第53話 間宮と早紀の分岐点

「よっ! おかえり、良ちゃん」

「……早紀姉か」


 無事に実家に帰ってきた間宮は家族と夕食を済ませると、縁側に腰を下ろして手入れの行き届いた庭をぼんやりと眺めていた。

 そこへ間宮が戻ってきていると聞きつけた早紀が、仕事が終わった足で訪れたのだ。


「もう酒は解禁になってんの?」

「あぁ、一応医者には程々にならOKやって言われてる」


「ほなっ!」と早紀は嬉しそうに持っていた缶ビールを間宮に手渡した。


「そんじゃ、全快祝いって事でかんぱーい!」

「まだ全快ちゃうけど、ありがとう」


 2人は缶を突き合わせて、喉を鳴らしてビールを流し込んだ。


「にしても、おっちゃんから良ちゃんが刺されて入院したって聞かされた時は、ホンマにビックリしたわ」

「……早紀姉にも心配かけてもうたな」

「ホンマやで! んで? なにがあったん? おっちゃんに訊いてもその辺は話したがらんくてなぁ」


 間宮もあまり話したくはなかったのだが、無用な心配をかけてしまった罪意識から瑞樹の中学時代の事をやんわりと隠しつつ、平田に刺されるまでの経緯を話して聞かせた。


「そっか。志乃ちゃんを助ける為……か」

「……うん」

「まぁ、あんだけアホみたいに可愛いと、色んな事があるんやろうなぁ」


 言うと、早紀は「よっこいしょ」と立ち上がって庭に出て、煙草に火をつけた。煙草の煙を口から吐きだしながら缶ビールを煽る姿が何故か格好良く見える。


「それで? 良ちゃんが沈んでるんは、その志乃ちゃんが原因ってわけやな」

「は? 誰もそんなん言うてないやろ」

「どうせアンタの事やから、若い女の子を遠恋で縛り付けるのは可哀想とか思ったんやろ」


 早紀の推理に間宮は手に持っていた缶を、思わず握りつぶしてしまった。


「……図星やん」


 間宮は歪に変形した缶に入っているビールを一気に飲み干した。


「あいつにはもう付き合ってる奴がおるし、その彼氏に瑞樹を頼むって言うたんも、俺や」

「ハッ! あほちゃうか」

「そんなん分かってるわ! せやけど、あの時はこれがベストやって思ってたんやから、しゃーないやろ」


 早紀も間宮に負けじとビールを一気に飲み干して、縁側に置いてあった次の缶のプルタブをプシュッという音と共に勢いよく開けた。


「あんまり飲むとしんどくなるで。明日も早いんやろ?」

「はっは! こんな時まで他人の心配かいな。根性無しに心配なんかされたないわ!」


 早紀の言葉の語尾が荒くなっていく。

 こんな早紀は記憶にないと目を見開く間宮だったが、そういえば昔1度だけ見た事があると思いだした。


「アンタは大切な人を助ける為なら、迷いなく体を投げ出してでも助けるくせに、こういう所は昔から変わってないな!」

「どういう意味やねん」

「ウチが高3の時に話に決まってるやろ!」


 ◇◆


「え? 卒業したら海外に!?」

「……うん。パン職人として納得がいくまで帰国せん覚悟や」


 早紀が高校3年の夏休み。

 周りの同級生達は受験の為に、夏期講習に参加したりバタバタと受験勉強に励んでいる中、早紀は1つ年下で幼馴染の間宮に卒業後の進路について話をした。


 小さい頃から実家のパン屋を継いで職人になるのが早紀の目標なのは、小さい頃から何度も聞かされていて知ってはいた。

 だが、海外に修行に行こうとする程に本気だったのはこの時初めて知ったのだ。


 間宮は小さい頃から、早紀の背中を見て育ってきた。

 その頃から間宮にとって、早紀は憧れの存在だったのだ。

 そんな憧れの気持ちが恋心に変わるのに、思春期の間宮にとって大して時間はかからなかった。


 実はこの場は、間宮の方から早紀を呼び出していたのだ。

 早紀に抱いていた自分の気持ちを伝える為に。


 だが自分の気持ち――即ち早紀の事が好きだと伝える前に、彼女から卒業後の進路について話されてしまって『海外』という単語に思考が停止してしまい「そうか」と返すのが精一杯になってしまった。


「良ちゃんはどう思う? ウチが海外に行く事」

「ど、どうって言われても……」


 大きな公園に呼び出した為、やたらと蝉の鳴き声が耳に響く。


 今日こそ気持ちを伝えるんだと意気揚々とここへ向かってきたのだが、早紀の話ですっかり気持ちが萎んでしまった。


「親には成績も悪くないんやから、大学を卒業してからでもええんちゃうかって言われてるんやけどね」

「そう……なんや」

「でも……ウチは中途半端なんは嫌いやし、大学出てからって何か保険かけてるみたいでなぁ」


 何故、こんな大切な事に俺の意見を求めるのかと、間宮は行って欲しくないという本音と、好きな女の夢を叶える為に格好つけて背中を押してやとうとする見栄がグチャグチャになった。


