第13話 卒業旅行 act 5  ~ホントの母と恋人と~

「……なんだか初日から、大変な事になったね」

「誰のせいだよ。佐竹君の事はともかく、間宮達の事は酔っぱらった愛菜が余計な事やらせたからだろ」

「うっ……すまん」


 松崎の指摘はまさに正論で、加藤も素直に反省する姿勢を見せた。


「まぁ、間宮達の事は遅かれ早かれ決着をつけないといけない問題だったけどな」

「私達が力になってあげられる事って……ない?」

「これは2人の問題だって言ったろ? 愛菜に出来る事があるとすれば、どんな結果になっても瑞樹ちゃんの味方でいる事ぐらいだよ」


 少し沈んだ顔を見せた加藤の頭を、松崎が優しく撫でながら加藤の気持ちを酌みとった。


「……そうだね」


 頭を撫でてくれている松崎に寄り添うように体を預けた加藤が気持ち良さそうに目を細めると、突然ドアをノックする音が聞こえてきた。


 その音で体を重ねていた2人の距離が一瞬で弾けるように離れる。


「ど、どうぞ」


 松崎が慌てた声でそう返答すると、部屋のドアがゆっくりと開いた。


「失礼します」


 突然の訪問者は旅館の女将。つまり松崎の母親だった。


「あら? もしかしてお邪魔やったかしら?」


 2人の慌てた様子を見た女将が、ニヤリと意味深な笑みを向ける。


「ばっか! そんなんじゃないって!」


 そう否定する松崎であったが、明らかに泳ぐ目を見て加藤は声を殺して笑った。


「な、何笑ってんだよ」


 真っ赤な顔して否定する松崎に、もうすぐ30歳を迎えようとしている男の貫禄はなかった。

 そんな息子を見て呆れるような顔を見せた女将であったが、やがて声を殺して笑う加藤と同じようにクスクスと笑い声が漏れた。


「なんだよ! 2人共!」


 あはははは!


 女将と加藤が慌てる松崎に優しい目を向けながら笑い合うと、お可笑しさが収まるのと同時に座敷に上がり込んた女将は、加藤に向かって三つ指をつき深々とお辞儀をする。


「改めまして、貴彦の母で由梨と申します」

「え? あ、えと、こ、こちらこそはじめまして! わ、私は加藤愛菜といって……あ、あの」


 松崎の母親に深々とお辞儀をされて激しく動揺した加藤は、慌てて由梨より腰を低くしようと、畳に額を押し付けるように頭を下げて無茶苦茶な挨拶をしてしまった。


「ま、まぁ、これはご丁寧に」


 流石の女将もこれは想定外だったのか、若干引きつる顔を見せながらも笑顔を返した。

 加藤の顔がこれ以上ない程に真っ赤に染まり、今にも羞恥から大粒の涙が零れ落ちそうになっている。

 突然の恋人の母親が旅館の女将として現れて、恐縮するほど低姿勢で挨拶をされてしまったのだ。慌てた加藤がパニックに陥って醜態を晒してしまったのだから、泣きたくなるのも無理はないだろう。


「わ、私お邪魔ですよね! し、失礼します!」


 余りの居たたまれなさに、勢いよく頭を下げた加藤が一方的にこの場を去ろうと立ち上がった。


「ちょっと待てって!」


 立ち去ろうとする加藤の腕を掴んで呼び止めた松崎は、握った腕を引き寄せて自分の胸元に加藤を引き込み肩をそっと抱いた。


「紹介するよ、母さん。恋人の加藤愛菜さんだ」

「恋人……貴彦――それじゃあ、やっぱり」


 堂々と加藤の事を恋人だと紹介された女将の由梨は、目を見開き松崎の隣にいる加藤に視線を向けた。


「わ、私みたいな子供が恋人ですみません!」

「い、いえ―貴方がどうこうじゃないんよ。ただ……」


 30歳になる息子の恋人が高校生となれば不審に思わないはずがないと、加藤は申し訳なさそうに再び頭を下げたのだが、どうやら女将は息子の恋人が女子高生だから驚いたわけではないらしい。


