第61話 自信喪失
翌日、あれだけ泣き尽くしてもいつもの時間に起きて、今は家族の朝食とお弁当を作っている。
料理をしている時間は好きだ。
別に料理人を目指す気なんてないんだけど、単純に美味しい物を作るのが好きなんだ。
「うん! 今朝の卵焼きは会心の出来かも!」
お弁当箱の中に綺麗に鎮座する卵焼きを眺めて得意気になっていると、珍しく我が家の我儘姫君である希が起きてきた。
「お姉ちゃん……おふぁよ」
「あれ? 希がこんな時間に起きてくるなんて珍しいね」
「んーちょっとね。あ、卵焼きいただき!」
朝食にと多めに作った卵焼きを目ざとく見つけて、いただきとヒョイっと指で摘まんで口に放り込む希に、はしたないと溜息が漏れた。
「うわっ! いつも美味しいけど、今朝のは格別にウマー!」
「つまみ食いなんてしないの! ちゃんと希の分もあるんだから」
「いつもすみませんねー。てか、今朝も走るの?」
希はランニングウエア姿の私に、半分呆れたように言う。
「そうだよ。お弁当は冷めるまで蓋閉じちゃ駄目だからね。じゃ、ちょっと走って来る」
「元気だねぇ、いってらっしゃーい」
眠い目を擦る希に見送られて、私はいつものルートを走り出した。
あの人の意識が戻った日、つまり彼と付き合いだした翌日からジョギングを始めた。
きっかけは大阪でバスケットボールを皆でやった時、凄く体力が落ちている事を痛感したからだ。
元々は体を動かすのは好きな方なんだけど、受験モードに入ってから殆ど体を動かさないで机に向かっていたのが原因だと思う。
元々大学生になったら何か新しい事を始めたいと考えていて、何をするにしても鈍った体では楽しめないだろうから、丁度いい機会だったと思う。
始めだした当初はすぐに息が上がってしまってかなり凹んだけど、日を追うごとに体が慣れてきてからは、徐々に距離を伸ばせるようになってきた。
走り始めた時から、必ず通るルートがある。
それは以前、あの人が住んでいたマンション前を通過するルートだ。
今朝もマンション前に着いて、軽く足踏みしながら以前あの人が住んでいた部屋を見上げると、まだ誰も住んでいないようだった。
まぁ誰が住もうと、あの人じゃないのは確実なんだから、どうでもいいんだけど。
最近の私のもう1つに日課。
それは、朝このマンションを見上げて色々な事があったなと思い出す事だ。
嬉しい事や悲しい事、ここで意外な人と知り合えた事。
そして、あの人が目の前で刺されて意識を失った事。
過去にするのは可能かもしれないけれど、忘れるなんて絶対に無理だ。もし彼に忘れる事を望まれたとしても、これだけは絶対に拒否するつもりだ。
5月の爽やかな風が火照った体を冷ますように吹き抜けていく。
足を完全に止めた私は唇に手を当てて、昨晩の事を思い出してみる。
(……うん、もう大丈夫。ちゃんとリセット出来てるみたい)
いつもの自分に戻れた事にホッと胸を撫で下ろして、見上げていた部屋に向かって「おはよ」と告げて、ジョギングに戻った。
帰宅してシャワーで汗を洗い流した後、身支度を整えてから朝食を摂る。両親はもう食事を済ませて仕事に出かけたようだ。
希は私が帰ってくるのを待っていたみたいで、一緒に向かい合って手を合わせた。
「うまっ! 冷めても美味いとか、お姉ちゃん相変わらず神ってるね!」
「そう? ふふ、ありがとう」
「……ねぇ」
いきなりいつものおちゃらけた雰囲気が消えたかと思うと、希が真剣な目でこう訊いてきた。
「しつこいようだけど、昨日ホントは何かあったんじゃない?」
「ホントにしつこいよ。昨日も言ったけど、何もないよ」
「じゃあ、それなら――どうしてお風呂場で泣いてたの?」
希の口から昨日のお風呂での話が出てきて、私は思わずお箸を止めてしまった。
「……いくら妹でも、それはどうかと思うんだけどな」
「うん。それはホントにごめん……。でもさ!」
「希が心配する事じゃないよ。アンタは自分の今の時間を楽しみなさい。でないと、私みたいに後悔するよ」
希は昨日の私を見て思うところがあったんだろうけど、私はそれを遮って食事を終えて食器を食洗器に並べていると、希がまた私に問うのだ。
「お姉ちゃんは、ホントにこのままでいいの?」
良いも悪いもない。
あの人から背を向けて、彼に逃げた私に何も言う資格なんてないのだから。
