第6話 隠そうとしていた気持ち
嬉しそうに鍋を突いている瑞樹を眺めながら、俺は缶ビールを取り出してゴクゴクと喉を鳴らした。
「プハッ!」とオッサン臭い声を上がている俺を、端を止めてジッと見ている事に気付く。
「ん? なんだ?」
「あのね? ビールってそんなに美味しいの? 前に少し口を付けた事があるんだけど、すっごく苦かったよ?」
「はは、その苦みがいいんだよ」
「えー!? イミフだよ」
「でも、珈琲を好んでブラックで飲める人は、ビールの苦みを美味く感じる人が多いって聞くんだけどなぁ」
鍋を囲んで楽しく食事をする。
至って日常的な事ではあるが、1人暮らしの俺には鍋をする機会はあまりない。1人鍋ってのが流行ってるのは知ってるけど、俺はその流行りには乗れそうにないのだ。
やっぱり鍋は複数の人間で囲んでナンボってのがあって、1人で鍋をすると無性に寂しくなってしまうからだ。
「そういえばさ、気になってたんだけど」
「んー? なぁに?」
「卒業旅行に日程ってあれで本当によかったのか?」
旅行の日程が3月14日から出発に決まった時から気になっていた事だ。何故なら瑞樹が受験するK大の日程では2月25日に入試が行われて、3月3日に合否が発表される事になっていると聞いたからだ。
この入試日は勿論問題はないのだが……。
「言いたくないんだけど、もし前期で落ちたら後期も受験するんだろ?」
「え、縁起でもない事言わないでよ。でも……もしそうなったら受けるつもりだよ?」
瑞樹はもし後期を受験する事になっても、受験日が3月12日だから問題ないと言う。確かにそうなのだが、俺的には合否が分からない状況で旅行に行っても気になって楽しめないんじゃないかと危惧していたのだ。
俺と松崎はどのみち有休を使うしかなかったからある意味いつでもよかったんだけど、他のメンバーの卒業式が行われる日取りを加味したうえに、学校の友達と行く卒業旅行の予定を加えた結果この日が最適解だったんだと瑞樹は言う。
「でも安心して! 私は後期まで引っ張るつもりなんて毛頭ないから!」と自信に満ちた目を俺に向けて言い切られてしまっては、もう何も言えずに手元にあったゼミの総仕上げプランをチェックしようとすると、瑞樹が口を尖らせて拗ねるような眼差しを向けてくる。
「なんだ?」
「ご飯の時くらい受験の事考えたくないの! 折角間宮さんと美味しいお鍋食べてるのに……」
「あ、あぁそうだよな。わるい! さっ、食べようぜ」
「うん! それでいいの!」
鍋を囲んで主にゼミのメンバーと行く卒業旅行の話題で盛り上がり、俺も久々の旅行に浮かれたみたいでいつもよりビールのピッチが早くなっていた。
俺は新潟行きの為に引継ぎ業務に追われていて、瑞樹は受験の追い込みで中々会う機会がとれなかったからか、久しぶりにゆっくりと話せた事が俺には本当に楽しい時間だったんだ。
食事が終わって一緒に片付けをしようとした瑞樹に、片付けは後でやると言って瑞樹を送る事にした。
「寒くないか?」
「うん。お鍋で温まったから気持ちいいくらいだよ」
本当に嬉しそうな顔を向けて来る瑞樹の笑顔が、チクリと痛んだ。
「これからは追い込みの大事だけど、体調管理がもっとも大事だからな」
「うん! まかせてよ! こう見えて私って健康優良児なんだよ? それに入試対策もバッチリだしね!」
「――本当に?」
「……え?」
思わず漏れた言葉に瑞樹が少し驚いた顔を見せた。
だけど、俺だって何の根拠もなく言ったわけではない。
「……どうして?」
「本心からそう言ってるのならいいんだけど、俺には無理してるように聞こえたからかな」
まかせてと言った瑞樹の顔色が、一瞬だったけど曇ったのを俺は見逃さなかった。その表情が嘘をついていると解る位には瑞樹の事を知っているという自負が俺の根拠だ。
「あっはは! 間宮さんは心配性だなぁ。無理なんてしてないってば」
「――本当に?」
俺はもう1度、さっきと同じ口調で問う。
「…………」
すると、瑞樹はさっきと同じ返答をする事なく押し黙ったまま動かなくなった。
俺はそんな彼女の前に回り込んで、俯いて顔を見せない瑞樹のサラサラと揺れる綺麗な髪に一言だけ言葉を落とす。
「――無理するな」
1つに目標に向かって自分を高める為に追い込む事は、間違ってはいない。
だけど、瑞樹がしようとしている事は、履き違えた追い込み方だと俺は思う。
気持ちを追い込むというのは、決して自分の気持ちを押し殺す事ではないのだ。
何故なら、押し殺してしまった先には決して明るいビジョンが存在する事はないんだと、経験上知っているから。
明るい先が見えなければ、不安が募って足元すら見えなくなるものだから。
