第54話 手作り弁当

 あの時、仲直りをした日から、瑞樹さんの行動に変化があった。


 電話にちゃんと出てくれるようになったし、出れなくても後で必ずかけ直してきてくれる。

 トークアプリのメッセージもちゃんとレスが返ってくるし、彼女の方から特に用事がなくても送ってくれるようになったのだ。


 付き合っているのなら当たり前だと思われるかもしれないが、彼女の場合はそれが当てはまらない事が多かったと思う。


 女友達とは普通に連絡を取り合っているらしいのだが、男友達には全くと言っていい程、自分から何かをするなんて事はないと話していたからだ。ただし、その男友達の中に間宮さんは含まれていないのは仕方がないだろう。


 だから瑞樹さんの行動の変化は、彼氏の特権のようでとても嬉しかった。

 付き合ってから色々とあったけど、ようやく俺達はスタートラインに立てた気がしたんだ。


 おかげで始めが肝心だというのに散漫になっていた練習にも身が入り出して、当然のように結果もついてきた。コーチ達の期待を取り戻せるのもそう遠くないと思う。


 そんな満ち足りたある日の朝。日課になっているロードワーク中にトークアプリからメッセージが届いた事を、いつもロードワークの時に聴いている音楽と共にイヤホンから知らされた。

 こんな朝早くから誰だろうと、その場で軽く足踏みしながらスマホをチェックすると送信者はいつも心のど真ん中にいる瑞樹さんからだった。


『おはよ! 今日のお昼ごはんは何も用意しないで、食堂のテラスに来て』


 これってもしかしてと、早朝から顔が赤らんだ。


 とりあえず『分かった』とだけ返信してスマホを仕舞って、再びロードワークを再開したんだけど、明らかにオーバーペースでコースを走り抜けたのは言うまでもないだろう。


 大学が始まりキャンパスに学生達の姿が集まりだした。


 大学内の寮で生活している俺はキャンパスの様子を眺めながら、身支度を整えるのが日課になっている。


 支度が整っても部屋を出ずに窓から注意深く正門辺りに視線を躍らせていると、今日は1限から講義があると言っていた彼女の姿を見つける事ができた。

 学内に入ってすぐに、何人かの男の学生に取り囲まれている。

 予想はしていた事だけど、やはり彼女は大学に入って僅かだと言うのに有名人になっていた。


 その美し過ぎる外見と、昔とは随分と変わった人当たりの良さで、大学内の男達を引き付けてしまっている。

 彼女の魅力を考えれば特に驚く事ではないけれど、やはり彼氏としてはとても心配だ。

 だけどヤキモチは妬いているんだけど、以前のようにみっともない行動に移さないのは、きっと彼女を身近に感じる事が出来て信じれるようになったからだろう。


 彼女の話によれば、入学した日から連日各サークルの勧誘や個人的にも色々なアプローチを受けているらしいのだ。

 だから今だって囲まれている彼女を見ると落ち着かなくなってしまうのは仕方がないと思う。

 彼女が寮の方に視線を向けた。

 そして彼女が俺と目が合うと、笑顔で小さく俺に向かって手を振ってくれたのだ。


 ――もう、本当に溶けてしまいそうだ。


 彼女は講義で、俺は朝から練習だ。

 勿論、変わらず集中して練習に挑んだつもりだったんだけど、今日はどうしてもランチの事が気になって仕方が無かった。


 ようやく午前の練習が終わった俺は大急ぎでシャワーを浴びて、大学のジャージを羽織って食堂に向かった。


 食堂に到着すると、オープンテラスの席に彼女が座っていた。

 朝と同様に2人の男達に囲まれていて、正直ムッときた俺は足早に彼女が座っている席に近付こうとした時だった。


「悪いんですけど、待ち合わせをしているので」

「待ち合わせ? もしかして彼氏とか? そんなわけないよね」

「彼氏ですけど、私に彼氏がいたら変ですか?」

「えぇ!? 瑞樹ちゃんって彼氏いたの!?」


 取り囲んでいる男達から驚きの声があがると同時に、周囲の席にいた男達も絶望に似た声があがった。


(やっぱり気のせいじゃなかったか)


