珈琲だけでもと頑張って淹れたら、「最近珈琲淹れるのまた上手くなったんじゃない?」とお母さんに褒められた。

 時間がないと簡単な朝食を済ませて家を出る2人を見送って朝食の準備が終わった時に「あ、もうこんな時間か」と独り言ちる。

 テーブルに2人分の朝食を並べて終えて、寝坊助の希を起こそうと2階に上がった。

 都心の総合体育館はここからだとどう考えても1時間はかかってしまうから、そろそろ支度しないと間に合わない。


 私はマンションの前で色々考えて、総合体育館に行く事にした。

 津田さんに頼まれた彼を元気付ける事が出来るか分からないけど、応援しようと決めたんだ。


(……そして、その後に)


「希? 私そろそろ出掛けたいから、起きてご飯食べてくれない?」


 希の部屋をノックしてそう呼びかけたけど中から返事が返ってこなくて、急いでいた私は痺れを切らせて「入るよ」とだけ告げて部屋のドアを開けた。

 希はやっぱりまだ寝ているみたいでカーテンも閉めたまま、布団を頭まで被ってる。


「ほーら! 起きてってば、希」

「…………」


 私が声をかけながらカーテンを開くと、部屋の窓から明るい陽射しが差し込んで雰囲気を大きく変えた。


「早く起きて、ご飯食べてよ」

「…………うぅ」

「希?」


 希の様子がおかしい。

 私は慌てて頭までスッポリと被っている布団を捲ると、顔を赤くして苦しそうに浅く小刻みに肩で息をしている希がいた。


「ちょ、ちょっと希!?」

「お……はよ」


 私はすぐさま希の額に手を当てた。


「おはよじゃないよ! すごく熱あるじゃない!」

「へへ……窓を開けっぱなしで寝たのがまずかったかなぁ」


 すぐにリビングに降りて体温計と解熱シートとグラス一杯の水を用意して、希の部屋に戻った。


「38度3分……やっぱり熱高いじゃない」

「……あ、そんなにあったんだ」

「とりあえず、汗かいたでしょ? 着替えなさい」


 私は脱衣所から持ってきたバスタオルで手早く寝汗をかいた希の体を拭いて、新しいパジャマに着替えさせた。


「……ごめんね、お姉ちゃん」

「ふふ、希が謝るなんて珍しいね」


 着替えさせた希の額に解熱シートを貼りつけて、またベッドに戻した。


「お粥作ってくるね」

「……食欲ないよ」

「分かるけど、少しでも食べないと駄目だよ」


 私はキッチンに戻って手早くお粥を作る準備に取り掛かった。

 時計を見ると午前9時30分を少し回った所を指していて、今からじゃどう考えても間に合わない時間になっていた。


「仕方ない……よね。あんな希を置いてなんていけるわけないよ」


 私はそう独り言ちて一人用の土鍋にお粥を作って、希の部屋に持ち込んだ。


「希、お粥出来たよ」


 私の呼びかけに、希がベッドからモゾモゾと這い出て来る。

 部屋にある小さなテーブルにお鍋とお茶を並べて、希をテーブルの前に座らせた。

 グッタリした様子の希が手を合わせて「いただきます」とレンゲで掬ったお粥をふう、ふうと息を吹きかけて食べ始める。

 食べ始めは気怠そうにしていたけど、一口、二口と食べ進めるにつれてお粥を口に運ぶ速さが増していき、食欲がないと言っていたのにあっという間に綺麗に完食してしまった。


「ふう、御馳走様でした」

「はい、お粗末様。なんだ、食欲あるじゃない」

「なかったはずなんだけどねぇ。お姉ちゃんの御粥が美味過ぎた」

「そう? ふふ、よかった」


 完食して満足顔の希に市販の風邪薬を飲ませて、解熱シートを張り替えた。


「……お姉ちゃん」

「んー?」


 食べ終えた食器を纏めていると、希がおずおずといった声色で話しかけてきた。


「この間はその……ごめんね」

「何よ、急に」

「余計なお世話だったよね……。なのにムキになっちゃって……」

「ううん。私の方こそ怒ったりしてごめんね」


 お互い謝り合った私達は何だか照れ臭くなって、笑って誤魔化す。


「それじゃ、洗い物して洗濯と掃除でもしてるから、何かあったら呼ぶように」


 言って纏めた食器を持って部屋を出ようとした時だ。希が「お姉ちゃん」と呼び止めたかと思うと、気が付けば手首を握られていた。


「どうしたの?」

「――あっ、ご、ごめん! おやすみなさい」


 どうやら無意識に私の手首を掴んだみたいで、ハッとした希は恥ずかしそうに布団に潜り込んでしまった。

 そんな希に察する事があった私は食器をテーブルに戻して、希の肩回りを布団越しにトントンと優しく叩く。


 いくつになっても、人は体調を崩すと心が弱くなる。

 1人だと不安で仕方がなくなるんだ。

 私も経験があるから、今の希の気持ちがよく分かる。

 きっと、希はそれを認めるのが恥ずかしいのだろう。


 親元で暮らしている私達でさえこれなんだ。

 高校を卒業して見知らぬ土地で1人暮らしを始めた間宮さんは、大変だったんじゃないかな。

 そういえば、クリスマスライブの日、間宮さんが風邪をひいて茜さんとマンションに行った時、ベッドで苦しそうに倒れている間宮さんを見て胸がギュッと痛くなった。

 その後、茜さんに無理矢理着替えさせられてたのは、子供みたいで可笑しかったけど。


 ――間宮さん。今頃どうしてるかな。

 少しだけでいいから、顔が見たい。

 少しだけでいいから、声が聞きたいよ。


「――久しぶりに見た」


 明るい陽射しが差し込む窓を眺めながら希の肩をトントンと叩いていたら、何時の間にか布団から顔を出していた希にそう声をかけられて意識を現実に引き戻される。


「――え?」

「なんていうか、今のお姉ちゃん凄く優しい顔してたよ」

「……そうかな。いつもこんな感じじゃない?」

「全然違うよ。昨日までのお姉ちゃんって、ホントに辛そうな顔してたんだよ?」


 確かに思い悩んでいた自覚はあるけれど、それを周囲に知られないように気を付けていたつもりだった。


 (あの件でケンカしてた希が気が付かないわけがない……か)


