第60話 白書

 私と岸田君が付き合いだして2週間が過ぎた。


 付き合いだして初めて2人で出掛けた時にいきなりケンカをしてしまった私達だけど、それをきっかけにスタートラインに立てた気がする。


 岸田君は水泳の特待生で、毎日厳しい練習で疲れ切っているはずなんだけど、私と会う時は全然疲れている素振りを見せない。

 絶対に無理をしているはずだから「無理しないで」と言うのだけど、「瑞樹さんと会えない方がキツいから、そんな事言わないで」と少し寂しそうに笑う。


 彼は中学時代に完全に孤立していた私を助けてくれた恩人だ。

 岸田君のお父さんの仕事の都合で引っ越す事になって、私達はお別れする事になってしまった。

 彼がいなくなってから届ける宛てのない彼に宛てた手紙がある。

 その手紙にはこれまで私の心を助けてくれた感謝の気持ちを綴り、最後に彼への気持ちを書き込んでいる。


 あの時、私は確かに彼に惹かれていたんだ。


 今でもその手紙は私の部屋にある机の引き出しの一番奥に、大切に仕舞ってある。


 そんな恩人である彼と去年、中学時代のクラス会の席で再会する事が出来た。

 私は嬉しさのあまり、皆がいる場で泣いてしまった事を昨日の事ように覚えている。


 だけど、再会した時には私の中には岸田君ではない、違う男性が住んでいた。

 再会を果たした彼は、そんな私に好きだと気持ちを伝えてくれた。その時の私の気持ちは嬉しさよりも罪悪感が強く募った。


 私の真ん中にいる男性は、岸田君と違った意味での恩人だ。


 ずっと自分を守る為に自分を偽ってきた私に、昔の様に……ううん。新しい自分を誕生させてくれた人なんだ。


 ――2人の恩人。


 どちらも大切で大好きな人だ。

 どちらかが欠けても、絶対に今の私はいないと断言できる程に。


 だけど、2人へに気持ちには異なる点がある。


 それはLOVEとLikeの違いだ。


 確かに中学時代の私は岸田君に恋愛感情を抱いていたんだと思う。だけど、今はとても大切な友人になっていたんだ。


 恋愛感情を岸田君ではない人に抱いている私に、彼はそれを承知でA駅のホームで気持ちを打ち明けてくれたのだ。

 嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちで頭の中がグチャグチャになった。

 だけど、私はあの人への気持ちに嘘がつけなくて、彼の気持ちを受け入れる事が出来なかった。

 それでも諦めないからと宣言した彼の顔が、今でも脳裏に焼き付いている。



 あの人が私を助ける為に生死を彷徨う大怪我をして入院した。

 私はあの人が眠り続けるベッドの側で、毎日泣いていた。


 意識が戻らない日が10日続いた明け方。

 私は不思議な夢をみた。


 大きな海に沈んでいく夢。

 その海は不思議な海で、水中にいるという感覚がなくて呼吸も出来る海だった。

 そんな不思議な海で私の耳に届いてきたのが、あの人が誰かと話をしている声だった。


 会話の内容は断片的にしか聞こえなかったんだけど、あの人の声は今まで聞いた事がない程に優しい――とても優しい声だった事は覚えている。少なくとも、私にはそんな声を向けてくれた事はない。


 でも、断片的にしか聞き取れなかったけど、私の意識が覚醒する直前に、この言葉だけは聞き取れたんだ。


 ――瑞樹の事が好きだ、って。


 あまりに都合のいい台詞過ぎて、その時は夢だと思った。

 だけど私が目を覚ました時、ずっと意識が戻らなかったあの人が静かに目を覚ましたのを見て、私はどうしても夢だとは思えなくなった。


 ……違うね。夢だと思いたくなかったんだ。


 ――あの人の本当の気持ちが知りたい。


 単純な私は意識が戻ったあの人に、引き続き泊まり込んで看病したいと申し出た。

 確認をとったわけじゃないし、確証があるわけじゃないけど、好きな女の子が傍にいたら喜んでくれるはずだと思ったから。

 それに泊まり込みで看病できたら、今までじゃ考えられないくらいに2人でいる時間が得られるはずだから、その間にあの人の気持ちを知る事が出来るかもしれない。もし、その答えが私が望むものじゃなかったとしても、傍にいて色々と接していればあの人に振り向いてもらえるかもしれない。


