第54話 St. Valentine's Day act 5 渡せなかったチョコレート

 2月14日 21時過ぎ。


 瑞樹はいつも通り、自室で受験本番に向けて走らせていたペンをピタリと止めた。


「もう帰ってくる頃かな」


 1人呟き、瑞樹は勢いよく椅子から立ち上がったかと思うと、着替えを済ませて1階にあるキッチンに駆け下りていく。


 リビングで寛いでいた拓郎達は、ドタドタと降りてきた娘が冷蔵庫を漁る姿に目を丸くする。


「おいおい! こんな時間から出掛けるのか?」


 既に部屋着ではない姿に、外出するのかと拓郎が声をかける。


「え? あぁ、うん。ちょっとね」


 何やらゴソゴソと紙袋を拓郎に隠そうとしたのだが、小柄な瑞樹に隠せる大きさではなかった。


「あぁ、恋する乙女は受験生でも忙しいのよねぇ」


 隠そうとした物に心当たりがあった華は、悪戯な笑みを浮かべて瑞樹を煽る。


「……え? そ、そういう事……なのか?」


 拓郎はあからさまに肩を落として、掠れそうな声で問う。

 このままでは外出の妨げになってしまうかもと判断した瑞樹は、ここで秘密兵器投入に踏み切る。


「あ、そうだ! 遅くなってごめんね。はい! 私からバレンタインチョコだよ、お父さん」


 瑞樹はまるで天使の様な笑顔で、拓郎用に用意してあった紙袋を手渡した。


「おお! 今年は受験で大変だから、志乃からのチョコはないと思ってたよ。ありがとう!」

「ふふ、そんなわけないでしょ! 今年のは自信作だから味わって食べてね」

「あぁ、そうさせてもらうよ」

「あ、それから私ちょっとだけ出掛けて来るね。すぐ近くだから心配しないで」

「あまり遅くなるんじゃないぞ」

「はーい。いってきます!」


 こういう時あまり門限に煩くない家で助かると、嬉しそうに渡したチョコタルトを食べている父を見て思う。

 だけど、それだけ信用してくれているという事だから、父の気持ちを考えると罪悪感があるのだが……。


 瑞樹はチョコが入った袋をカゴに入れて、愛車の跨り間宮のマンション目指して力強くペダルを漕ぎ始める。

 時間が時間だけに人通りが疎らの通りを進む。

 いつも使っている道は所々街灯の灯りが届かず、薄暗い場所があるから用心の為に比較的明るくて人通りの多い所を選んだのだが、その通りでも静かなものだった。

 世間がバレンタインデーと言っても、ベッドタウン周辺には何時もと変わらない静けさがあり、去年まではその静けさを当然と見てきた瑞樹だったが、今日は何だか世間に取り残されたような気がして苦笑いを浮かべた。


 やがて遠目に間宮のマンションが視界に入ってくると、瑞樹の鼓動が徐々に早くなってくる。

 不安材料は全く解消されていない状況ではあったが、受験を理由に先延ばしにしていた事すら、鼓動の早さと共に忘れている自分に我ながらどれだけ間宮の事が好きなんだよと苦笑する瑞樹。


