第30話 LOVE SONG

 間宮達が卒業旅行から帰ってきた翌日の夜。間宮の心の真ん中を瑞樹と二分している存在である優希は、都内のスタジオに引き篭もり新曲の制作に取り掛かっていた。


 4月から全国ツアーを控えている優希のスケジュールは多忙を極めていたのだが、睡眠時間を可能な限り削って作曲活動に費やしていた。


 ツアーに使う曲は2月に発売したアルバムの収録曲から抜粋した曲を使う事になっており、この時期に無理に作曲をする必要などないのだが、優希は鬼気迫る迫力を全面に押し出してスコアを刻み込み続ける。


「これでラインはOKかな。編曲はあとでやるとして……あとは」


 そう1人スタジオで独り言ちると、優希は静かに目を閉じた。

 さっきまで激しくかき鳴らしていたギターの旋律は息を潜め、密音声の高いスタジオが文字通り静まり返った。


「お疲れ、優希」


 そんなスタジオに姿を現したのは、間宮だった。

 優希に事前に連絡をとった間宮に、その時間ならこのスタジオにいると告げていたのだ。

 優希はその際、他のスタッフに話を通して間宮がここを訪れた時にすんなりとスタジオに入れるように手配していた。


「良ちゃんもお疲れ様。なんか久しぶりだねぇ」

「ツアーの準備で優希は多忙だったからな。疲れてるみたいだけど、大丈夫か?」


 スタジオの椅子に腰をかけている優希の目の下に、隈をつくっているのに気付いた間宮が心配そうな顔を向ける。


「あっはは! ツアー前なんていつもこんなだから、慣れっこだよ」

「ならいいんだけど、素人の俺がいうのもなんだけど……無理するなよ」

「うん、ありがと! あ、それで今日はどうしたの?」

「あぁ、大した事じゃないんだけど――これ」


 言って、間宮は旅行先で買った土産を優希に差し出した。


「大阪と京都?」と受け取った土産で間宮が行ったであろう場所を言い当てる優希。


「正解! ちょっと旅行に行っててな」

「へー! いいなぁ。ん? でも良ちゃんって大阪出身じゃなかったっけ?」


 本人に直接出身地を話した事はないが、恐らく優香から聞いた事があるのだろう。


「うん。だから俺的には旅行というより帰省って感じだったんだけどな」

「……し、誰と行ったの?」

「え?……えっと」


 思わず言い淀んでしまった間宮であったが、想う所があったのか、誤魔化そうとしていた言葉を飲み込んで改めて口を開く。


「前に話した事がある瑞樹って女の子とだよ。といっても、瑞樹を含めて4人の高校生と松崎の6人でだけどな」

「なにそれ? 変な面子だねぇ。っていうか、隠さないんだ」

「――あぁ」


 そう隠す必要はないのだ。

 ――なぜなら……。


「俺は予定通り東京を離れる。瑞樹への気持ちもここへ置いていくよ」

「! ――え? それって――」

「――でも、それは――優希と一緒にアメリカへ行くという事じゃない」

「!――――な、なんで……それ」


 優希の目がこれ以上ない程に見開かれて、ワナワナと唇が震えている。


「茜に聞いた。ツアーが終わるタイミングで記者会見を開いて、活動拠点をアメリカに移すんだろ?」


 つまりロックミュージシャンとして、本場アメリカで勝負する。

 元々、初めて優希の音楽を聴いた時、日本で収まるスケールではないと感じていた間宮にとって、茜から聞いたこの話にあまり驚く事はなかった。


 驚いたのは優希が間宮に求めている事だ。

 優希は単に恋人としての関係だけではなく、文字通り人生のパートナーとして間宮を求めているのだ。

 それはつまり――


「優希は俺に全てを捨てて、一緒に向こうで暮らしたい……そう言うんだよな」

「…………うん――良ちゃんにずっと傍にいてもらいたい。その為には良ちゃんには全てを捨ててもらわないといけない。だから対価は支払うつもり」

「……対価?」

「そう! ただの恋人じゃ良ちゃんだけリスクを背負わせてしまうから、婚約者……ううん、私の人生のパートナーとして生きて欲しい。生活面は全て私が支える! 良ちゃんは私の隣にいてくれるだけでいいの!」


 優希の言っている事は聞こえはいいが、それは言ってみれば――。


「それって、俺にヒモになれって事か?」

「言ってみればそうなるのかも……ね。でもね! それは極論でね! 今の会社は辞めないといけないけど、勿論向こうで働いてくれて構わない。とにかく私は良ちゃんと向こうで一緒に生活がしたいの!」