「貴彦、アンタ……恋愛してるんか?」

「あぁ、ちゃんと本気で付き合ってる」


 松崎と女将のやり取りを聞いて、松崎のトラウマを知っている加藤には2人が何を言っているのか理解出来た。

 加藤は膝をついたままの女将と同じ目線になるように、もう1度正座して女将の正面に座る。


「あの、由梨さんが仰りたいのは、松――貴彦さんの昔の事ですか?」

「! 知ってはるの?」

「はい。貴彦さんが話してくれました。その話を聞いたうえでお付き合いさせて頂いています」

「そうですか……ありがとう――本当にありがとう」


 女将は口元を手で抑えながら、大粒の涙を零す。


「貴彦……また人を好きなれたんやなぁ。ほんまに良かった……」

「あぁ、今まで心配かけて悪かったな。母さん」


 女将の綺麗な涙を見て、どれだけ息子の心を案じていたのかが分かった加藤の目からも、思わず一筋の涙が頬を伝って落ちる。


「愛菜さん。こんな息子ではありますが、どうか貴彦の事を末永く宜しくお願いします」


 涙を流したまま女将がいくら宿泊客とはいえ、高校生の加藤に深々と頭を下げるのを見せられた加藤は、姿勢を正して両手を畳に着けた。


「こ、こちらこそ! 不束者ですが宜しくお願いします!」


 ここまでしてくれる女将に自分の気持ちを伝えようと勢いよく頭を下げた為、また畳に額を勢いよくぶつけてしまった。

 まるで婚約でもしたかのような挨拶であったが、しっかりオチを付ける辺りは、流石は加藤といったところだろう。


 ぶつけた額に手を当てて顔を真っ赤にする加藤に、女将と松崎が温かい眼差しを向けて笑う。

 羞恥に悶える加藤だったが、そんな2人の笑顔が嬉しくて一緒になって笑った。


 その後、女将は松崎やこの場にいない松崎の父親について話を始める。


 松崎の父親である松崎武まつざきたけしは婿養子で、結婚が決まった時点でこの旅館を継ぐ事が決まっていた。勿論、その事は父親も了承済みだった為、修行に励み結婚した後も仕事に精を出したという。

 その後、貴彦を授かった由梨は仕事を離れて育児に専念した。

 老舗と言われるこの旅館の跡取りとして教育が必要だった為、貴彦が生まれてからも仕事を父親に任せていたのが悪かったのだ。

 勿論、この事は2人で話し合った事で父親も家族の為に頑張ると言ってくれていた事ではあった。

 だが、旅館に入ってからずっと無理をし続けていた父親が倒れたのは、貴彦が小学生になってすぐの事だった。


 原因は過労だと診断された。

 由梨は担当医に叱られたと言う。

 貴彦のように小さい頃から英才教育を受けたわけではなく、武の家は一般的なサラリーマン家庭だった為、全くの素人から始めて引き継いだ旅館経営は想像以上に過酷で、無理をするなというのは不可能だったのだ。


 頬が痩せこけて目の下に深く隈をつくって眠る武を見て、由梨は武との離婚を決意した。


 意識が戻って体調が回復するのを待ち、由梨は離婚の話を切りだした。

 この決断は勿論、夫である武の身を案じての事。

 武は由梨の決断に激しく反対したのだが、由梨の気持ちは硬く決して武の気持ちを受け入れる事をしなかった。

 やがて武が折れて離婚の手続きにはいった際、問題になったのは貴彦の親権問題だった。

 旅館を仕切る一族は当然息子である貴彦に旅館を継がせる為に、親権を主張するように由梨に圧力をかけた。離婚する場合、余程の理由がない限り母親が親権を主張すれば、裁判は母親の味方をするものだ。

 だが、由梨は貴彦には自由な選択をさせたいと、一族の猛反対を押し切って武に親権を譲渡した。

 由梨の気持ちを酌みとった武は、貴彦を連れて旅館を出て東京に移り住んだのだ。


 その数年後、武が再婚して新しい家庭をもった貴彦だったが、1人旅館に残してきた由梨を心配するのを止める事なく、定期的に連絡をとったり客として旅館に1人で宿泊したりしてきたのだという。

 勿論、その事は再婚した義理の母親も了承済みの事だったのだが、そんな武や貴彦に不満を抱いていた義理の弟である平田が次第に家族と距離を置くようになり、ついには殆どまともに家に帰ってこなくなったのだ。


 その事に両親も困り果てていて、義理の兄として弟を更生させないといけないのは分かっていた貴彦であったが、腐っていった原因が由梨との事だった為、あの文化祭の事件までは後ろめたい気持ちがあり、強い態度にでれなかったのだと松崎が付け加えた。


 その複雑な家庭の話を聞いた加藤は、平田も苦しんできたのだと知った。だからといって、瑞樹にした事が許されるわけではないが、少しだけ平田の印象が変わったのは事実であった。


「もうこんな時間やね。話し込んでしまってごめんなさいね」


 女将が部屋の時計に目をやり謝って、部屋から出て行こうと立ち上がった。


「今日はほんまに楽しかったわ、愛菜さん。今度は貴彦と2人で遊びにおいでなさい」

「は、はい! 楽しみにしてます」


 部屋の出口まで見送った加藤に、女将は嬉しそうに笑顔を向けて仕事に戻って行った。


「お茶淹れるけど、いる?」


 部屋に戻った加藤が急須にお湯を注いでそう訊いたが、松崎は缶ビールを手に取ってプルタブを勢いよく開けた。


「いや、俺はもう少し飲むわ」


 松崎は美味そうに喉を鳴らして、ビールを流し込んだ。


「ホントに美味しそうに飲むよねぇ。私なんて由梨さんが部屋に来て緊張したから、酔いが冷めっちゃったよ」

「だからって、もう飲むなよ」

「分かってるよ! でも、お酒って不思議だね。ふわふわして気持ちよかった」


 そんな話をしていると、また部屋のドアをノックする音が聞こえて、ドアを開けると仲居が立っていた。

 他の部屋はとっくに布団を敷き終わったいたのだが、女将がこの部屋に来ると聞いていた仲居が気を利かせて、女将が仕事に戻ってくるまで部屋に布団を敷くのを待っていたらしい。


