第5話 間宮先生

 私、瑞樹志乃はこう見えて、国立の入試が目前に迫っている受験生だ。

 というわけで、今は受験勉強の総仕上げに取り掛かっている最中である。


(……最中なんだけど)


「おーい瑞樹! ここめっちゃイージーミスしてんぞ」

「へ? あ、あれ? おかしいな。なんでだろ」

「おいおい、しっかりしろよ。この時期にこんなミスしてるようじゃ駄目だろ」

「……うぅ、ごめんなさい」

「俺に謝られても……なぁ」


 そう。総仕上げには確かに取り掛かっているんだけど、場所が自室ではなく間宮さんのマンションだったりするのだ。


 ――どうして、こうなった?


 あれは確かバレンタインの翌日の夜に、間宮さんから電話があったんだ。

 用件はレターボックスに入れておいたバレンタインチョコのお礼だったんだけど、その後少し話し込んだんだよね。

 チョコタルト美味しかったって言って貰えて、凄く嬉しかった。

 ただ、優希さんのチョコも入っていたはずだから、そっちはどうだったんだろうとか気になったり。

 だけど、2人で会った事は内緒にしようって優希さんと約束したから、訊きたくても訊けなかったんだ。

 勿論、間宮さんの口から優希さんからも貰ったなんて聞かされるはずもなく、私は極力その事を考えないようにしていたら、話題がお返しの話になった。

 ホワイトデー期待してるからねって、冗談を言ったのを覚えてる。

 だけど、間宮さんの返答が、私の斜め上をいってたんだよね。


「ホワイトデーのお返しは勿論するつもりだけど、今の瑞樹に必要なのは贈り物じゃないよな?」

「え?」

「今月の24日って空いてるか?」

「24日って日曜だよね。空いてるっていうか、ゼミで纏められるプランの総仕上げてしてると思うけど」

「だよな! じゃあさ、その総仕上げ俺がみてやるよ」

「…………へ!?」


 ――そうそう。しかも図書館を使うのかと思ってたら、図書館だと教え辛いからって間宮さんのマンションでやる事になったんだ。

 あれだけ遊びに行きたいって言っても入れてくれなかった部屋に、こんな形でお邪魔する事になるなんて思わなかったよ。


 そんなわけで間宮さんの部屋のテーブルに向き合ってる今に至るっと。

 間宮さんに指摘された箇所の修正にペンを走らせていると、キッチンの方から香ばしい香りが漂ってきた。顔を上げて香りの元を目で辿っていくと、間宮さんがサイフォンで珈琲を淹れていた。

 ペンを止めてぼんやりと真剣な顔で珈琲を淹れている間宮さんの姿を眺めていると、私の疲れ切った心が癒されていく思いだった。

 年が明けてから殆ど勉強漬けの毎日で、ストレスと疲労がピークにきているのは自覚していた。そのうえ先日の神楽優希との遭遇は私にとって考えさせられる種を増やされてしまったのだ。

