第55話 ファーストキス

 それから俺達の交際は益々絶好調な日々を送っていた。


 お互い忙しい生活ではあったけど、可能な限り時間を合わせて会っていた。それだけでキツイ練習にも耐える力を彼女から貰って、充実した大学生活を過ごせていた。


 そんなある日、丸1日休みを合わせる事が出来た俺達は、以前から彼女が行きたがっていたテーマパークへ出掛ける事になった。


 現地に到着して入場門を潜ると、そこは現実を忘れて夢の世界の住人になった気持ちにさせてくれる空間が広がっていた。

 ここを訪れた人達は皆年齢関係なく童心に帰る事が出来て、子供のようにはしゃいでいる。


 そんな客達を見て、いつも気を付けている彼女に危害を加えようとする人間は見当たらないと、俺も安心してここの世界の住人になれた。

 彼女がここへ行きたがってた理由の1つとして、そういった理由があったのかもしれない。


 とにかく今日の瑞樹さんは子供の様に無邪気にはしゃいで、いつもはしっかりとした考えをもって男の俺をたてるように振舞っていた彼女だったけど、今日ばかりは俺の腕を引いて目をキラキラさせてあちこちのアトラクションではしゃいでいた。

 その彼女の笑顔は今まで見てきた中でもダントツにキラキラと輝いていた。


 夢中で皆と同じように楽しんでいるのに、この景色に溶け込みながらも強烈な存在感を発揮していて、まるでこの世界の御姫様のように見えたのは、俺も夢の世界にどっぷりと浸かっているだけなのだろうか。


 マスコットキャラクターとはしゃぎながらハグしている彼女を見て、俺はある決意を固めた。


 瑞樹さんとの関係を進めたい。


 そんな想いを抱きながら1日中テーマパークを堪能してナイトパレードを見た後、俺達は帰宅しようと駅に向かった。


 テーマパークを出てからも、彼女は興奮気味に今日あった事を楽しそうに話す。

 現地を出てから最寄り駅まではよかったのだが、電車を乗り換える辺りから相変わらずキラキラした表情で移動している彼女を次第に目で追う連中が増え始めた。

 それでも無邪気に振舞う彼女をそんな視線から守る為に、彼女から意識を離さずにさり気なく立ち振る舞った。

 何時の間にかどうしても目立ってしまう彼女との付き合い方が、上手くなってきたように思う。


 電車の乗り継ぎ瑞樹さんの最寄り駅であるA駅に到着した。

 彼女は駐輪所へ向かって自転車を押して待っている俺の元へ戻ってきて、そこからは再び俺達は並んで歩き出した。


 瑞樹さんの家に向かう為のスロープを降りて少し歩いた所で、彼女が急に足を止めて顔を向けてきた。


「今日はここまででいいよ」


 言って立ち止まった場所は、これから住宅街へ入っていく直前にあるコンビニの前だった。

 家まで送って行く時によく利用するコンビニで、飲み物を買って話込んだりする場所でもあった。


「え、なんで? 家まで送っていくよ」

「ううん、気持ちは嬉しいんだけどね。今日は朝から1日中連れ回しちゃって岸田君を疲れさせちゃったから、早く帰って休んで欲しいの。それに寮の門限もヤバいしね」

「そんな疲れるなんて――」

「――だーめ! 私言ったよね? 頑張ってる岸田君を支えたいとは思っても、邪魔は絶対にしたくないって」

「邪魔になんてなってるわけないじゃんか!」


 そうなんだ。

 彼女との関係を進めたいと思った理由の1つに、まだ彼女から我儘を言われた事がないからだ。

 彼女は綺麗な考え方をし過ぎてるように思うのだ。

 それはきっと、あの忌まわしい過去が原因なのは、当事者であった俺には分かっていた。

 でも、その俺が彼氏として傍にいる時くらいは、もっと自分の気持ちをぶつけて欲しいと望んでいたんだ。


 俺は意を決した。


「分かったよ。瑞樹さんがそう言うのなら、今日はここで帰るよ」

「うん。そうしてくれると、私も嬉しい」


 彼女は今日何度も見せてくれた最高の笑顔で、そう答える。


「じゃあ、また明日ね。今日は本当にありがとう! すっごく楽しかった」

「うん、俺も楽しかったよ。また2人で行こうな」

「そうだね。それじゃ、帰るね。おやすみ、岸田君」


 彼女が小さく手を振って俺に背中を向けようと僅かに動きを見せた時、ずっと考えていた行動を実行に移す為に口を開いた。


「また明日な! おやすみ――し、志乃!」


 帰宅しようと向きを変えた彼女の体がピクリと反応を見せて、再び俺の方に向き直って動きを止めた。


 彼女の表情は何の前触れもなく、いきなり自分の名前を呼び捨てにされた驚きを隠せないでいる。


 そして何も発せられない状態で彼女の瞳孔が僅かに定まっていない事を確認した俺は、意を決して一気に彼女との距離を詰めた。


 俺のその行動にまた驚いた彼女の体がギュッと硬直するのが見て取れたが、俺は歩みを止める事無く彼女の目の前まで来て顔を本当にすぐ目の前まで近づけた時、彼女の息使いが微かに聞こえた気がした。


「え? ち、まっ――」


 彼女はこれから俺が何をしようとしているのか察して何かを言おうとしていたけど、俺はそんな彼女の言葉を待つ事なく右手を彼女に肩に置いて左手は彼女の手の指に自分の指を絡めて繋いで、ゆっくりと形が整っていてとても魅力的な唇に自分の唇を重ねた。


 彼女の柔らかい唇から温もりが伝わってきて、甘い香りが俺の鼻孔をくすぐり、気がおかしくなりそうな官能的は気持ちになった。


 夢にまで見た志乃との初めてのキス。

 恐らく志乃は目を閉じる事なく硬直しているだろう。

 それはそうだ。

 一方的にアイコンタクトもなく突然唇を奪ったのだから、当然だろう。

 眼前に見える俺をどう思っているだろうか。

 怖いと思われただろうか、それとも少しでも嬉しいと思ってくれただろうか。

 恐らく前者だと思うけど、俺にだって理由はあるんだ。

 それに、恋人とキスしたいと思う事が悪い事ではないはずだ。


 さっき、彼女との関係を進めたい理由に気を遣わないで我儘を言って欲しいからとか言ってたけど、こうして唇を重ねて思う。

 綺麗事を言っているのは自分の方だったと。


 俺は単純に恋人である瑞樹志乃に触れたかっただけなのだ。

 キスだけでなく、彼女の全てに触れたい。彼女の全てを手に入れたい。


 俺は今、1人の男としての願望を伝えようと重ねている唇に想いを込めた。

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