瑞樹は昔のトラウマか、自分を押し殺して周囲に合わせる事で同じ事件に巻き込まれないように生きてきた女の子だ。
だけど、それは現状の平穏を求めるいるだけで、決して先を見据えた行いではないのだ。
今回の旅行についてもそうだ。
本当は俺が危惧した事を瑞樹も考えたはずだ。
だけど、染みついてしまった悪い癖から自分の事より周りを優先させてしまったのだと思う。
本当は不安なくせに強がってみせて、仲間に迷惑をかけたくないから本音を隠す。
俺にはそんな瑞樹の本音が分かるのだ。
先が見えなければ、周りの誰かを頼ればいい。
人間は決して1人では生きていけない生き物だから。
それは以前の俺にも言える事で、瑞樹や優希のおかげでそれに気付く事が出来た。
それなら、今度は俺が瑞樹にとってそんな存在でいてあげたいと思うのは、至極当然の感情だと思うのだ。
「……だって今まで散々助けられて、今日だって1日勉強に付き合ってくれた間宮さんに、これ以上迷惑かけたくないんだもん」
「迷惑なんて思ってたら、今日だってわざわざ専属講師なんて志願すると思うか?」
本当にそう思う。
いくらバレンタインのお礼とはいえ、迷惑と思っている相手に自分からそんな事を言うほど、俺は出来た人間じゃないんだから。
「……ホントはね……不安がずっとあるの。頑張ってるつもりなんだけど、全然消えてくれなくて殆ど眠れてないんだ」
瑞樹がようやく本音を話し出してくれた。
その本音は俺の想像通りで、1人ではその感情を取り除く事は無理なんだと経験で知っているものだった。
だから、俺は自信をもって瑞樹の肩に手を置いて語る事が出来る。
「大丈夫だ瑞樹! その不安は受験生全員が抱いているものだから、何も心配する事はないんだ」
「え? 皆が?」
「そうだ。どんなに猛勉強した奴だって、どんなに模試の合否判定が良かった奴だって、結局当日まで不安を拭う事なんて出来ないんだよ」
俺の話に耳を傾けてくれたみたいで、瑞樹は不安気な表情ながらも俯いていた顔を上げてくれた。
「瑞樹がどれだけ努力してきたか知ってる。その努力が必ず報われる事も俺は知ってる。だから今俺が言った事を信じて今夜はゆっくり休むんだ。いいな?」
そう促す俺の目を見ている瑞樹の目が潤んで、やがてその雫が頬伝って落ちていく。
何度瑞樹の涙を見ただろうか。
嬉しくて流す涙。悲しくて流す涙。色んな涙を見てきた気がする。
だけど今流している涙がどんな涙なのか俺には分からないけど、この涙が止まった時、また瑞樹の笑顔が見れればいいなと思う。
「ごめ……ごめんね。泣いてばかりで……ごめん。強くなるから、頑張るから……今だけ」
言って瑞樹は静かに俺に胸に顔を当てたかと思うと、その顔を擦り付けるように埋めた。
小さな肩が震えている。
こんな小さな肩に、今までどれだけの重みが伸し掛かっていたのだろう。受験の事だけじゃなく、不安や恐怖にずっと耐えてきた瑞樹に、俺は自分の姿をダブらせずにはいられなかった。
「瑞樹は十分に頑張ってるよ」
そう言っても、瑞樹は何も言わずに首を左右に振る。
俺の胸で流している涙が何だかチグハグに感じた。
俺にはこの涙は嬉しくて流す涙でも、悲しみや不安で流す涙にも思えなかった。
恐らくだけど、この涙は悔し涙ではないかと思うのだ。
そう考えると『強くなるから、頑張るから』と涙を流す意味が理解出来るから。
もう俺の前で泣かないと決めていたのではないだろうかと、悔しそうに肩を震わせて泣いている瑞樹を見て思う。
もしそうであれば、瑞樹は何かを急いでいるような気がする。
人間の成長というのは、急ぐと碌な事がないと思っている。
小さい頃からしっかりしてると言われる人間がいるが、それは生き急いだものではなく、持って生まれた基本スペックからくるものだと俺は考えている。
だが、ここ最近の瑞樹は無理矢理にでも、人間的に急成長させようとしている節があった。
自分を押し殺してきた時間が長くて、それを取り戻したい気持ちは理解出来るのだが、そんなものは受験が終わって大学生活の中で取り戻せばいいものだと思う。
早く大人になりたいと思う気持ちは俺にもあったけど、そんなのは嫌でも社会に揉まれればなってしまうものなんだから。
きっと瑞樹は感情の出し方が下手になっているのだろう。
どこまでが許されて、どこからが許されないのか、その距離を測りあぐねているんだと思う。
だから、今はこう言うべきなんだと思うんだ。
「俺の前でくらい無理なんてしないで、何でも話せばいい。俺は瑞樹の傍にいるからな」
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