 もし、もしもの話だが、ここで行くなと言えば、これからも一緒にいてくれるのだろうかと考える。

 少なくともこの話を聞かされる前に告白だけでもしていれば、恐らくこの相談事は自分の元へはこなかっただろうと、間宮は自分の手際の悪さを呪った。


「早紀姉らしいな。お、俺は早紀姉がしたい事を応援するで」

「……ふーん」


 当たり障りない返事をしたつもりだったが、間宮の返答に早紀から明らかに不満の色が滲み出ていた。


「あー……ごめん。ちょっと用事思いだしたから、帰るわ」

「う、うん」

「そんじゃね」


 そう告げた少女は振り返る事なく、立ち尽くす間宮の前から姿を消して、1人になった間宮の周りだけ重苦しい空気が漂った。


 翌日から早紀の様子が余所余所しくなった。家が近所で同じ学校に通っている事もあって、いつも用事がない限り一緒に登校していたのだが、あの日を境に待ち合わせ場所に早紀が現れなくなった。いつも前日の夜に友達と待ち合わせてるとか、早く行かないといけないからとか、ずっと一緒に登校していた間宮にはそれのどれもが嘘だと分かっていた。


 どうすればよかったのかと、間宮はずっと自問自答を繰り返すばかりでハッキリとした解が結局出ないまま、あっという間に三学期が始まった。


 受験生である3年生は三学期に入ると自由登校になり、最上級生がいなくなった校舎は何だか殺伐として見えた。

 とはいえ、全くいなくなったわけではなく、1部の3年生は学校に登校していた。

 推薦が決まっている者や、専門学校、進学しない者が登校しているのだ。自由登校だから受験生ではなくても休む事が出来るのにと疎らに見える3年生を横目で見ていると、その中に早紀の姿があった。

 あの中に早紀がいると言う事は、進学ではなく海外へ行く事を決めたのは明白で、その事実が今更に間宮の心に痛みを残した。


 3学期が始まって2週間が過ぎた頃、突然間宮の携帯にメールが届く。差出人を確認すると、あの公園で会った少ししてから音信不通になっていた早紀からのメールだった。


 メールには放課後に屋上に来て欲しいというもので、間宮は『わかった』とだけ返信して携帯をポケットに仕舞った。

 その日は放課後が待ち遠しくて、時間の経過スピードが体感的に3倍の長さに感じられて、間宮はまだかまだかと不自然な程に腕時計に視線を落としてばかりだった。


 待ちに待った放課後になり、ホームルームの終了と共に教室を飛び出た間宮は一目散に屋上へ向かった。

 その際、自分の名前が呼ばれた気がした間宮だったが、これを確信犯的に気付かないフリをして足を止める事なく走り抜けた。


 屋上のドア前に辿り着いた間宮は乱れた呼吸を整えつつ、重い扉をゆっくりと開いた先には、すでに来ていた早紀の姿があった。


 久しぶりに見る早紀は少し髪が伸びていて、その髪が冷たい風になびく姿が、間宮には少し大人びて見えて何だか悔しい気持ちを抱く。


「よっ! 久しぶり、良ちゃん」

「う、うん。久しぶりやな」

「自由登校になっても毎日学校に来てたんやけど、向こうに行く準備やら色々あって明日から卒業式の日まで学校に来れんくなってな。だからちょっと早いけど、お別れの挨拶しとこうと思って」


 早紀から経緯を聞いた間宮は、やはり予想通り海外に行く事にしたのだと改めて知った。


 別れの挨拶と言われて何も言えなくなって俯いた間宮の視界に、早紀の右手だけが入ったかと思うと……。


「色々と悩んだんやけど……な。やっぱり大学には行かんと卒業したらすぐに向こうに行く事にしたわ」

「…………そうか」

「うん。今までありがとうな、良ちゃん。楽しかったわ」


 差し出された早紀の手を握ってしまうと、別れが完全に確定してしまう。本当はあの公園の時も、勿論今だって向こうになんて行って欲しくないと思っている間宮にとって、差し出された右手が最終勧告のように思えた。

 だが、いくら好きな女の子だとはいえ、自分の我儘でずっと抱いていた目標の邪魔をしていいわけがない。それに早紀自身が進学を選択しなかった現実が、彼女の自分への気持ちの答えなんだと察した。


(……だから)


