第65話 仮面

 A駅を出た俺達はいつもなら駐輪所へ向かうんだけど、今日は歩いて駅に来てくれたからまっすぐに自宅に繋がるスロープを降りて行く。


 駐輪所で1度繋いでいる手を離すのだけれど、今日は繋いだままでいられるのが妙に嬉しい。

 隣では今日遊びにいった所の事を楽しそうに話す彼女がいる。

 いつも志乃と会っている時の、いつもの光景だった。


 ……なのに、あの日から続いているザワザワした気持ちは相変わらず治まってくれない。

 1日中一緒にいれたからんだから、きっとこの気持ちも治まってくれるものだと期待してたんだけど……。


 住宅街に差し掛かる手前にあるコンビニで、ちょっと用事があるからと志乃が店内に入っていく。

 いつもなら一緒に店内に入っていくのだけれど、今日は外で待ってると1人待つ事にした。


 いつもよりどんよりしていて、星が殆ど見えない夜空を見上げる。


 結局志乃の口から、津田さんの名前を聞く事はなかった。

 津田さんが言ってた事が本当だったとしたら、志乃が何も言ってこないのは逆に違和感があった。

 気にしていないというよりも、意識し過ぎてると感じるのだ。


 志乃はいつものように楽しそうに笑ってくれてるんだけど、何故かその笑顔が俺の心を抉り取られるような感じがした時、ずっとあったあのザワザワした気持ちの正体を垣間見た気がした。

 大好きな女の子の笑顔にこんな事を思うなんて認めたくない。だって認めてしまえば――俺は志乃に嘘をついた事になってしまうから。


「ごめんね、おまたせ」

「ううん。もういいの?」

「うん、振込したかっただけだからね。はい、これ!」


 言って志乃は缶珈琲を手渡してくれた。


「え? いいの?」

「うん! 今日は沢山お金使わせちゃったから、そのお礼です」

「はは、気にしなくていいのに。それじゃ、ありがたく」


 受け取った缶珈琲のプルタブを開けると、缶を開けた音が妙に耳に残った。

 珈琲を一口だけ口に含んで軽く息を吐いていると、隣で志乃もニコニコしながら珈琲を飲んでいた。


(――やっぱり、最近の志乃は変だ)


 笑顔がどことなく不自然で、極端にいえば無理して笑顔を作っている気さえする。


 どこかで、俺はそんな彼女の笑顔を見た事がある。


「ん? どうしたの?」


 志乃の横顔を見てると、不意に笑顔で話しかけられた時、俺はその笑顔をどこで見た事があるのかハッキリと思い出した。


(――そうだ。中学時代に孤立している彼女に話しかけて。初めて見せてくれた笑顔にそっくりなんだ)


「志乃って……さ。俺といて楽しい?」

「え? 突然どうしたの?」

「なんか最近様子が変だなって思って……」

「……え? そうかなぁ。あ、そろそろ帰ろっか」


 空き缶をゴミ箱に捨てて、まるで俺から逃げるように離れて行く志乃を見て、俺は『あの事』に触れる決心をした。


「あ、あのさ! 訊きたい事があるんだけど、もう少しだけ時間いい?」

「……う、うん」


 俺の真剣な様子を察してくれたのか、彼女はまるで観念したかのように足を止めた。


「あのさ、ウチの部の2回生の津田さんって人が会いに来なかった?」

「……うん、きたよ」

「どうして、その事を話してくれなかったんだ?」

「ど、どうしてって……」


 ◇◆


 言えない……。ううん、言いたくない。

 他人事のようだったと言われたなんて、彼に言いたくない。

 もし話してしまったら、きっと私達は駄目になる気がするから。


「……だって、同じ部の先輩なんでしょ? 私が津田さんの事を話したりしたら岸田君が気にして、練習に集中出来ないんじゃないかと思って……」


 津田さんと話した詳しい詳細は避けて、あくまで彼を気遣ってした事にした。これなら私が彼氏の事を心配しているように聞こえるだろうと思ったから。


(……でも、本当は全然違う……。私は、本当に卑怯な女だ。何時からこんな真似ができるようになったんだろ)