 テラスに近付いて彼女の姿を確認した時から気になっていた。彼女を気にしているのは、囲んでいる男達だけではない事を。

 彼女のテーブルにいる周囲の人間も一緒にいる相手と話をしているように見えるが、チラチラと彼女に視線を送っていたんだ。


 改めて思う。

 俺はとんでもない人を恋人にしたのだという事を。

 高校を卒業して気持ちを切り替える為にと、綺麗なダークブラウンのロングヘアをセミロングにまで切った事で、可愛いという印象から綺麗だという印象に変わった事もあり、大学が始まってすぐに彼女の事が同じ1回生の間だけではなく、上級生にまで瞬く間にとんでもない美人がいると噂が広まったのだ。


 その事を改めて実感されられた俺は、こういう展開になってしまうと彼女に近付くのを戸惑ってしまうのだ。


 俺がどう思われても構わないんだけど、瑞樹さんの彼氏が俺だと知られて周囲から「釣り合ってない」だとか「趣味が悪い」だとか彼女が馬鹿にされるのだけは我慢ならないからだ。


(……どうする? 俺)


 瑞樹さんは怒るかもしれないけど、このまま知らん顔して立ち去った方が彼女の為になるんじゃないだろうか……。


「あっ! 岸田君!」


 そんなマイナスだらけの脳内会議を行って足が前に進まなくて立ち尽くしていた俺に、瑞樹さんが声をかけ手を振った。その瞬間、さっきまでの脳内会議が無駄だったと溜息が漏れてしまう程に、周囲の視線が一斉に俺に集まってしまった。


 こうなってしまったら知らん顔など出来るはずもなく、俺は覚悟を決めて瑞樹さんが待っているテーブルに歩み寄った。


「ごめん、待たせた?」

「ううん、大丈夫。練習お疲れ様」


 軽く挨拶を交わして、俺は彼女の向かい側の席に着いた。


「あの……なにか?」


 唖然とした様子で立ち尽くしている彼女を囲んでいた男達が、目を丸くして俺に視線を向けている。


(どうせ、こんな奴のどこがいいのとか言うつもりなんだろ?)


「い、いや、別に……なぁ」

「あ、あぁ」


 男達は歯切れの悪い返事をして、彼女に「またね」とだけ言い残して席を去ってしまった。てっきり罵倒の1つや2つ飛んでくるものだと思っていた俺は肩透かしをくらって首を傾げた。

 だけど、男達は立ち去ったが周囲の視線はまだこちらに集まったままだ。


「ねぇ、あの人って水泳の特待の岸田君じゃない? 恵理子がカッコいいって騒いでた」

「ホントだ! あの子の彼氏って岸田君だったんだ」

「え? マジで!? 実は狙ってたんだけどなぁ」

「うわー! マジか!? あいつが瑞樹ちゃんの彼氏ってんなら、俺らにチャンスねーじゃん……」

「おい、今日はヤケ酒するから付き合え!」

「おう! 朝までだって付き合うぜ!」


(あ、あれ? てっきり罵倒されると覚悟してたんだけど……)


 後日マネージャーと談笑してる時に訊いた話なんだけど、どうやら俺の評判はかなりいいらしいのだ。

 中学の時の転校で瑞樹さんと別れた後、いつか再会出来た時に恥ずかしくない男になる努力はしてきたつもりだ。

 だけど雲の上の存在だった瑞樹さんを追いかけるのに必死なあまり、周りからの評価なんて気にした事がなかったんだけど、どうやら罵声を浴びる程格差が生じているわけではないらしい。


「はい、岸田君の分だよ」


 言って、瑞樹さんは可愛らしい巾着袋に入った弁当箱を手渡してきた。


「あ、ありがとう」


 どうやら彼女はそんな周囲の視線を全く気にしていないようだった。そんな視線なんて慣れているのだろうか。


「あ、あの……さ、瑞樹さん」

「ん? なに?」

「えっと、その……俺と一緒にいるとこ見られて平気?」

「……どういう意味?」


 俺は相変わらず周囲の視線を気にしながら、話を続けた。


「その、俺なんかといるとこ見られて嫌じゃないのかなって」

「え? 何で私が岸田君と一緒にいるのを嫌がるの?」

「いや、だって……さ。君は大学に入っても注目の的になる人気ぶりだろ? そんな君の彼氏が俺なんて知られたらって思って」


 あの彼女を怒らせた時から、俺はずっと自分が恥ずかしい奴だと思っていた。彼女に近付く奴は全員敵だと言わんばかりにつっかかり、ずっと手元に置いておきたい願望丸出しで世間でいう所のストーカーと大して変わらないキモイ奴だと、瑞樹さんに引け目を感じていたのだ。


「じゃあ、別れる?」

「え!?」

「私といるのが嫌なんでしょ?」

「誰もそんな事言ってないだろ!」


 彼女と一緒にいるのが嫌だって!? 有り得ないだろ、そんな事!!