 仲居が布団を敷き始めたのをきっかけに、松崎がこの旅館の自慢の1つである展望デッキへ加藤を誘った。

 少し山の手に建っているこの旅館は、展望デッキから京都の街並みを眺める事が出来る。


「うわぁ! 街並みが超綺麗!」


 デッキへ到着した加藤が開口一番に、明かりが灯った京都の夜景に感嘆の声をあげる。

 煌びやかさなら断然東京の夜景に軍配があがるのだが、京都独特の街並みから照らし出される夜景は、不思議な魅力があった。


 京都の街並みを眺めていた加藤が、デッキの窓際にあるソファーに腰を下ろしている松崎に振り返る。


「ねぇ、由梨さんの話を聞いてて気になった事があるんだけど、訊いていい?」

「なんだよ、改まって」


「東京に引っ越さないで、この旅館を継ぐ為に修行すれば良かったって思った事ない?」

「うーん、昔は何度か考えた事はあったよ。でも、最近は全く考えなくなったな」

「……どうして?」

「京都に住み続けていたら、愛菜に出会う事なんてなかったからな」


 松崎の言葉に、胸がキュンと締め付けられる感覚が走り、頬を赤く染めた加藤の姿が夜景の灯りに映し出されて儚い美しさを生み出した。


(――綺麗だ)


 松崎はこれまで加藤の事を可愛いと思った事は何度もあったが、正直綺麗だと思った事はなかった。

 だが今日の、いや今の加藤の姿に見惚れた松崎は、無意識に目の前に立っている加藤の腰に手を回して、グッと自分の方に引き寄せる為に力を込めた。

 松崎のその行動に抵抗する意思を示す事なく、加藤は引かれるがままに松崎の元へ近づき、胸元に顔を埋める。

 やがて顔を上げた加藤と松崎の目が絡み合い、ゆっくりと顔を下げる松崎に合わせるように踵を上げた加藤の唇に、松崎の唇が触れた。


「なぁ、今考えてる事言っていい?」

「なに?」

「今回の旅行が愛菜と2人っきりだったらよかったのにって、今更思っちゃった」

「え?」

「そしたら、このまま部屋に戻って愛菜を押し倒せたのになって」


 松崎が加藤に耳元で、そう甘く呟いた。


「な!? な、なな、何言ってんの!? そ、そんな事急に言われても、こ、心の準備ができてないって! な、何言わせんのよ!」


 松崎の体に寄り添っていた加藤が慌てふためきながら。耳まで真っ赤にして抗議する。


「そ、それに、今は志乃達の事で大変なのに! って……あれ?」


 加藤はここにきて自分の異変に気付いた。

 さっきまで突然部屋を出て行った瑞樹の心配ばかりしていたはずなのに、何時の間にかその事を忘れていたのだ。


「こういう時は変に気を使わないで、いつも通りに接する方がいい」


 松崎がそう話した笑顔で、加藤は何が言いたいのか理解した。


「うん、そうだね。わかった」


 加藤は納得した様子で、再び京都の夜景に目を向ける。


 まだまだ子供だと思っていた松崎だったが、旅行特有の雰囲気からなのか、夜景の灯りに照らされた浴衣姿の加藤に色気を感じた。

 勿論加藤の事が好きだから付き合ったわけだが、心のどこかでまだ子供なんだと意図的に親目線でみるようになっていたのかもしれないと自覚した松崎。この旅行で、いや、このデッキに来て初めて加藤の事を女としてしか見れなくなっている事に気付いてしまった。


「ねぇ! 松崎さん」

「ん?」

「東京に帰ったら、もう大学生なんだし飲みに連れて行ってよ」

「あほか! 大学生っていっても一回生の時はまだ未成年じゃん」

「あ、そっか。じゃあお店は成人してからのお楽しみでいいから、松崎さんの部屋で宅飲みならいいっしょ?」

「お前は何を言ってるのか分かってんのか? この旅行と違って俺の部屋で2人きりで飲むんだぞ? そんな事したら何するか分かんねえんだぞ?」

「……だから……そ、そういう事じゃん」

「…………え?」

「知らなーい! さて、そろそろ部屋に戻るね。おやすみ松崎さん」

「え? え? お、おい! ちょっと待てよ! な、なぁ!」

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