「うん、俺の方こそありがとう。楽しかったし、嬉しかった。向こうに行っても頑張ってな、早紀姉」

「……うん、ありがと。良ちゃんも元気で」


 2人はそっと握手を交わす。

 この小さくて柔らかい手が、小さい頃から繋いでいた早紀の手が、自分の元から遠のいていく。

 間宮は涙が零れ落ちそうになるのを、必死に堪えた。

 この場で泣いてしまったらきっと早紀に余計な心配をかけてしまい、折角の門出にケチがついてしまう事を恐れたからだ。


 握手を交わした早紀は、寂しそうな何とも言えない笑みを残して屋上から離れていく。

 聞こえていた早紀が階段を降りる足音が段々と小さくなって、やがて完全に聞こえなくなった途端、堪えていた大量の涙が零れ落ちた。

 1度流してしまった涙は完全に決壊を起こして、自分の意志ではどうしようもない程に止まる事なく流れ続けた。

 気持ちを伝えられなかった後悔と、早紀の未来の邪魔をせずに済んだ安堵が複雑に交じり合い、言葉では表現するのが不可能な感情が間宮の心を支配した。


 間宮は涙が枯れるまで泣き尽くして、早紀の無事を誰もいない屋上から、心から祈るのだった。


 ◇◆


「今やから言うけど、あの時強引にでも無理矢理でもええから、行くな!って俺の傍におれって言って欲しかったんやで」


 そんな事を聞かされた間宮の眉がピクリと動く。


「……何で今更そんな事言うねん」

「ウチも死ぬまで、この話は良ちゃんにするつもりなかったんやけどなぁ」

「じゃあ、なんで?」

「良ちゃんがあの時の辛さを、志乃ちゃんに味あわせようとしてるからや」

「……そんな事――」

「――ある! 絶対にある!」


 間宮はそう言い切る早紀の姿を見て、当時の気持ちを思い出した。


「いや、あの時の俺らとは違うやろ! 瑞樹は俺の事を兄貴的な意味で懐いてるだけで、男として見てないねんって!」

「そんなん誰が言うたんや? 志乃ちゃん本人にそう言われたんか!?」

「……誰かに言われたわけやないけど、あの子は俺に対してあまりにも無警戒やったんや! 信じられるか!? 男の1人暮らしの部屋にあがって、シャワー浴びるんやぞ!?」


 親や兄妹のような無警戒さが、男としての尊厳を失う事になったんだと。だから自分は瑞樹にとって甘えられて頼りになる兄貴でいようと決めたんだと早紀に言い切ると、早紀は深い溜息をついた後、再び煙草に火をつけて煙を空に向かって吐いた。


「なに自惚れとんねん、あほ!」

「は!?」

「アンタに志乃ちゃんの何が分かんねん! 志乃ちゃんにそう言われたんなら兎も角、それはアンタの勝手な思い込みやろ!」

「いや、だって……」


 自分の思い込みだと言われた事を否定しようとした間宮の両頬に、早紀の両手がパチンと音と共に被さった。


「あんな一生懸命頑張ってた女の子の気持ちくらい、スマートに酌まれへんのか!? 29年間も男やってきたんやろ! 情けない!」

「…………」

「あんまりウチを幻滅させんといてや」


 何も言い返す事が出来なくなった間宮に「……はぁ」と溜息をついた早紀は、挟んでいた手を間宮の顔から離した。


「ウチは帰るから、一晩よく考えてみるんやな。おやすみ」


 言って、早紀は空き缶を拾い上げると、そのまま庭から外に出て帰宅していった。


 早紀の背中を見送った間宮は、よく晴れた夜空を見上げる。


「瑞樹の本当に気持ち……か」


 翌朝、眠い目を擦りながら自室を出た間宮の目の下にうっすらと隈が出来ていた。結局殆ど眠る事が出来なかったのだ。


 頭が全然目を覚ましてくれない状態で1階に降りると、リビングの方から甘い香りがして間宮の鼻孔を刺激した。

 あの香りには覚えがあり、自然と歩く足の動きが早くなる。


 リビングのドアを開けると、テーブルの上に予想していた物が皿に乗せられていた。


「あら、おはよう良介。今朝はえらい早いやんか」

「あ、うん、おはよ。なぁ、このパンって」

「ん? それ今朝早くに早紀ちゃんが届けてくれたんよ」


 やはりそうだと間宮の口角が上がった。

 この香りは紛れもなく早紀が焼いた、大好物のメロンパンだった。

 その甘い香りを近くで嗅いだ瞬間、間宮の腹の虫が大きな音で鳴きだした。


「これって食ってええんやんな?」

「ええよ。珈琲淹れるからちょっと待っとき」


 言われて、間宮は逸る気持ちを抑えながらソファーに身を沈めた。


 やがて珈琲が入ったマグカップを運んできた涼子が、早紀から伝言を預かっていると話し出した。


『まだ間に合う! だから諦めんな!』


 早紀からそう伝えるように頼まれたと話すと、マグカップを間宮の前に置いた。


(――早紀姉)


「なぁ、これ縁側で食べたいんやけど、ええか?」

「アンタあそこで食べるの好きやなぁ。別にええけど」


 間宮はコクリと頷いてパンが乗った皿と、淹れたての珈琲が入ったマグカップを手に持って、縁側に移動した。


 縁側に腰を下ろして綺麗な芝生とよく晴れた青空を眺めながら、珈琲を一口飲んで息を吐く。そして、早速早紀が届けてくれたメロンパンを一口かじった。


 サックサクのビスケット生地と、しっとりとしたパン生地が間宮の歯を喜ばせて、次にメロンパンの甘さとバターの香りが間宮の舌と鼻を喜ばせた。


 その甘さが早紀の優しさだと感じて、鼻を啜りながらメロンパンを噛み締めると、2口目からのパンの味に何だかしょっぱい味が混ざっていた。


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