第66話 待ち人来たらず
「……ただいま」
トボトボと重い足取りで帰宅した私はリビングに顔を出さずに自室に向かおうと階段に足を掛けると、希が慌てて駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん! 話したい事があるんだけど」
「さっきはごめんね。今日は疲れたから今度にしてくれない?」
「駄目! 向こうで話そ?」
嫌だと言った私の手首を掴んでリビングに連れて行こうとする希に苛立ってしまって、思わず掴まれた手を振り払った。
「疲れてるって言ったよね!?」
「ホントにこのままでいいの!?」
「アンタには関係無いでしょ! ほっといてよ!」
さっきのアレを見られてしまったのだから、希が心配してくれているのは分かってる。だけど、今の私はどうしても希と……ううん。誰とも話したくなかった。
希の手を振り払って「お姉ちゃん!」と希の呼びかけを無視して階段を上って自室のドアを大きな音を立てて閉める。鞄を投げ捨てて上着を脱ぎ散らかしたまま、私はベッドに倒れ込んだ。
体重をベッドに預けて大きく深呼吸して気持ちを落ち着けようとしたけど、沈んだ気持ちは浮上してくれる気配はない。
何がいけなかった?
彼氏の為に、彼氏が望む事に従うのが、そんなに駄目な事なの?
(昔の私……仮面……仮面か)
彼の言われた事を思い返していると、何時の間にか眠ってしまっていて――夢をみた。
思い出したくもない夢。
中学3年の時に、平田に告白されて断わってからの悪夢。
人を信じられなくなった。もう、おかしくなりそうだった。
毎晩泣いて、朝起きたら家族に心配かけないように振舞って家を出る毎日。
何度この赤く光る信号を無視して、道路に飛び込もうとしたのか分からない。
そんな先が全く見えない夢の中に、一筋の光が指した。
その光は弱々しい光を放っていたけど、とても温かく私を包み込んでくれたんだ。
その夢を見てから、私の目に日が経つにつれて光が戻っていく。
思えば、ずっと誰かに光を灯してもらってきた気がする。
岸田君に、愛菜や結衣に佐竹君、松崎さんもだね。ついでに希も。
それに優希さんや茜さん。
そして――間宮さん。
いつも誰かが傍にいてくれて、嬉しくて安心できる存在。
心を閉ざしている頃じゃ考えた事すらなかった幸せな時間を、皆に貰ってきた。
でも……本当にこのままでいいのかな。
知り合ってから、愛菜達は本当に変わったと思う。
強くなって自分で道を切り開いて、そして幸せを掴んだ。
じゃあ、私は?
岸田君は変ったって言ってくれたけど、本当にそうなのかな。
合宿の時、文化祭の時……。そして間宮さんの気持ちを追いかけている時だって、私はいつだって誰かに助けられてばかりだ。
間宮さんへの気持ちだって、結局投げ出して岸田君の気持ちに甘えて、なかった事にしようとしてる。
私は……何も変われてなんてない。
◇◆
自然と意識が戻り、眠りから覚醒した。
見慣れた天井に、いつもの部屋の匂い。
それだけで、夢をみていたのだと自覚できた。
体を預けていた寝慣れたベッドから上体を起こすと、ギシッとスプリングが軋む音がする。
自分の体に目をやると、いつものパジャマじゃなくて昨日着ていた服が見えた。
どうやら、昨晩はあのまま寝落ちしてしまったみたいだ。
少し頭が重い気がする。
眠っていたのに、夢の中でずっと考え事をしていたせいだろうか。珍しく昨晩の夢の内容をハッキリと覚えている。
頻繁に夢をみていたのかもしれないけど、大概覚えていない事が多い。
楽しい夢なら覚えていれば一日の活力になるんだけど、あんな夢じゃ覚えていても朝から気持ちが沈んでしまうだけだった。
壁にかけてある時計を見ると、針がもうすぐ午前10時を指そうとしていた。
今日の講義は午後からだから、まだ慌てる時間じゃない。
(……ジョギングサボっちゃったな)
重い頭を軽く振ってベッドを降りてリビングに向かうと、そこには誰もいなくて私だけだった。
それはそうだ。
平日のこの時間なのだから、両親は仕事で希は学校へ行っているのだから。
珈琲メーカーにいつもの手順でスイッチを入れると、やがてコポコポと音が鳴りだした。
その音をBGMにして、私は自分の朝食とお弁当を作る為に材料を冷蔵庫から取り出す。
手首に巻いている髪ゴムで髪を一束にまとめて、フライパンの油に熱を入れる。
彼に初めてお弁当を作った日から日課になった料理をする動作も、回を重ねるごとに無駄な動きが無くなってきて、始めた頃よりも遥かにスムーズに料理が出来るようになってきた。
メーカーから珈琲が淹れ終わったとアラームが鳴り、準備していたマグカップに珈琲を移し替えて、私は料理の合間に淹れたての珈琲を楽しんだ。
いつもの朝の一コマだ。
ただ、いつもと違うのは料理をしている私の心境だ。
お弁当と遅くなった朝食を作り終えて、1人でテーブルに向かって手を合わす。