 そんな期待を抱いていた私に、あの人は――迷惑だと言った。


 その一言で、ついさっきまであった変な自信が根本から壊れていく音が聞こえた気がした。


 あの人がそれを望むなら、私は言われた通り荷物を纏めて病院を出るしかない。


 自分だけ舞い上がっていたみたいで恥ずかしかったし、寂しかった。それでも表情や態度に出ないように努めてあの人に帰る事を告げたら「迷惑かけて悪かった」と言われた。

 私の何かがプチッと音を立てて切れた。

 気が付いたら、私はあの人に大きな声をあげて逃げるように病院を出てしまっていた。


 こんなはずじゃなかったのにと、もう情けないとか悔しいとか、色んな感情が一気に溢れ出して冷静に思考が回らなくなっていた。


 彼に2度目の告白をされたのは、そんな時だった。


 自分に全く自信がもてなくなって、これからどうすればいいのかすら分からなくなってしまった時に、彼からの告白は正直あのホームで聞いた時のようには聞けなかった。


 本音をいうと、彼は卑怯だと思った。

 でも。それを私に非難する資格がない事も自覚している。


 だって、あの時の私は――あの人を好きでいる事に疲れを感じていたから。

 出口が見えないトンネルにずっといる感覚。そんな時に目指している出口と違う方向から手を差し伸べられたみたいで、私は助けを求めるようにその手を掴んだんだ。


 彼と付き合う事を決めた時、私の頭の中のイメージはそんな感じだった。


 いい加減だと思われるかもしれない。

 私自身がそう思ってるんだから、その通りなんだけど……。


 だからかもしれない。

 あのケンカの後から私は彼の彼女でいようと強く意識して、頼まれてもいないのに手作りのお弁当を作ってみたり、用事もないのに彼に電話をかけてみたり、少しの時間でも会うように心がけてみたりし始めたのは。


 してあげたいからではなくて、しなければいけないと思ったから。


 でも不思議と嫌じゃなかった。

 お弁当だって彼はアスリートなんだからとカロリー計算して作ったり、見た目でも楽しんでもらいたくて彩に拘ってみたりするのは楽しいと思えた。

 段々と彼と過ごす時間が増えて行くにつれて私の中で歪に感じているこの関係に、居場所を見つけ出せてきたのかもしれない。


 そんな生活を暫く続けているうちに、私達は大学内で噂になっていた。なんでも学内一のカップルとかなんとか……。

 いい加減な事を言わないで欲しい。

 こんないい加減な気持ちで付き合いだした相手じゃ岸田君に失礼だ。


 秋に開催される大学祭のイベントでミスコンと並ぶ名物企画に、毎年ベストカップルを決めるコンテストがあるらしく、あちらこちらで優勝間違いなしとか言われているらしい。

 誰もそんなコンテストに出るなんて言ってないのに……。ていうか、絶対に出ないし!



 そんな日が続いたある日、お互いの予定が合って2人で日本最大のテーマパーク『TDL』に来た。


 このテーマパークは昔から好きで、子供の頃は家族でよく来ていたし、高校の頃は友達と来た事がある。

 でも、男の子と2人っきりで来たのは初めてで、前日の夜は緊張して楽しめないかもって心配だったけど、入場ゲートを潜った瞬間にそんな事は杞憂だったと、1日思いっきり楽しめた。


 彼は初めの頃は少し恥ずかしそうだったけど、私がはしゃぎながら何度も一緒に遊ぼうと誘ったら、次第にこの夢の空間を楽しんでくれ始めて、最後のパレードの時はすっかりこの世界の住人になってくれていた。