だから、私に出来る事は精一杯努めて笑顔を作るしかない。
「いいに決まってるじゃん! それじゃ、私はもう行かないとだから、食べ終わったら食洗器のスイッチ入れておいてね」
「――お姉ちゃん!」
希は納得できないと言わんばかりに呼び止めてきたけれど、私は聞こえないフリで支度してすぐに家を出た。
◇◆
大学に向かって1限目の講義を受講して3限目まで時間が空いていたから、缶珈琲を買って中庭のベンチで本を読む事にした。
大学は高校と違って、全ての講義を受けないといけないわけではない為、こうして大学のあちこちで空いた時間を過ごしている学生達が大勢いる。
少し歩き回ってようやく空いているベンチを見つけた私は、腰を下ろして読みかけの小説を鞄から取り出した。
缶のプルトップを開けて、珈琲を一口飲んで喉を潤す。
本に挟んでいる栞を抜いて、途中だったページを開く。
電子書籍が普及した今も、私は本は紙派だ。
ページを捲る時の紙が擦れる音が好きなんだ。
電子書籍も擦れる音を演出としてはあるけれど、幾ら偽てもスピーカーから鳴る音はやっぱり温かみがないと思うのだ。
視線を本に落として物語を読み始めて10ページ程読み進めた頃だろうか、本に集中している私の前に誰かが現れた。
でも、意識を本に向けている私はその事に気付かずにいると、「瑞樹さん……だよね」と声を掛けれた。
その呼びかけで自分が呼ばれている事に気付いた私は、物語の世界から現実に引き戻された。
「はい」
そう返事をして視線を上げると、そこには見覚えのない女性が立っていた。
「私はここの2回生で、水泳部のマネをやってる津田っていうんだけど」
「津田さん……ですか」
うん、やっぱり見覚えがない人だ。
しかも2回生って同級生にもまだ知り合いが少なくて、サークルにも所属していない私に先輩の知り合いなんているわけがない。
「読書しているのに悪いんだけど、ちょっと話したい事があって時間貰えないかな」
「私に……ですか? え、えぇ。構いませんけど」
津田と名乗る女性は「悪いね」と言って私の隣に座った。
彼女は直ぐに鞄からペットボトルを取り出すと、軽く喉を潤してから私と目を合わせる。
「不躾な話で悪いんだけど……さ。彼と……岸田君と別れてくれないかな」
「――はい?」
この人は突然何を言っているんだろう。
話の内容でこの津田って人が彼を好きなのかもしれないけど、普通その彼と付き合っている私に初対面の人が別れろだなんて言うのかな。
私は突然過ぎる事で呆気に取られてしまって、言葉が上手く出てこなかった。
「何を言ってるのって顔だね。なぁ、それは当然なんだけどさ」
「あの津田さんはその……彼の事が好きって事でいいんですよね?」
「うん。それも当然の事だよね」
敵意をむき出しにして睨みつけているわけじゃない。かといって口調は決して強くはないのだけれど、フレンドリーな感じでもない。それはまるで交渉を持ち掛けられているような感覚があった。
「ほら! 瑞樹さんって大学中で噂になる程の美人じゃん? 男なんて選びたい放題なんだしさ、別に岸田君じゃなくてもよくない?」
交渉口調から急にふわふわとした口調に変えてきた津田さんが、どんな人なのか全く掴めなかった。
「えっと、津田さんが彼の事が好きなのは分かりました。でも、こういう場合って普通好きな相手に話す事なんじゃないですか?」
「うん。勿論、岸田君にアプローチはかけてるんだけどね。もう貴方の事が好き過ぎるって感じでさ……、もう取り付く島もないって感じなんだよ」
津田さんは彼の事が好きなんだと自覚してから、どんなアプローチをしてきたのか訊いてもいない私に話しだした。
常識的にいって、こんな事を彼女に話す事なのかと困惑しながら彼女の話を聞いていると、どうやらどんなに攻め立てても私との惚気話が返ってくるのだと津田さんは項垂れながらそう話す。
「……だからって」
だからと言って彼女に別れろと頼みに来るのはおかしいと私は津田さんにそう話そうとしたんだけど、彼女は途中でそれを遮った。
「うん。勿論、それが理由でこんな馬鹿な事を頼みに来たわけじゃないよ」
「じゃあ、どんな理由があってそんな事を私に?」
私がそう促すと津田さんは空を見上げて、馬鹿げたお願いをした理由を話し始めた。
