第67話 プライドと愛情
「ねぇ、志乃!」
岸田と会わなくなってから5日目の午前の講義が終わりテキストを片付けていると、学部が同じで専攻も一緒だったのがきっかけで仲良くなった由美と陽子が声をかけてきた。
「由美、陽子、お疲れ様。どうしたの?」
「どうしたの? じゃないよ! ねぇ、キッシーと別れたってマジなん!?」
「もう学内中で超噂になってるんだよ!? あの2人が別れたとか破談したとか!」
「破談て、お見合いしたわけじゃないんだから」
瑞樹は鼻息荒く詰め寄る2人に苦笑いを浮かべて、冗談交じりに対応した。
「なに呑気なツッコみしてんのよ! もう学内1のベストカップルが別れたって騒ぎになってんだからね!」
「……何で皆そんな事気にするんだろうね。関わりのない人の色恋沙汰なんてどうでもよくない?」
周囲と本人の温度差があまりにある事に、由美と陽子はあんぐりと口を開いて二の句が継げなくなった。
瑞樹の言う事は確かに正論かもしれない。
だが、K大1のベストカップルと噂になった2人が別れたとなれば、騒ぎになるのも間違ってはいないだろう。
「よいしょっと! じゃあね、由美、陽子」
鞄を手に持ち講義室から出ようと席から立って2人にそう告げる瑞樹に、由美達はハッと我に返り慌てて瑞樹を呼び止めた。
「ねぇ! 今日もキッシーとランチしないんだよね!?」
「え? う、うん」
「じゃさ! 久しぶりに私達と一緒しようよ!」
「えぇ……2人の目が怖いからヤダ」
由美達の目がまるで取調官の様に見えた瑞樹は、「暫く1人で考えたい事があるから」と添えて、2人の前から逃げるように立ち去った。
瑞樹は比較的人通りの少ない場所にあるベンチに腰掛けて、大学に向かう途中に以前高校の文化祭でお世話になった『ベーカリーOOTANI』に立ち寄って買っておいたメロンパンと、大谷のお薦めのパンが入った紙袋を取り出した。
実は文化祭が終わった後も、大谷との付き合いは続いてる。
時折あのメロンパンが食べたくなる時があり、その度に足を運んで店が落ち着いている時は店主の大谷と大谷の奥さんの3人で中庭でお茶を楽しんでいる仲だ。
「うん、今日も美味しい」
気持ちが沈んでいる時でも、大谷のメロンパンは元気をくれる。
(そういえば早紀さんのお父さんが焼いたメロンパンも、凹んでる時によく食べたって間宮さんも言ってたっけ。もしかして、メロンパンって人を元気にする効果があるのかもね)
そんな何の根拠もない事を考えながらパンを食べ終えた瑞樹は、鞄から一冊の文庫小説を取り出して読書を始めた。
都会の中にある大学とは思えない程に、周囲の騒がしさを感じさせない静かな空間に爽やかな風が吹き抜けて、瑞樹の前髪ををふわりと揺らす。
そんな心地よい風と共にベンチで静かに佇む姿は、まるで周囲の花木と同化した一凛の美しい花のようだった。
だが、そんな美しい花を揺らす風が遮られる。
本に視線を落とす瑞樹の前に、誰かが立ち止まったからだ。
「また読書中に悪いんだけどさ……」
そう声をかけられて嫌な予感を抱きつつ顔を上げると、やはりそこに立っていたのは津田だった。
またかと溜息をついて、読んでいた本を閉じる瑞樹。
「何か御用ですか? 津田先輩」
本当にこれ以上なんの用だと、瑞樹の目つきが自然と鋭くなる。
「いや、はは……歓迎されてるわけ……ないよね」
津田は頬をポリポリと掻き、気まずそうに眉を顰めた。
以前会った時のような威圧的な雰囲気は影を潜めていた津田に、瑞樹は首を傾げて自分の隣に手を添えて勧めた。
「ありがとう。でも、今日はこのままでいいよ」
「そうですか。それで、今日はなにか?」
「う、うん……あのね? 岸田君と瑞樹さんって何かあった? ほら、学内でも噂になってるみたいだし……さ」
「……そんな事訊いてどうするんですか? 津田さんの方が彼の傍にいるんですから、色々とご存知でしょ?」
「いや、何度も訊いたんだけど、私には全然話してくれなくてさ」まぁ。私は嫌われちゃってるから当然なんだけどねと津田はそう付け足す。
「そうですか。何故嫌われてるか知りませんけど、だからってそれは私には関係ない事ですよね? 結局、私に何が言いたいのか端的に言ってくれませんか?」
津田がここに現れた時はデジャブを感じた瑞樹であったが、互いに口を開きだすと前回とは立場が逆転していて、瑞樹が津田を責めるように主導権を握っていた。
ただ津田の表情がとても不安気で、少し顔色も悪く見えた瑞樹は突き離そうとせずに、また自分の前に現れた本当の理由を求めた。
「最近、岸田君の調子が悪くてさ。毎日コーチに怒鳴られてて……凄く辛そうで……」
「そうなんですね。それで? 私にどうしろって言うんですか?」
「はあ!? アンタ恋人なんでしょ!? 心配じゃないの!?」
「そう言われても。彼、最近会おうとしても会ってくれないので……」
「え? それって私のせい?」
「さぁ、どうなんでしょ。私には解りません」
惚けて見せた瑞樹であったが、津田の存在が2人の関係を崩した直接的な原因ではないのは分かっている。