「本当にそれだけ?」

「え? そ、そうだけど、なんで?」

「……ううん。津田さんにはもう俺達に関わるなって言ったから――嫌な思いさせて、ごめんな」

「……ううん。いい」


 彼が何を言いたかったのか考えるのが、怖くて仕方が無かった。

 だから、歩き出して感じる空気のように何か違う話題にすり替えようと思ったけど、何も話す事が思いつかない。


 あと1つ角を曲がると私の家が見えてくる。

 もうこうなったら、このまま何も触れずに別れよう。また日を改めれば、きっと普段通りに戻れる事を期待して。


 私はそう決め込んで、もうすぐ着く我が家に気を緩めた瞬間の事だった。「志乃」と呼び止められて一瞬で抜けた力がまた戻り、私は少し引きつってしまっている顔をなるべく見られない角度で振り返ると、何時の間にか彼が私の目の前にいた。


「今日は不意を突くような真似はしないから」


 言って、彼は私の両肩にそっと手を置く。


(……あ、キス……か。う、うん。キスで変な空気が戻るなら……)


 彼の顔が近付いてきたのを確認して、私も唇を差し出すように少し上向きにして、目をギュッと閉じた。

 ――だけど、待てども唇に何の感触も感じられなかった。

 あれ?っと眉をしかめながら閉じた目を開くと、目の前にいる彼が辛そうな顔で私を見ていた。


「ど、どうしたの?」


 キスするんじゃなかったの? もし私の早とちりだったら恥ずかしくて、死にたくなるんだけど……。


「なんで……泣いてるの?」

「――――え?」


 彼の言っている事が分からなかった。

 泣いてる? 私が?

 そんなはずないよ。ちゃんと切り替えられてるはずなんだから。


 私は彼から外した視線を足元に移すと、自分の靴のつま先辺りにポツポツと濡れたような跡を見つけた。そっと自分の目元に触れてみると湿り気を帯びていて、目から零れ落ちる涙で指先が濡れて、そこで私は初めて自分が泣いている事に気が付いた。


「え? あれ? 変だな……ち、違うの! ホントに違う……から」

「なにが違うの?」


 まったくだ。

 一体なにが違うというのだろう。

 自分でも意味が分からない。

 それでも「違う」と繰り返す。

 それしか出来ないから……。


「あのさ」

「……うん」

「俺は志乃の中にあの人がいても構わないって言ったよね」

「……うん」

「まぁ、そうは言っても思う所はあるけど、今だってあの時に言った言葉に嘘はないんだ」

「……うん」


 彼は気持ちを落ち着かせようと軽く息を吐いた。声の先々が震えていたから、間違っていない。

 そして、彼は「でもね」と話を続けた。


「俺の気持ちは、どうやら志乃に我慢を強いてただけみたいだね」

「そ、そんな事ない――そんな事ないよ!」

「じゃあ……どうして、知り合った頃みたいな笑顔を見せるの?」


 彼と知り合った頃の私?

 それって、中学生だったあの頃だよね。


「どういう意味?」

「そっか――自覚がなかったのか。最近の志乃って自分を押し殺して周りの目ばかり気にして、仮面を被っている頃のように見えてた」


 仮面……嫌な表現だと思った。

 まるで、今の私は感情を持たない人形だと言われた気がしたからだ。

 確かに意識して笑っていたのは思い当たる節はあるけど、だからといってそんな言い方はないと思う。


「そ、そんな事」

「あるよ。仮面を被ってない志乃を見たのは、付き合いだして初めて出掛けてケンカ別れしてしまった時と、TDLで1日遊んだ時くらいだったかな」

「…………」

「それにね、志乃」

「…………」

「俺はあの人の存在を無視するつもりもないし、ましてや志乃に我慢させるつもりなんてなかったんだよ?」


 じゃあ、どうすればよかったと言うの?

 私はあの人を想う事に疲れて、彼の気持ちに逃げた自覚がある。

 その選択をした瞬間から、私には彼しかいなくなったんだ。

 確かに、嫌われないように意識した事はあったけど、そんなの付き合ってる人達なら、多かれ少なかれ意識してるはずだよね?