 俺はただ瑞樹さんが嫌なんじゃないかって思っただけなのに!


「……同じだよ。周りの目を気にしてる時点でね」


 何も言い返せなかった。

 瑞樹さんのいう事が正論だったからだ。

 だけど、以前の彼女からは考えられない事だとも思う。

 背筋をピンと伸ばして堂々と話す彼女の後ろに、あの人の姿が見えた気がした。

 気にしないなんて、無理がある。

 今、目の前で周りの目など気にする事なく、真っ直ぐに俺を見つめている彼女があるのは、間違いなくあの人が傍にいたからなんだ。


 きっと俺はずっとあの人に嫉妬し続けるのだろう。

 だけど、それはそんな彼女を好きになった男の宿命なのだとも思うのだ。


「ごめん! さっき言った事は忘れて欲しい」

「うん、分かった。ていうか、そんな事よりお弁当の感想が早く訊きたいかな? これでも早起きして頑張ったんだよ?」


 頬杖をついて優しく微笑む彼女に、俺の心がポカポカと温まった。


 渡された弁当を開けると、彩の鮮やかな内容になっていた。

 彼女は盛り付けにも拘るタイプのようで、色の配置がとても美しく目でも楽しめる弁当になっていた。


 早速手を合わせて箸を手に取って、最初はこれだと綺麗に焼いてある卵焼きを口に運んだ。


「!! 美味い! しっかり出汁が利いてて弾力が凄いのに、そこからはとろけるような食感に変わった! え? なにこれ!? 無茶苦茶美味いんだけど!」

「ふふ、良かった。小学生の時からよく作ってたから、卵焼きには少し自信があったんだ」


 嬉しそうに微笑む彼女を見て、自分の顔が一瞬で赤くなるのを感じた。

 次に唐揚げを食べると、これもメッチャ美味かったのだけど、気になった事もあった。


「なぁ、卵焼きはともかくとして、もしかしてこのおかず全部冷凍食品使ってないんじゃないか?」

「え? そうだよ。だから頑張ったって言ったじゃん」


 この弁当に入っている全てが、本当の手作り弁当だった事を知って、俺は嬉し過ぎて胸がいっぱいになった。


「ありがとう、瑞樹さん。本当に嬉しい」

「喜んでもらえて良かった。じゃあ、私もいただきます」


 手を合わせた彼女が食べ始めるのを見て、俺も食事を再開する。


 胸がいっぱいと言ったが、食欲がなくなったわけではなく逆に増すばかりで箸が全く止まらない。

 本当に弁当に入っている全てが美味しくて、飽きなんて事はなく、気が付けばあっという間に弁当を平らげていた。


「御馳走様! あー! ホントに無茶苦茶美味かった!」

「お粗末様でした。いい食べっぷりだったねぇ」

「いや、ホントに美味かったよ、マジで!」

「そう言って貰えたら、頑張った甲斐があったね」


 2人は食べ終えた弁当箱を、それぞれ丁寧に巾着袋に仕舞った。


「弁当箱は洗って明日返すよ」

「え? そんな事したら、明日のお弁当持ってこれなくなるよ?」

「え!? 明日も作ってくれんの!?」

「岸田君が迷惑じゃなかったら……だけどね」


 俺は嬉しさのあまり、勢いよく席を立って「そんな事あるわけない!」と思わず力説してしまった。

 彼女は目を大きく見開いた後、クスクスと笑みを零す。


「毎日は約束出来ないけど、出来る限り作ってあげる」


 彼女はこの大学で思っていた以上にやらないといけない事が多かったらしく、忙しい時は作れないかもしれないけど、なるべく作ってくれると言ってくれた。


 中学の時、彼女に弁当を作ってもらった事がある。

 その時も勿論嬉しかったんだけど、緊張で味を楽しむ事ができなかった。

 でも今は心地よい胸の高鳴りだけ感じる事ができて、幸せを噛み締める程には落ち着けている。

 きっと彼女が作ってくれた弁当の味を堪能して、あまりの美味さに感動した自分を、中学生の俺に教えてやったらきっと卒倒するだろう。


「それじゃ弁当のお礼に奢るからさ。今度の休みにどっか遊びに行こうよ」

「うん! どこに連れて行ってくれるの?」

「この前できた、あそこに行こうよ――」


 幸せだ。本当に幸せだ。

 これ以上、何かを望めばバチが当たると本気で想える程に、俺は幸せだった。

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