 全てを捨てて、優希と新天地で新しい生活を送る。それが優希が間宮に求める事だった。勿論、茜が優希に同行しないわけがないから、正確には3人で向こうに移り住もうという事だ。


 優希の言い分を訊き終えて、間宮がふと分厚いガラスの向こう側に目を向けると、さっきまでいたはずのスタッフ達の姿がなくなっていて、何時の間にかスタジオには間宮と優希だけになっていた。


「皆、気を利かせてくれたんじゃないかな……」


 茜が所属する事務所でインディーズ契約をしてから、事務所がこのスタジオを提供した。

 それ以来、今日までずっと作曲もレコーディングも全てこのスタジオで行っている。

 カリスマと言われる程のトップアーティストともなれば、早々に設備や環境が整っているスタジオに移るのが当然だ。一昔前なら空気の響きを理由に、海外でレコーディングするのも珍しくなかったのだから。


 だが、優希はどれだけ有名になろうとも、未だにスタジオを移さずにこのスタジオに通い詰めているのには理由がある。


 それはここのスタッフは、どれだけ作曲に苦しもうがレコーディングのリテイクを何度も喰らって深夜まで食い込もうが、嫌な顔せずに自分事のように力を貸してくれた事だ。

 それにこの業界はスタッフの入れ替わりが激しいのが当たり前なのだが、このスタジオのスタッフは優希が出入りし始めた時からずっと変わっておらず、せいぜい女性スタッフが結婚を機に退職したり、産休で離れたりする程度で顔ぶれがいつも変わらないのも大きな理由の一つだ。


 優希はそんなスタッフ達に絶大な信頼を寄せている。

 仕事繋がりの関係というより、仲間や家族のような存在なんだと誇らし気に間宮に話して聞かせた。


 あの神楽優希に家族とまで言わせるスタッフがこの場からいなくなる……。そして優希の「気を利かせてくれた」という言葉。その意味が分からない程、間宮も馬鹿ではない。


「えっと……。まずはこれを受け取って欲しい」


 アメリカ行きの話を遮るように、間宮は徐に鞄から綺麗に包装された両手サイズの箱を優希に手渡した。


「……これは?」

「本当は14日に渡さないといけなかったんだけど、その日は旅行に行ってたから渡せなかった。まぁバレンタインのお返しだ」

「気にしなくて良かったのに――開けていい?」


 間宮が黙って頷くと、丁寧に包装を解いていく。


「わぁ、お洒落なカップだね」

「やっぱ珈琲好きなら、いいカップはいくつあってもいいと思ってな」


 間宮が渡した物はティーカップ等で有名なブランドのペアカップだった。シンプルに白を基調とした物だったが、所々にエッジを利かせたデザインで、決して派手さはないが飽きのこないカップが箱の中に2個並んでいた。


「カップが……2個……か」


 2個のカップを見た優希の表情が曇る。

 ペアカップ。本来であれば一緒に飲もうという意味合いがあるはずなのだが、間宮がペアカップを渡したのうおよそ一般的な意味ではないと、優希は察したのだ。


「……向こうで一緒に珈琲を飲めって事だよね――と」

「……うん。これが俺の返事と思ってくれていい」


 優希は瞬時に理解したのだ。

 優希の望みは間宮良介と茜の3人でアメリカに渡る事。

 この場合、間宮が優希の気持ちを受け入れたのなら、カップは3個必要なのだ。

 なのに、間宮は2個のカップを渡したのは――そういう事だ。


「……ごめん」

「いいよ……覚悟はしてたし……ね」


 元々特殊は防音が施されているこの室内に圧倒的な静寂のみが支配する中で、優希がフッと軽く息を吐く。


「よかったらフラれた原因っての教えてくれない? 私に何が足りなくて良ちゃんの彼女になれなかったのか」

「そんな偉そうな事言える立場じゃないよ。それに優希自身の原因があるわけじゃないしな――ただ」

「――ただ?」

「優希が望んでいる事が、俺には叶えてやれないってだけだ」

「…………」

「優希が本場のアメリカで勝負するってのは本当に凄いと思ってる。だけど、優希の目標と比べたら大した事ないんだけど――俺も挑戦したい事があるんだ」


 間宮は全てをリセットしてでも、ずっと憧れていた仕事に就く決心をした。その憧れを捨てて優希に着いて行くという事は、あの時、合宿の打ち上げの席で天谷の誘いを断った自分に嘘をつく事になる。間宮はそれがどうしても納得いかなかったのだ。