 私がここが好きな理由は2つある。


 1つは単純にこの世界観が好きで、ここへ来ると年齢関係なく童心に戻れるところだ。


 もう1つは前者でも述べたように、ここへ来る人達は私と同じようにこの世界の住人になりに来ている事だ。

 つまり、邪な気持ちをもった人はいなくて、くだらないナンパをされる警戒を解く事が出来るからだ。


 それに今回は恋人である彼が同じように楽しんでくれたから、一層楽しめたと思う。

 また2人で行きたいねって言うと、彼が嬉しそうに「うん、そうだね」と答えてくれて、益々充実した時間を過ごせたと心から満足できた休日になった。


 そう思ってたんだ……あの時までは。


 それは突然に起こった。


 テーマパークから最寄り駅のA駅まで戻ってきて、彼は私を自宅まで送ると言ってくれた。

 でも、今日1日連れ回して疲れているだろうし、また明日から厳しい練習があるから少しでも早く休んで欲しくて、駅前のコンビニまででいいからと彼の申し出を断った。

 私の気持ちを酌んでくれたのか彼も「分かった」と言ってくれたから、そのまま別れようとした時、突然彼が私の名前を呼び捨てで呼んだんだ。


 付き合ってからもずっと苗字に『さん』付けだったから、驚いて彼の言葉に思わず振り返ると、少し離れていたはずの彼が目の前にいて更に驚いて彼の顔を見上げた形で私の思考が一瞬停止した。

 だから、彼の次の行動が目に見えていたのだけれど、殆ど動けないまま彼の行動を受け入れるしかなかった。

 真剣な眼差しで私を見ている彼の顔が近付いてきて、やがて私の唇は彼の唇によって塞がれたのだ。


 よく映画やドラマのワンシーンではこういう時、初めは驚いた顔をしている女性もやがて目を閉じて、相手の行為を受け入れる展開になるのだろう。


 だけど、私は彼の唇が離れて行くまでずっと目を開けたままだった。かなり格好悪いキスシーンだったと、自分でも思う。

 唇を離して目を開けた彼はそんな私を見て我に返ったのか、慌てて取り繕うように謝ってきた。

 謝るくらいならキスなんてしなきゃいいのにと思ったけど、私は懸命に謝る彼に「私のほうこそ、格好悪くてごめんなさい」と謝った。

 それでもオロオロしている彼に、「気にしないで」と言い残して彼の反応を待つ事なくその場を離れた。

 彼も罪悪感があったからなのか、立ち去ろうとする私を追いかけて来るどころか呼び止める事もなくて、正直ホッとしたのだ。


 ◇◆


 自宅に着いて玄関の鍵を開けようと鞄から家の鍵を取り出した時、チリンと小さな鈴の音が聞こえた。


 あの人とお揃いで買ったキーホルダーに付いている小さな鈴の音が、まるでおかえりと出迎えてくれた気がした。


「ただいま」

「おかえりー! 遅かったじゃん」


 帰宅してリビングに入ると、ソファーで珈琲を飲みながらファッション雑誌を読んでいる希がいた。


「うん。今日は1日遊ぼうって感じだったからね。これ、お土産」

「おぉ! チョコクランチ! ありがと、お姉ちゃん。今日はキッシーとTDL行ってきたんだね」

「キッシーって……まぁそうだけど」

「上手くいってんだ」

「ん。お父さん達は?」

「明日早いからって、もう寝たよ」

「そうなんだ」


 私は希が読んでいた雑誌を手に取って、ソファーに体を預けた。希もようやくファッションに興味を持ちだしたのか、最近この手の雑誌をよく読んでいるのを見かける。専属コーディネーターをしていた身としては少し寂しく感じるものの、それ以上に女の子らしくなった妹を嬉しく思う。


「……ねぇ、お姉ちゃん」

「んー?」

「何かあった?」

「別に何もないよ? どうして?」

「……なんとなくね」

「へんなの。さて! 私もお風呂に入って寝ようかな」

「うん。私このまま部屋に戻るから、リビングの電気消しといてね」


 言って、希はお土産のチョコと雑誌を纏めて持ち、反対の手で飲みかけの珈琲が入ったマグカップを取って自室へ戻っていった。


 そんな希を見送った後、私も入浴の支度を済ませて脱衣所で全裸になって浴室に入る。


「……なんて顔してんのよ」


 浴室の壁にある鏡に映った自分の顔を見てそう呟き、シャワーの蛇口を捻ると勢いよく流れ落ちだしたシャワーの水が適温になったのを確認した私は、立ったまま前に進んで頭からシャワーを乱暴に浴びた。