「……私は我慢なんてしてない」

「そう? それなら何でキスしようとしたら、泣いたりしたの?」

「……それ、は」


 違う!違う!我慢なんてしてない!

 だって、言われるまで泣いてたの気付かなかったんだから!


「俺とキスしたくなかったとまでは思いたくないけど。少なくとも俺に合わせただけだったよね?」

「――駄目、なの?」

「え?」

「岸田君は私とキスしたかったんだよね!? だから私はそれを受け入れようとした! それの何が駄目なの!?」

「駄目だよ……」

「どうして!? 皆そうなんじゃないの!?」


 岸田君の方が震えてる。

 まるで何かを必死に我慢しているみたいに。

 だけど……そんな彼に気付いてたけど、今の私に彼を気遣う余裕なんてなかった。


 ◇◆


「お姉ちゃん?」


 そんな時だ。不意に瑞樹達から少し離れた場所から、声をかける者が現れた。

 そこで瑞樹はここが往来の場であると今更のように気付き、咄嗟に岸田との距離を空けて呼ばれた方に顔を向けると、そこには少し怪訝な顔つきをした希が立っていた。

 どこから聞かれていたのか分からない瑞樹だったが、少なくとも仲良くしていたようには見えなかっただろうと思った。


「そこの角まで2人の声が聞こえてたよ? 近所迷惑になるから場所変えた方がいいんじゃない?」


 希はヤレヤレといった感じて、2人の元に歩み寄った。

 暗闇で遠目からは分からなかったが、近づいてみて姉の目から涙を流した跡がある事に気付く希。


「希ちゃんだよね? こんばんは、迷惑かけちゃってごめんね」

「いえ、私に謝られても困りますよ」


 焦った様子をみせずに謝る岸田を軽く流した希は、腕時計を覗き込む。

 希の登場で、緊迫していた周囲の空気が僅かに緩んだ。

 とはいえ、この場の空位が気まずいままなのは変わらない。


「そろそろ、お父さんが帰ってくる時間だよ。お姉ちゃん」

「う、うん。わかった」

「そんじゃ、私は先に帰ってるから」


 言って、希は自宅に入ろうと瑞樹とすれ違った瞬間、希は「今日はやめといた方がいいんじゃない?」と小声で瑞樹にしか聞き取れない声量で呟き、自宅の玄関を開けて帰って行った。


「ごめんな。こんな所でする話じゃなかったな」

「ううん。私の方こそ、大きな声だしてごめんなさい」


 さっきまで場所を弁えずに言い合っていた事が嘘だったみたいに、今度は2人の間に重い沈黙が流れる。

 その沈黙に耐えきれなくなったのか、岸田が「ふぅ」と息を吐いたかと思うと、落としていた視線を瑞樹に向けた。


「そろそろ帰るよ。今日はありがとう」

「あ、ううん。私の方こそ……ありがとう」


 言って岸田はまた視線を落とすだけで、駅の方へ体を向けない。

 そんな岸田を見て、またあの話の続きをされるのかと身構えると、岸田は腹を括ったような面持ちで瑞樹の目をまっすぐに見た。


「あの……さ。暫く会うのやめないか?」

「……え? な、何でそんな事言うの!?」

「その時間が志乃には必要だと思うんだ。だから明日から俺の事は放っておいて構わないから、君はさっき話した事を考えてみて欲しい」


 岸田はそう告げると、ようやく背中を瑞樹に見せた。


「ま、待って! 岸田君!」


 自分の元から離れて行く岸田を呼び止めようとした瑞樹だったが、岸田はその呼び止めに応じる事なく手を軽く上げて立ち去ってしまった。


 すぐさま追いかけようとした瑞樹の足が、岸田の方に動いてくれない。頭では追おうとしているのに、心がそれを拒絶しているみたいにアスファルトから靴が張り付いてしまったかのように動かなかったのだ。


 頭と心がチグハグに働いて、瑞樹は足枷を嵌められたかのように離れて行く岸田の背中を見送る事しか出来なかった。


(なんで……!? どうして!?)

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