外ではどこかで布団を干してパンパンと叩く音が聞こえる。
私はこの音が好きだ。
この音がするという事は凄く良い天気だという証拠だし、なによりこの音に平穏を感じるからだ。
希はいつも煩いって怒ってるけど。
朝食を済ませてシャワーを浴びた後に、着る服を選んで身支度を整えて玄関に向かう。
「いってきます」
誰もいない家の中に向かってそう言って、1人家を出た。乗り慣れたいつもの自転車に跨って近所の顔見知りと挨拶を交わしながら、A駅へ向かう間に違和感を感じた。
それは駐輪所で自転車を預けて駅前の広場に出て辺りを見渡した時、初めて違和感の正体に気が付いた。
(そっか。今朝はあの人のマンションで充電しなかったからだ)
駅前から僅かに見えるマンションを眺めながら、心の中でそう呟く。
(ううん。今は岸田君とちゃんと話をする事が先決よ。会って話がしたい)
彼と別れてから考えていた事。
夢の中で見つけた、今の自分の気持ちを聞いてもらいたい。
私はマンションに短く息を吐いて、踵を返して駅に向かった。
◇◆
大学に昼食時に着いた瑞樹は、その足でそのままいつも岸田を待っているテラスに向かった。
二人掛けのテーブルに自分の分と岸田の弁当箱を向かい合わせるように置く。その行動は今は1人だけど待っている相手がいるから、この席は空いていないという意思表示だ。
以前岸田を待っている時、見知らぬ男に相席を求められた事がある。勿論すぐに待ち合わせをしているからと断った瑞樹であったのだが、男は諦める事なく執拗に粘り結局待ち人である岸田が現れるまで居続けられた経緯があったのだ。
だから、例えこの弁当箱が空だったとしても、瑞樹には必須アイテムになっている。
席に着いて少し経ってから腕時計に目をやると、いつも待ち合わせしている時間から10分程経過していた。
だが、瑞樹は時計を巻いている左腕を膝の上に戻し、姿勢を正して静かに岸田を待った。
どのくらいの時間が経っただろう。
周りの席では食事をしたり、お茶しながらお喋りを楽しんでいた他の学生達の姿が、何時の間にか殆どいなくなって空席になっていた。
瑞樹が受講する講義が始まる時間が、後10分程に迫っていた。
瑞樹は少し俯いたまま席を立ち、用意していた2つの弁当箱を仕舞ってテラスを後にした。
その日の夜。瑞樹は帰宅してからいつも練習が終わる時間に岸田の携帯に電話をかけたのだが、まだ練習中なのか繋がらなかった。後で通知を見ればかけ直してくれるはずだと思った瑞樹だったが、トークアプリを立ち上げて『練習お疲れ様』とだけメッセージも送って部屋を出た。
夕食を食べて入浴をした後にスマホを確認したが、岸田からの着信履歴はなく送ったメッセージにも既読すら表示されていなかった。
瑞樹は寝る直前まで数回メッセージを送ったり電話をかけてみたが、何の反応もなく今夜は諦めてベッドに入った。
翌朝、瑞樹は目覚めてからすぐに枕元に置いてあるスマホをチェックしたのだが、相変わらず岸田から電話があった形跡はなく、送ったメッセージにも既読すら付いておらず朝から大きな溜息が漏れた。
カーテンを開けて窓の外を見ると、今朝はいつから降り出したかは知らないが、雨がシトシトと降っていた。
「……今日もジョギングできないな」
朝の日課を諦めた瑞樹はキッチンに向かって2人分の弁当を作る片手間に、家族の朝食を作った。
今朝は家族揃って朝食の席に着いた。
両親は相変わらず忙しそうだったが、元気に朝食を食べる2人の姿に安堵の息を漏らす。
希はあの夜から話しかけてこない。
怒っているのか目も合わせてこない。
自分の事を心配してくれたのにあんな言い方をされたんじゃ無理もないと、瑞樹は心の中で溜息をついた。
朝食を終えた家族はそれぞれ身支度に取り掛かり、両親、希、瑞樹の順番で家を出た。
大学に着いて午前中に予定されていた講義を受け終えた瑞樹は、元気のない顔でまたいつものテラスへ足を向ける。
二人掛けのテーブルに2つの弁当箱を並べる。
昨日と同じ光景なのだが、今日は昨日と明らかに違う空気が流れていた。
それは昨日は僅かだった周りの反応が、今日はあからさまな騒めきへと変化していたのだ。
そのざわめきの原因がなんなのか思い当たる節がある瑞樹であったが、いつもと変わらない姿勢を崩す事なく相変わらず既読が付かない岸田とのトークページに『お弁当用意して待ってるよ』と書き込んだ。
しかし、結果は昨日のリプレイを見ているような光景に終わった。
時間ギリギリまで待っていた瑞樹は気持ちを落ち着かせようと、軽く深呼吸をして席を立った。
翌日も同様の光景を周囲に見せて、また1人で席を立ち去る。
そんな光景が4日続いた昼休み。
いつものテラスのテーブルには岸田だけではなく、瑞樹も姿を現す事はなかった。
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