第52話 これまでの私と、これからの私

 W駅のホームで2人並んで電車を待っている。


 岸田は隣にチラチラと視線を送るが、送り先である瑞樹は全く取り合おうとせずに、正面を睨む様に見ているだけだった。


 やがてホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ2人だったが、電車内でも瑞樹は無言を貫いたまま、3駅離れたK大の最寄り駅に着く。


「降りないのか? 午後から講義があるんだよな?」

「……今日はもう大学に行く気なくなった」


 元々の予定では間宮を見送った後、午後から講義を受ける予定であったが、さっきの岸田の態度に腹を立てたのか瑞樹はもう帰ると言い出した。


「それじゃ、家まで送るよ」

「いい――いらない。岸田君はここでしょ? 早く降りないと――きゃっ」


 送るという岸田の言葉に目も合わせる事なく断った瑞樹の手が電車のドアが閉まり始める寸前に掴まれたかと思うと、そのまま体を強い力で引っ張られて気が付けば電車を降りてホームに立っていた。


「ち、ちょっと! 何するのよ! 今日は大学に行かないって言ったよね!」


 怒った角度に持ち上がった眉間に皺を寄せて、強引に掴まれた手を振り解く。

 今度は一切目を逸らさずに睨む瑞樹を見て、「あ! ご、ごめん!」と謝ったのは岸田だった。


 掴まれた手をギュッと握り溜息をつく瑞樹の表情に、疲れが見て取れる。


 岸田はそんな瑞樹の様子を見て、会えたら話したかった事や松崎にとった態度の言い訳などが頭のなかでグチャグチャに入り交じり、黙ったまま俯いた。


「……どうして、あんな所にいたの?」

「え?」

「今日は1日練習だって言ってたよね」


 ケンカ別れをした日から1日に最低でも1度は岸田から電話がかかってきていたのだが、瑞樹は1度も電話にでる事なくトークアプリのメッセージに対しても既読は付けども、返信は数回に1度だけ素っ気ない返事をするだけだった。

 その中で今日の予定を訊かれた時、瑞樹は午前中は家で休んで午後から講義を受けると返信すると、岸田は1日練習だから大学にいるのなら話さないかとメッセージを送っていたのだ。


「メッセージはちゃんと読んでくれてたんだな、よかった」

「答えになってないと思うんだけど」

「……だな。練習は急に午前中で切り上げる事になったんだ。だから瑞樹さんの講義が終わる時間まであの辺りのショップを巡ってたんだ」


 言って、岸田は手に持っていた複数のアパレル関係の袋を見せた。

 瑞樹はその紙袋を見て、ショッピングデートを切り上げた事を思い出す。


「なぁ……俺の話を少しでいいから聞いてくれないかな」

「……わかった。駅前の公園にいこ」


 駅の裏手に大学院の最寄り駅らしく、K大生がよく利用している落ち着いた大きな公園がある。

 駅を出た2人は公園に向かい、噴水の周りに設置されているベンチに腰を下ろした瑞樹をおいて、岸田はすぐ近くの自販機に走ってよく買ってくるいつものミルクティー買ってベンチで待っている瑞樹に手渡した。

「ありがとう」とミルクティーを受け取った瑞樹は変に遠回せず、すぐに本題にはいる。


「それで? 聞いて欲しい話って?」

「……うん」


 言うと、岸田は気持ちを落ち着かせようと、買ってきた缶珈琲を少しだけ口に含んで息を吐く。


「間宮さん、今日退院したんだ」

「……うん」

「何で嘘までついて見送りに行ったんだ?」

「岸田君には悪いと思ったんだけど、間宮さんの怪我は私を助ける為に負った傷だし……ね。ごめん……」

「間宮さんへの気持ちは理解してるつもりだから、謝らなくていいんだけど……一言欲しかったかな」

「そう……だよね、ごめん。でも――駅まで行ったんだけど、会わなかった」

「え? どうして?」

「……ううん、違う。会えなかった」


 瑞樹は無意識にブラウスの胸元を苦しそうに、ギュッと握りしめる。


 あの時、物陰に隠れて松崎と握手を交わす間宮を見て、胸の奥が異様に震えだして、呼吸をするのも辛い気持ちに苛まれた。

 今の自分の立場を考えたら、この気持ちを誰にも話すべきではないと、喉先まで出かかった言葉を飲み込む。

 特に、今目の前にいる恋人である岸田に話したりしてはいけないと、いくら今の自分の気持ちを理解してくれているとしても、話してしまえば無意味に傷つけてしまうだけだから……。