4月、本格的に大学生活が始まった頃、津田さんには恋人がいたんだけど、彼氏の態度が日に日に目に見えて悪くなっていく事に悩んでいたらしい。
水泳部のマネージャーをしている津田さんは新入部員とも交流が盛んで、岸田君ともすぐに仲良くなって、よく彼氏の愚痴を零していたそうだ。
「そういうのは女友達にするのでは?」と尋ねると、女友達は無条件でこちらに肩入れする意見ばかりだから参考にならないんだと言う。
勿論こんな話を独り身の男にしたら気をもたせていると勘違いされかねないんだけど、そこは絶対に大丈夫だと力強く言い切った。
津田さんのその根拠が私達にあるという。
岸田君と仲良くなる頃には私と岸田君は大学内で有名なカップルだった為、噂になる程の彼女がいる岸田君ならそんな心配はないと踏んだのが根拠なのだそうだ。
津田さんの期待通り、彼は親身にそして客観的な見方で相談にのってくれたそうだ。
そして、何時の間にか津田さんはそんな彼に惹かれてしまったと言う。
気持ちを抑える事が出来なくなった津田さんは私に悪いとは思いつつも、2人で学外で会おうと誘ったりしたけど、彼女に無用な心配をかけたくないからとキッパリ断られてきたらしい。
だけど、そんな誠実な彼に津田さんは益々惹かれたと言うのだ。
もう我慢出来ないと津田さんは悩みのタネであった彼氏に別れを告げて身を綺麗に整理した後、すぐに意中の彼に本格的なアプローチを始めた。
だけど、どんなに頑張っても彼は微塵も気持ちを向けてくれなくて、もう諦めようと考え始めた時に私達が学外で会っているのを偶然見かけたそうで、その時思ったらしいのだ。
彼の目には私しか見えていないけど、彼女である私を見て違和感を感じたと。
「違和感……ですか?」
「そう! 確かにパッと見は噂になるもの分かる2人に見えたんだけど」
「……だけど?」
「岸田君の目を見て話す貴方は、どこか違うものを見ているように私には見えた」
――胸に大きな痛みを感じた。
事情を全く知らない津田さんに、まさかそんな事を言われるとは思わなかった。
自分なりに頑張ってきたつもりだったのだけど、こんな簡単に見破られてしまう程度だったのかと、私は落胆の色を隠せない。
「だから、もし! 瑞樹さんの中で岸田君じゃない他の誰かがいるのなら、譲ってもらえないかと思って言ったんだよ」
まったく、どんな正当な理由があるのかと思えば、やっぱり非常識でしかない自分本位な理由だった。と、本来なら言い放つ所なのだけれど、津田さんの言う事はしっかり的を得ていて拒否する言葉が出てこない。
私の中で急激に自信を失っていくのが分かる。
だからと言って、この事実を受け入れるわけにはいかない。
だって、私にはもう彼しかいないんだから。
「それは津田さんの思い違いですよ。私は彼しか見てませんし、彼しか想っていません」
まっすぐ向けてくる津田さんの目を強く見返して、私は彼女の考えを否定した。
「ホントにそうかな?」
「どういう意味ですか?」
「もし本当に瑞樹さんの言う通りだったとしたらさ。最初に岸田君と別れて欲しいって言った時、何で怒りもせずに冷静にあんな事言えたの?」
「あんな事って?」
私は津田さんが何を指して言っているのか分からずに、怪訝な目を向けた。
「こういう場合って普通好きな相手に話す事なんじゃないですか? ってさ」
「!!」
「普通そんな事言われたら、まともに取り合わずに怒り口調で私を責めると思うんだけど、貴方はまるで他人事みたいだったよ?」
とんかちで頭を殴られたような衝撃だった。
早く何か言い返さないと、津田さんの言葉を肯定してしまう事になる。
だけど……何も言葉が出てこない。
「あ、あれは……そういう意味じゃ……」
これが今の私の限界だった。
そんな私の反応を見て、津田さんは何かを確信したような笑みを浮かべて、ベンチから立ち上がった。
「まぁ、よく考えてみてよ。私の勘って結構当たるんだよね」
津田さんは「邪魔したね」と言い残して、私の反応を待たずにベンチを離れて行く。
その時の津田さんの姿が、思わず追いかけようとしてしまう程に、岸田君の姿とダブって見えた。
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