「家族なんだもん。それくらいの変化に気付かないわけないよ」

「……希」


 そう言ってくれた希の微笑みに、心が温かくなる。

 そんな可愛くて仕方がない希を見てると、思わずこんな事が言いたくなった。


「ねぇ、希! 何かして欲しい事ってない?」

「して欲しい事? うーん、2つあるかな」

「そこで遠慮しないで、欲張るところが希だよね」


 私達は顔を合わせて笑い合った。


「えっとねー。1つ目は風邪が治ったら勉強教えて欲しいんだ」

「勉強? アンタ専門学校に行くから、成績はそこそこでいいとか言ってなかった?」

「そうなんだけど……さ。お姉ちゃんが3年生になってから受験勉強を頑張ってるのを見てて、私も頑張って大学に進学したいなって思ってね」


 希は3年に進級してから、ううん。正確にはゼミの夏期合宿から帰ってきてからの私を見てて、目標をもって頑張る事に憧れたんだと言った。

 決して専門学校が悪いわけじゃないんだけど、大した理由もなく簡単に行けてしまう学校に魅力を感じなくなったんだそうだ。


「愛菜さんもそうだし、結衣さんもそう! 皆格好良かった」


 そう話す希の目は高熱をだしている病人だとは思えない程に、眩しく輝いているように見えた。


「そっか。希にやる気があるなら、いくらでも協力するよ。でも、そのかわり私の講義は厳しいから覚悟するようにね」

「え? いいの!? うん! 今までずっとサボってきたから厳しくしてもらわないと、頑張ってる人達に追い付けないから望むところだよ!」


 座右の銘が『他力本願』なんていう希が、そんな事を言うなんて正直驚いた。

 これから希がどう変わっていくのか楽しみだけど、姉としては微妙かな。

 だって、変わろうとしたのが私達を見てって言うけれど、格好良く見えた私達は間宮さんの影響を大きく受けたからなんだもん。


「それで2つ目は?」

「2つ目はねぇ……。お姉ちゃんが行こうとしていた所に、今からでも向かって欲しい事かな」

「え? それ希になんの得があるの? それにもういいんだよ。別に今日じゃなくてもいい用事だったし」

「それ、嘘だよね?」

「え? どうして?」

「お姉ちゃんの優しい顔って、今日出掛ける先と繋がってるんじゃない?」

「!!――」


 完全に図星を突かれてしまって、何も返せなかった。


 希の人を見る洞察力には昔から驚かされてきたけど、今日ほど驚いた事はない。

 希は私なんかと違ってコミュニケーション能力に長けている。

 それに本当は頭の回転も速い子なんだけど、その事に気が付いている人間は少ないと思う。

 希が何か1つの事に集中したら、本当に凄い事で出来てしまうんじゃないかって、私は昔から思ってたんだ。


「お姉ちゃん?」


 おっと、今は希の分析をしてる場合じゃなかった。

 とはいえ、この子は何を言っても誤魔化せないんだろうなぁ。


「……うん。でも、もう間に合わないかもしれないから」

「その言い方だと、まだ間に合うかもしれないって事だよね?」


 遅らせてしまった私が言うのも変だけど、まだ間に合う可能性があるのなら今すぐにでも向かって欲しいというのが、希の2つ目の頼みだった。


「それにお昼になったらお父さん達が帰ってくるんでしょ? お姉ちゃんのお粥も食べて元気でたし、私はもう大丈夫だから」

「希……。うん、わかった。アンタがそう言うのなら、今からでも行ってみるよ」

「うん! いってらっしゃい。頑張ってね、お姉ちゃん!」

「うん。いってきます」


 希の部屋を出た私は自室に戻って身支度を始めた。


 希はどこまで気が付いているんだろうと気になったけど、今考えるのはそこじゃないと、私は出掛ける準備を急いだ。


 昨日寝る前に用意していた服をクローゼットに戻す。

 本当はフレアスカートとヒールで向かうつもりだったんだけど、私は急遽パンツとスニーカーというカジュアルな服装に変更する事にした。


 勿論、これには理由がある。


 総合体育館の最寄り駅から現地まで調べて、割と距離がある事は分かっていた。

 電車を降りてタクシーかバスを使いたいところだけど、都心の交通量を考えると、かなり時間がかかってしまうだろう。時間に余裕があるのならそれでも構わないんだけど、今は時間がない。

 だったら駅から走った方が速いと結論付けて、私は動きやすいカジュアルスタイルに変更したのだ。


「毎朝ジョギングしてきた成果を見せてやるんだから」


 靴ひもをキツく結び直して、私は誰に聞かせるでもなく「いってきます!」と玄関を飛び出した。


 以前、彼に教えてもらった事がある。


 確か水泳大会は予選が2回行われて、その順位で決勝に進出出来るかどうかが決まるって。

 それであれば予選は無理でも、彼が決勝に出る事が出来れば間に合うかもしれない。


「岸田君。今から行くから待ってて!」

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