 幸い修羅場にはならずに済んだし、ライバルがどんな女性なのか知る事が出来て、間宮さんへの気持ちも再確認できた。

 だけど、それが疲労に繋がらないはずもなく、その溜まった疲労から集中力が低下してきていたのは、自分でも分かってた。


 そんなボロボロの私の心を、ただ珈琲を淹れているだけの姿を見ているだけで急激に癒されていくとか――どれだけ間宮さんの事好きなんだよ私。


「ほら! これ飲んで一息いれたら特別モードで勉強再開するぞ」

「ありがとう! ん? 特別モード?」

「休憩が終わったらすぐに分かるよ」

「教えてくれたっていいじゃん。ケチッ!」


 別にホントに怒ったわけじゃないんだけど、口を尖らせて拗ねるふりをしながら間宮さんが淹れてくれてた珈琲に口を付けた途端、私の顔の筋肉が一瞬で緩んだ。


「うわっ! 美味しい! 味もだけど香りが凄い!」

「うまかろ? とっておきの混じりっけなしのブルーマウンテンのストレート豆だからな」

「あ、それ知ってる! お父さんが飲みたいけど高価で手が出ないって言ってたやつだ」

「はは、お父さんも相当な珈琲好きなんだな」

「うん! そっか、これがそうなんだね。確かにこれは今まで飲んだ中で一番美味しいよ」


 香り高い珈琲を楽しみながら、ここへ来たのは3度目かとしみじみと間宮さんの部屋を見渡した。

 初めて来た時は、私の昔話を聞いて貰ったんだよね。泣き疲れて寝ちゃって泊まる事になるとは思わなかったけど。

 2度目は風邪を引いた間宮さんを看病して、お粥を茜さんと3人で食べたなぁ。

 それで今回は受験勉強をみてもらう為だから、結局1度も遊びに来た事がないんだよね。


「さてと。そろそろ休憩は終わりにして、勉強を再開しましょうか? 瑞樹さん」

「――へ? 瑞樹……さん?」


 珈琲のいい香りに癒されながら、ここで起きた事を思い出していると、不意に呼ばれた自分の名前が引っかかった。

 苗字呼びはいつもの事だけど『さん』付けに違和感と懐かしさを感じたからだ。

 私はぼんやりと見渡していた顔を慌てて正面に座っている間宮さんに向けたんだけど、そこにいたのは眼鏡をかけた間宮さんだった。


「……間宮さん? 眼鏡なんてかけてどうしたの?」

「生徒にそんな呼ばれ方される覚えがありませんし、タメ口を利かれる覚えもありませんが?」


 目の前にいるのは間宮さんであって、間宮さんではなかった。

 何を言ってるのか分からないかもだけど、兎に角そうなんだ。


 いつものフランクな感じが無くて、凛とした空気を身に纏う雰囲気に懐かしさを感じる。

 今目の前にいるのは、いつもの優しい間宮さんではなく、合宿参加者の間では伝説とかで言われている、あの臨時講師の間宮先生がいた。


「間宮……先生?」

「はい」


 懐かしい表情、そして懐かしい話し方。

 私はこの人のおかげで、諦めかけていた目標と向き合う事が出来たんだ。確かに私にとって、これ以上ない先生がついてくれているんだ。こんなに心強い事はない。


「宜しくお願いします! 間宮先生」

「はい。では始めましょうか」


 それからは休憩するまでの落ちていたはずの集中力が驚くほどに回復して、間宮先生のマンツーでの講義とアドバイスのおかげで総仕上げのプランがみるみる捗っていく。

 入試の為に頑張ってきたつもりだったけど、どうしても克服しきれなかった単元を間宮先生が見事に解消してくれたのだ。


「おっと、もうこんな時間ですか」


 間宮先生が壁掛け時計に目をやってそう言って、私もハッと窓の外に目を向けると、何時の間にか真っ青な綺麗な青空がなくなっていて外は真っ暗になっていた。


「あ、あれ? 今何時ですか?」

「えーと、20時前ですね」


 という事は休憩を終えて勉強を再開してから、ぶっ通しで6時間勉強していた事になる。

 ハッキリ言って、そんな長時間勉強していた感覚なんてない。

 充実した内容を集中して受けると、こんなにも時間を忘れるものなのかと「ははっ」と笑みが零れた。


 今まで色んな勉強法を取り入れてきたけど、こんなに時間を早く感じた事はない。

 まさにstorymagicならぬmamiyamagicといったところだろうか。間宮先生にかけられた魔法は、私に圧倒的な充実感を与えてくれた。

 特殊な講義法である間宮先生の専売特許になっているstorymagicは今回使われなかった。

 ゼミでも言ってたけど、あれは英語が苦手な人を救いあげる方法であって、そうでない生徒にはあまり効果がないからだろう。

 だけど、間宮先生は通常講義でも凄かった。本当に私の頭の中にポンポンと解を染み込むようにいれてくれるのだ。