「私の想いは仕事に負けたって事……か」

「正直、自分でも馬鹿な奴だって思う――」

「――それだけ?」


 話を纏めに掛かろうとした間宮の話を遮って、優希は意味深な言葉を投げかけた。


「それだけ……とは?」

「言わなくちゃ分かんない?」


 分かっている。優希は瑞樹の事を言っているのは、間宮にも分かっている。

 優希は自分ではなく、間宮は瑞樹を選んだのだと思っているのだろう。


 だから間宮は首を左右に小さく振るのだ。

 そうではないと。優希と瑞樹を天秤にかけて瑞樹を選んだのではないと。


「……もしかして、瑞樹ちゃんもフッたの!?」

「フッたもなにも、瑞樹に告白されたわけじゃないし、俺が彼女の事を好きだと言ったわけじゃない」

「――それって! 私達のせいで――」

「――それは違う。俺が自分だけの為に選択した事だ。優希達は全く関係ない」


 半分本当で、半分が嘘だ。


「前から思ってた事なんだけど、言っていい?」

「なんだよ」

「良ちゃんは、さ。色々な事を難しく考えすぎだと思うよ。もっと、こう……頭で考える前に行動に出てたみたいな事があってもいいと思うんだけどな」


 優希が言いたい事は間宮にも分かった。いや、正確には頭で理解はしているだけだ。


「人を好きなるってさ。もっとシンプルでいいと思うんだよ」


 言って、優希は近くに立てかけてあったギターを手に取って構える。


「私ってね、今までインディーズ時代からラブソングって作った事なかったんだよね」


 今まで、特にメジャーに上がってからは何度もラブソングをと打診があった。別に拘りがあって作らなかったわけではなかった優希は、何度か作ろうと試みたらしい。

 だが、いざ作ってみても到底納得できる曲が出来ずに、想像で描いたラブストーリーを曲に乗せても薄っぺらく感じて、そのまま誰の耳にも届かずにスコアを処分してきたのだ。


 自分にはラブソングは無理なんだと諦めていた優希だったが、間宮と出会った事で、自分の中で納得がいく曲が書ける気がして作っていたと話す。


「できればラブラブな曲がよかったんだけど、結果が予想できちゃってたから切ない曲になっちゃったけど……ね」

「……ごめん」

「ホントだよ! 私の何が気に入らないんだか、まったく!」


 そう話すと同時に優希はギターの弦を弾きだして、切ないメロディーラインに詩を歌い始めた。


 スタジオに響くその曲は本当に切なくて、聴いている間宮の胸がギュッと締め付けられる。

 ――それは出会った時から手に入らないと分かっていても、それでも追い求めた女性の気持ちを綴った歌詞で、間宮が気付いてあげる事が出来なかった優希の気持ちそのものだった。

 彼女がどれだけの強い気持ちをもって、自分を想ってくれていたのか。その度に傷付き頬を涙で濡らしてきたのか……。


 優希のおかげで優香を過去にする事ができた。

 だが、自分は優希になにもしてあげる事が出来なかった。いっそ出来る事なら一緒にアメリカに行きたいという、優希の望みを叶えてやりたいとさえ思う。


(…………でも)


「……無理しないで」


 言って優希は最後のコードを弾き終えた。


 音楽というものは不思議なものだと、これまで意識して音楽に接してこなかった間宮にとって、今更ながらに優希が愛した音楽の凄さが身に染みる。


 優希が言った『無理しないで』という言葉が何を指して言った言葉なのか、今の間宮には分からなかった。

 だが、その言葉に込められている彼女の優しさだけは心に刻み込んだ。


「そろそろいい? フッた女の側にいつまでもいるのはマナー違反だと思うんだけど?」

「……あぁ、そうだな。わるい」


 言うと優希は静かに立ち上がり、スタジオの重厚なドアを開けると、相変わらず誰もいない機材室から、小さな機械音だけが聞こえてくる。

 その音がまるで2人のタイムリミットを告げる音に聞こえた。


「……それじゃ、アメリカに行っても頑張れよ。ずっと日本で応援してる」

「ん、ありがと。良ちゃんも新天地でお仕事頑張ってね――さよなら……元気でね」


 優希の最後の言葉を受け取った間宮が出口に向かって歩き出すと、背中から再び重厚なドアが閉まる音がした。

 間宮が背を向けた途端にスタジオに戻る早さで、優希がどれだけ我慢していたのかが分かってしまう。

 胸をギュッと締め付ける痛みで前に向かって歩き出した足を止めたい衝動に駆られる間宮であったが、ギュッと唇を噛み締めて無理矢理止めかけた足を前に進め、優希が愛した場所から姿を消した。

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