 シャワーのお湯で濡れた髪を掻き上げる事もせずに、文字通りただ立ち尽くしてお湯を浴び続けた。

 そして一言「リセット」と呟く。

 この一連の流れは中学時代、あの事件以降卒業するまで毎日行っていた事で、シャワーのお湯を頭から浴びてその日にあった事を纏めてからお湯と共に流し落として、明日も変わらない自分である為のいわば儀式みたいなもの。

 高校に進学してからはあまりやらなくなったこの儀式だけど、自分を偽る事に疲れた時には行ってきた。


 あの人と知り合ってから色々な事があったはずなのに、不思議とこの儀式を行おうとは思わずに、辛い事があっても素直に涙を流して気持ちをリセット出来ていた。それは自分は1人ではないと、あの人が強く思わせてくれたおかげだと今になって分かった。


 そして、最近この儀式の回数が増加傾向にある。

 原因は明白だ。

 彼と付き合いだしたからに他ならない。


 誤解しないで欲しいのは、彼が悪いわけじゃないという事。

 悪いのは私なんだ。


 私の中であの人がまだ生きているのに、彼の気持ちに甘えてしまった現状に罪悪感を抱いていて、その感情を流す為の儀式となってしまっている。


 でも、今日はこの儀式では気持ちを落ち着かせる事が出来そうにない。


 私はシャワーの蛇口を最大に開放させた。

 シャワーから出て来るお湯の勢いが一気に増して、私の体と床を激しく叩き付ける音が浴室に大きな音を響かせた。


 そんな激しい滝のようなお湯の中で、私はついさっき彼の唇が触れた自分の唇に指を当てた。


「……フグッ! ヒッ……アァ! ッグッ! アァァ!!」


 お湯が激しく打ち付ける音の中に、私の情けない嗚咽が混じる。

 いつもの儀式であれば終始落ち着くまで立ったままだけど、今日はとても立っていられずに流れ落ちるお湯と一緒に崩れるようにしゃがみ込んだ私は、気が付けば肩を震わせて泣き崩れていた。


 恋人との初めてのキスだったんだ。

 嬉しいとか、幸せな気持ちを抱くはずなのに……。


 何で、私は泣いているんだろう。


 早く自分の中から消そうと努力している存在がいる。

 だけど、消そうと意識すればするほど余計に存在が大きくなって、私の胸を締め付ける。

 そんな私があの人じゃない人と唇を重ねた現実に、罪悪感や嫌悪感が思考を支配する。

 恋人とキスがしたいと思うのは、ごく自然の事だ。

 だから、彼は全く悪くない。

 だけど……これから先、キスの先を求められる時が来る。

 そう考えると、私の手が無意識に胸周りと腰回りに触れていた。


 いつか彼がこの体に触れる時がくる。

 多分、そう遠くない未来に……。


 その時の私達の姿を想像してみると、胸の真ん中にこれまで感じた事のない痛みを感じた。

 私は両手で自分の体を抱きしめるように回して、ギュッと力いっぱい両腕に力を込めた。


 私の全てを捧げれば、あの人の存在がなくなるかもしれない。

 だけど、もしそれでもいなくならなかったら……私はどうなってしまうんだろう。


 怖い……怖いよ、間宮……さん。


 あの人の顔を思い浮かべると、また大粒の涙が溢れてきて激しく降り注ぐお湯と一緒に床に流れ落ちていく。


(リセット! リセット!)


 泣きながら心の中で、何度もそう叫ぶ。

 だけど、いつもの呪文は今夜は力を貸してくれない。


 今夜は涙が枯れるまで泣き尽くすしかないと諦めた私は、浴室の床に蹲って――ただ、ただ、泣いた。


 ◇◆


「バカだよ……お姉ちゃん」


 閉ざされた脱衣所のドアに凭れかかっていた少女はそう呟いて、空になったマグカップを流し台に置いて、再び瑞樹の隣にある部屋のドアを静かに閉めた。

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