 目の前の角を曲がれば、間宮のマンションのエントランスが見えてくる。

 マンションに近付きエントランスの灯りが瑞樹を照らす所まで近づいた時、瑞樹は慌ててブレーキを握りしめて自転車を止めた。


 マンション前の通りにどこか見覚えのある、真っ赤な車が停まっている。

 自転車を降りた瑞樹が恐る恐る車に近付くと、エントランス脇にあるレターボックスが設置されている場所に人影を見つけた。

 嫌な予感がした瑞樹であったが、それでも気になる気持ちが勝って車の側で人影を目で追っていると、その人物がエントランスから出てきて真っ直ぐこちらに向かってきた。


 こちらに近付いて来る人物は、パーカーのフードを深く被り眼鏡にマスクという完全武装した格好であったが、背丈や体つきで女性だという事はすぐに分かった。


 近付いて来る女も瑞樹に気が付いているようだが、変わらず近付く足を止めようとはしない。


「――瑞樹志乃……さん?」

「え?」


 女が目の前に来た時、自分の名前をフルネームで呼ばれて驚いた瑞樹だったが、それも一瞬の事でフードで隠れて顔が見えない女にこう返す。


「神楽優希さん……ですね」


 瑞樹が女の事をそう呼ぶと、女は被っていたフードを頭の上までずらして、眼鏡を外しマスクを顎舌まで下げて隠れていた口元の口角を上げる。


「正解!」


 言って笑みを浮かべる彼女の顔は、まさしくテレビや雑誌で見る神楽優希そのものだった。


 自分から正解を言い当てておいて、改めて目の前に立っている女性に現実感がもてない瑞樹。

 その神楽優希の口から自分の名前を呼ばれる現実感の無い現実。

 一言二言だけだが、会話が成立した現実味の無い現実。


 そしてなにより、圧倒的なカリスマ性からくる存在感に足が後退しようとする現実に、瑞樹は唇を噛んだ。


 事前に自分のライバルが神楽優希かもしれないと構えて居なければ、即刻白旗を振って逃げ出してしまったかもしれない。それほどに、目の前にいる優希の存在感に迫力があった。


「……ど、どうして私の名前を知ってるんですか?」


 気になる事は山ほどある瑞樹が、初めに訊いた事はそれだった。

 何故自分の名前を知っているのか。この返答次第でずっと知りたかった事を探る手掛かりになるかもしれないと考えたからだ。


「マネージャーから聞いたんだよ。間宮さんと仲良くしてるJKがいるってね」


 マネージャーとは茜の事を言っているのはすぐに分かった瑞樹だったが、優希のその返答で期待していた状況にならなかった事に少し落胆する色を滲ませる。


「文化祭ライブの時に色々とお世話になったんだってね。遅くなったけど、お礼をいうね」

「……いえ、別に」


 瑞樹の頭の中で最悪なシナリオが浮かび上がる。


 もしかして、これから間宮と会う予定なのかと。

 もしそうなら、ここに自分がいたら鉢合わせてしまうのではないかと。


 瑞樹は慌てて優希の背後に見えるマンションのエントランスへ、視線をずらす。


「心配しなくても、ここで間宮さんと鉢合わせって事にはならないよ」


 ニヤリと笑みを浮かべる優希に、考えている事を見透かされたと、瑞樹はムッとした顔を見せた。


「どうして間宮さんが来ないって言い切れるんですか?」

「どうしてって、ここに間宮さんがいないからだよ」


 どうやら間宮はまだ帰宅していないようだったが、それなら鉢合わせる可能性は残るはずだと、瑞樹の中に疑問が残った。


「じゃあ神楽さんも会いに来たけど、空振りだったって事ですか?」

「ふふん、その言い方だと瑞樹さんもチョコを渡しに来たクチか。まぁ、私はちょっと違うんだけどね」

「どういう意味ですか?」

「ここにいないって分かってて来たんだよ。事前に今日は出張で帰って来ないって聞いてたから」

「……え?」

「あれ? もしかして知らなかったの? サプライズ的な感じを狙ってたのかな?」


 瑞樹は図星を突かれて、言葉が詰まって何も言い返せない。


「それは駄目だよぉ! まだ高校生の瑞樹さんには分からないかもだけど、外回りの営業マンにアポなしで突撃なんてしたら空振りする確率高いんだからね!」


 言って、愉快そうに笑う優希を見て、瑞樹の中にある神楽優希のイメージがどんどん崩れていく。

 

(なにが天才アーティストだ!何が世界に通用するミュージシャンだ!何がカリスマだ!只の嫌味な女じゃないか!)


 自分の気持ちを馬鹿にされたと、瑞樹の心中は穏やかではいられなくなった。


「そうですね。まだまだ若い高校生ですから、わざわざ教えてくれてありがとうございます――先輩」


 目の前にいるのが神楽優希だと言う事など綺麗に吹き飛ばして、瑞樹も負けじと応戦を試みた。


「……へぇ。言うじゃん。あ、そうだ! 瑞樹さんって今から時間ある? パパとママに怒られちゃうかな?」


 棘がある言い回しに苛立った瑞樹の目つきが鋭くなる。


「どうしてですか?」

「私に訊きたい事があるでしょ? 私も訊きたい事あるし、チョコを渡せなかった者同士で話せないかなって。受験生だから無理にとは言わないけどね」


 確かに最大のライバルの優希に訊きたい事は山ほどある。

 だが、受験勉強の事もあるし、なによりすぐ帰ると言って出てきた手前もあると、瑞樹は少し考え込んだが、選択肢なんて1つしかないと結論付ける。


「いいですよ。家に連絡入れさせてもらえれば、私は大丈夫です」

「うん! そうこなくっちゃね! 折角だからドライブしよっか!」


 神楽優希とこうして話が出来る機会なんて、もう二度とないかもしれない。

 そう考えると、迷う余地などない瑞樹だった。

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