「……俺と付き合いだしたのが原因……だよな」

「…………」


 違うと否定したかったが、瑞樹の口からは何も言葉が出てこない。何も言わなかったら肯定しているのと同じだと分かっているのに……。


「ごめんな。卑怯なタイミングだったのは自覚してる。だけどあの時を逃したら、俺には絶対にチャンスがないと思ったから!」

「……いいよ。それも分かってて、私も返事したんだし。ただ、やっぱり……ね」

「……うん」


 岸田は瑞樹が言わんとする事を理解しているようだった。

 自ら最後の1本に感じていた糸を切り落とす行為をしたのだと自覚していたからこそ、間宮の前に姿を見せる事が出来なかったのだから。

 だが、新幹線が走り出して自分と間宮の物理的な距離が離れていく度に寂しさと苛立ちが募り、松崎に対しての態度という大義名分を武器にただ八つ当たりしていた事を自覚している瑞樹には、岸田を責める権利などない。


「……ごめんね」


 瑞樹のその一言には様々な意味が含まれている事を、岸田は気付いているのだろうか。


「俺の方こそ……ごめん」

「ううん、岸田君が謝る事なんてないんだよ」

「――あるんだよ。告白のタイミングの事もそうだけど、この前のデートの事も謝りたかった……。だから話を聞いてくれないか?」


(ずっとメッセージでそう言ってたね。既読だけ付けて何も返信しなかったんだから、不安にさせてしまった所に男の人と一緒にいたんだから、怒らせてしまうのも当然だよね)


「うん、聞かせて」


 岸田は少し何かに怯えているような顔つきで、重い口を開いてあの日から伝えたい事を話し始めた。


「やっと念願だった瑞樹さんが俺の彼女になってくれた途端さ、君を誰にも盗られたくないっていう気持ちが強くなり過ぎて、周りの男達が全員隙を伺ってるんじゃないかって錯覚してしまって……不安だったんだ」


 見栄も外聞の捨てて、岸田が裸の言葉を綴った時、瑞樹は岸田の目の下に隈を作っているのに気付いた。

 その隈が、あの日からどれだけ悩ませてしまったのかを知る。


 岸田の言い分は随分と飛躍した内容であったが、下手な言い訳をするのではなく正直な気持ちを瑞樹に打ち明けた。


「器の小さい男で――ごめん!」

「……ううん。私の方こそ、間宮さんへの気持ちを容認してくれているからって、岸田君に甘えてた……ごめんなさい」


 手に持っていたミルクティーの缶をキュッと握りしめる瑞樹からは、確かにあった刺々しい雰囲気が消えていた。


「そっか。岸田君は凄くヤキモチ妬きなんだね」

「……そうみたいだ。これからは気も付ける様にするよ」

「ううん。私はもう岸田君の彼女なわけだし、これからは心配かけないように気を付けるよ――ありがとう」

「ん? どうして瑞樹さんがお礼なんて言うの?」

「岸田君の事を1つ教えてくれたからだよ」


 言って微笑む瑞樹に、岸田は思わず息をのんだ。


 瑞樹は「だからね」とベンチから立ち上がり、持っていたミルクティーの缶を岸田に差し出した。


「え? なに?」

「岸田君の事を教えてくれたお返しに、私の事も1つ教えるね」

「う、うん」

「岸田君って女の子には、とりあえずミルクティーを飲ませておけばいいって思ってるでしょ」


 言われて、岸田は黙って手渡されたミルクティーの缶に視線を落とした。


「残念でした! 私は珈琲党なんです。しかもブラック派ね」

「え? えぇ!? どおりで今まであんまり飲んでくれなかったわけだ!」


 手渡された缶の意味を理解して、ホッと安堵の息を吐く岸田の手をキュッと掴んだ瑞樹が駅の方に向かって軽く手を引く。


「ねぇ! 今日この後なにもないのなら、この前出来なかった買い物に付き合ってくれない?」

「う、うん! 行こう!」


 フフっと笑みを零す瑞樹に、ようやく岸田にも笑顔が戻ったのだった。


 ◇◆


 私は今まで甘えていたんだと思う。

 今まで傍にいてくれたのが間宮さんだったから、理解して貰おうと意識しなくても大抵の事は伝わっていたんだ。

 それは決して特別な事じゃないと思ってたんだけど、それは酷く傲慢な考え方だった。

 本来であれば知って欲しい人に伝える事が必要で、時間をかけて分かり合っていくものなんだね。


 これから努力していこう。

 彼の事を知っていこう。

 私の事を知って貰おう。

 そうすれば、あの人の気持ちが小さくなって、何時かはドキドキできるようになるはずだから。

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