 講義が終わった後に聞いた事なんだけど、落ちていた集中力を回復させたのも間宮先生の狙い通りだったらしい。

 講義を展開するにあたって、単元の説明や訴えかけ方や、その口調。それらを意図的にリズムをつけてやると、聞いてる側はその内容に引き込まれるんだって。

 何でそんな事が出来るのか訊いたら、受験生の時にそんな事を考えながら予備校の講義を受けていたかららしい。


 何でこの人の本職が講師じゃないのか不思議に思ったのと同時に、もしかして天谷社長は間宮先生のスペックを知っていたのかもしれないと思った。

 もしそうなら、間宮先生を重要なポストを与えてでも欲しがった理由に納得がいく。

 現英語のエースと呼ばれている藤崎先生には悪いけど、あの人の講義は間宮さんの足元にも及ばない。

 勿論、わざわざそんな意地悪な事を本人に言うつもりはなくて、どちらかというとこの事は私だけが知っているんだと、優越感に浸っていたかった。


「今日はここまでにしましょうか」

「そうですね、ありがとうございました。おかげで受験前日までに何をすればいいか、ハッキリと分かりました」

「そうですか。お役に立てたのなら良かったです」


 勉強モードを解除して解放感に肩の力を抜いて壁掛け時計の針に目をやると、今度は無性に寂しさが込み上げてくる。


「瑞樹さん。夕食はどうする事になってるんですか?」


 込み上げてきた寂しさにションボリしてる私に、間宮先生が今日の夕食の事を訊いてくる。


「家で食べるなら夕方までに連絡をいれる事になってるんですけど、時間を忘れて勉強に集中してたからもう間に合わないです。だから帰りにコンビニで適当なの買って帰るつもりですけど」


「そうですか、それなら丁度よかったです。実は美味い出汁が手に入ったので、今晩はその出汁を使って水炊きをしようと思ってたんですけど、よかったら瑞樹さんもどうですか?」


 まさに願ったり叶ったりとはこの事だ。

 帰って何か作るのも面倒臭いからコンビニ弁当にするつもりだったのが、夕食が大好きなお鍋に変わる事。そしてなにより、間宮さんとまだ一緒にいられる事が私にとって嬉しい大誤算なのだから。


「いいんですか!? 嬉しいです! 私お鍋大好きなんです!」


 勿論、私にこの選択肢はこの即答一択しかありえないのだ。


「はは、それなら良かったです。それじゃ準備しますから少し待っていて下さいね」

「あ、いえ! 私にもお手伝いさせて下さい!」


 準備の為に立ち上がった間宮先生の後を追いかけようと、勉強道具を手早く片付けて私もキッチンに向かった。


 料理といっても鍋料理だから、具材を切って鍋に盛り付ける単純作業だったんだけど、それでもキッチンに一緒に並んで夕食の準備をしている事に、私の胸は躍りに踊っていた。


 2人共普段から料理をしてるから、夕食の支度に時間はかからなかった。盛り付けた鍋をキッチンのコンロである程度煮てから、クマの手で食卓に準備してあったカセットコンロの上に鍋を移してもう一煮立ちさせる。

 鍋の蓋がぐつぐつとなって湯気が出てきた所で、間宮先生が鍋の蓋を開けると、白い湯気と共に出汁のいい香りが部屋中に広がっていく。


「うわぁ! 美味しそう!」

「うん。やっぱりここの出汁は香りが違いますね」


 言って私は早速にと間宮先生のお椀と、自分のお椀に出汁と具材を取り分けて席に着いた。


「それじゃ早速いただきましょうか」

「はい!」

「「いただきます」」


 2人で声を合わせて合掌を終えると、早速取り分けたお椀にお箸を伸ばして舌鼓を打った。


「んーーー! 美味しい!」

「食材は近所のスーパーで買ってきた物ですけど、出汁がいいと不思議とお店で食べる鍋みたいに美味しくなるから不思議ですよね――あっ!」


 満足気にお鍋を食べていた間宮先生から小さな声があがって、私はお椀から間宮先生の方に顔を向けると、ゼミ仲間の間ではトレードマークになっている眼鏡が湯気で完全に真っ白に曇っていた。

 その時、眼鏡をかけっぱなしだった事に気付いたみたいで、苦笑いを浮かべながら眼鏡を外す間宮先生を見て、私は何故だかホッと安心した。


「間宮先生はここで終わりだね」

「だな。かけてる事忘れてたから、いきなり前が見えなくなってびっくりしたよ」


 眼鏡を外した事で、敬語の生徒モードからお友達モードに切り替えた私に、間宮せんせ……じゃなくて間宮さんも講師モードを解除してくれた。


 ここから先は間宮さんと私の楽しい夕食の時間だ。

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