だが、あの日津田がとった行動に全く問題がなかったわけではないからと、瑞樹は津田を遠回しに責めているのだ。
「あの時は……ごめんなさい。彼を支える事が出来るのは私しかいないって思いあがってて……。そ、それで……私が頼める立場じゃない事は百も承知なんだけど、岸田君を元気付けてあげてくれないかな……。私じゃ何にも力になれなくて」
本当に自分勝手な事を言っていると、瑞樹は溜息をつく。
理不尽な宣戦布告をしておいて、なんて言い草だ。腹が立つのを通り越して、気を抜くと笑ってしまいそうになる程に津田の言い分は到底理解できるものではなかった。
だが、瑞樹は津田を非難する資格がない事を知っている。
確かに岸田との関係がおかしくなった要因の一部だったかもしれないが、根本的な原因は津田ではなく結局自分自身が岸田の気持ちに甘えていたからだと気付いているからだ。
「津田さんの頼みは、すみませんが私にも無理です」
「ど、どうして!? 私が悪かったって言ってるじゃない! 勿論、これからはもう岸田君に近付かないって約束するから!」
「……そういう問題ではなくて、さっきも言いましたけど、彼に会うどころか電話しても繋がらないし、メッセージも既読すら付かない状況の私には、どうする事も出来ないと言っているんです」力になれるのなら、そうしたいんですけどと瑞樹が付け足した。
「……え!? 一体貴方達に何があったの? 私が岸田君にアプローチしたからって、彼が貴方にそんな態度をとる事にはならないよね!?」
「それを津田さんに話す必要性を感じません。とにかく話す事すら出来ない状況では、私が彼に出来る事はありません」
手に持っていた本を鞄に仕舞ってベンチから立ち上がる瑞樹を、これ以上呼び止める言葉が出てこない津田は目を泳がせて、黙り込むしかなかった。
責任を感じた津田は悩んだ末に、プライドをかなぐり捨てて頭を下げに来た事は瑞樹も理解している。
以前話していたような大学生の恋愛事情とは大きく異なる行動をとった津田は歪んではいるが、きっと本気で岸田の事が好きなのだろう。でなければ、最大の障害でしかない瑞樹に岸田を元気付けてくれなどと頼みに来るはずがないからだ。
勿論、瑞樹だって今の岸田の事は気が気ではないのが本音だ。
しかし、ここまで徹底的に距離をとられてしまっていては、恋人である瑞樹であっても何も出来ないと割り切る事しか出来ないのだ。
「もういいですよね? 失礼します」
「……ま、まって! 1度だけでいいから、岸田君が練習しているプールに来てくれない? 無理矢理にでも会えば、きっと彼も貴方の事を無視できないはずよ!」
「それはできません」
「どうして!?」
「そんな事をしても、絶対に彼の為にならないからです。今の彼は私を望んではいない……。それは間違いない事ですから」
「そ、そんな事――」
「――ありますよ。それでは、失礼します」
否定しようとした津田を遮った瑞樹はそのまま講堂に向かおうと、津田に背を向けた時だ。津田の目つきがさっきまでと打って変わって鋭いものになった。
「岸田君の事好きじゃないの!? ガッカリさせないでよ!」
人間という生き物は、きっと自分勝手に形成されているのだろう。だが、自分勝手な行動が決して自分の為ではなく、他の誰かの為だとしたら――それも一種の愛なのかもしれないと瑞樹は思った。
津田がとった行動がまさにそれだろう。
自覚しているのかは計り知れないが、自分がどれだけヒールになったとしても力になりたいと人の為に動ける津田を、瑞樹は羨ましく思ったのだ。
『どっちが付き合っている恋人なのかわからない』
岸田の傍に自分がいたら、もっと彼を苦しめてしまう。
少なくとも今の自分じゃ駄目なんだと、瑞樹は津田の言い分に反応を見せなかった。
「今週末に大会があって、岸田君も出場するの! 結果次第で大学側から見切りを付けられてしまうかもしれない、特待生にとって大事な大会なんだ!」
完全に背を向けて講堂に向かう瑞樹の背中に津田の悲壮が混じった声が突き刺さり、瑞樹の足が止まった。
「だからお願い! 当日会場で岸田君に声をかけてあげて! 貴方がそうしてくれたら、絶対に岸田君は大丈夫だから!」
「…………どうして津田さんは、そう言い切れるんですか?」
「彼の事が好きだからだよ! 情けない事を言ってる自覚はあるけど、岸田君は心から瑞樹さんを求めてるのを誰よりも知ってるから!」
(この人は何を言っているんだろう。私では駄目だと言ってるのに、津田さんは私の事を買い被り過ぎてる)
「今週末の土曜日に都心にある総合体育館で大会が開催されるの! 岸田君の出番は午前10時から! 待ってるから! 絶対に来てくれるって信じてるから!」
津田の叫びに似た頼みを一方的に聞かされた瑞樹は、何も返答する事なく再び止めた足を前に進めて、講堂の中に姿を消したのだった。
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