第40話 気持ちのケジメ

 正月休みが明けて数日が経過した朝。間宮が出勤してロビーからエレベーターで営業部のフロアに着いた時、フロアの1部が騒めいていた。

 通路を塞ぐように人だかりが出来ていて、通れないじゃないかと嫌悪していると、人だかりに交じっていた男性社員が出勤してきた間宮に気付き小走りに駆けよってきた。


「おはようございます! 間宮主任!」

「あぁ、おはよ。何だか今朝は騒がしいな」

「え? いや……だって」


 歯切れが悪い男性社員に首を傾げていると、他の連中も間宮に気付き一斉に駆け寄ってきた。


「あの! 間宮主任が開発所に配置転換されるって本当なんですか!?」


 他の連中に取り囲まれたタイミングで、話しかけてきた社員がそう問いかけた。


 そう問われた間宮は人だかりで出来ていた場所が連絡掲示板が設置されている所だと気付き、ついに辞令が降りた事を知った。


 ◇◆


 2019年初出勤の翌日、間宮達営業部隊は得意先に新年の挨拶周りに奮闘していた。


 アポを取っていた顧客回りを終えた間宮がそろそろ帰社しようとした時、スマホから着信を知らせる通知音が鳴る。

 人混みの中を移動していた間宮は着信者の名前を確認せずにスマホを耳に当てた。


「はい、間宮です」

『あけましておめでとうございます! 川島です。久しぶりですね』


 電話の相手は開発所の最年少チーフである川島だった。


「川島さん。あけましておめでとうございます。こちらこそ今年も宜しくお願います」


 思わぬ人物からの電話で、サポートで本社を訪れた時にある程度フランクに接していたはずの相手に、思わず他人行儀な敬語で対応してしまう間宮。


『今日、所長と本社に出向いて先ほど例の件の了承を得たところなんですが、間宮さんはまだお仕事中ですか?』


 年明けに本社に向かうと事前に聞かされていたのだが、仕事始め早々にこっちに来ている事に驚いた。


「いえ、今日の予定は終わったので、今から帰社しようと移動してたところです」

『そうですか。あの、もしよければ今後の話もしたいので、所長と3人で今晩どこかで軽く飲みに行きませんか?』

「そうですね、分かりました。それじゃすぐに戻りますので、少し待っていて貰えますか?」

『分かりました。では本社でお待ちしていますって、どうして堅苦しい敬語なんですか? 思わず私も釣られちゃったじゃないですか』

「あ! そういやそうだな。あはは」


 笑って誤魔化して口調を元に戻した間宮は、電話を切って小走りで駅に向かった。


 本社へ戻った間宮の視界に、ロビー脇でタブレットを操作しながら、何やら話し込んでいる2人組が写った。

 1人はビシッとスーツがとても似合う恰幅のいい50歳くらいの男と、同じくいかにも仕事がデキますという雰囲気を醸し出しているスーツ姿の若い女性だ。


「川島さん」


 間宮は見覚えのある女性にそう声を掛けながら、2人に駆け寄った。


「あ、間宮さん。お疲れ様です」


 川島は間宮に気付くと、手に持っていたタブレットをパタンと閉じて駆け寄ってくる間宮を迎えた。


「川島さんもお疲れ様。お久しぶりです」


 駆け寄った間宮は軽く会釈して川島と挨拶を済ませると、ニコニコと笑みを向けている男に目を向けた。

 視線の動きに気付いた川島は、男の隣に立って掌を男に向けて口を開く。


「間宮さん。こちらが開発所の村井所長です」


 紹介された村井はそっと間宮に手を差し出して、笑顔に深みをもたせた。


「村井です。ようやく会えたね、間宮君」

「初めまして、間宮良介です。お会いできて光栄です」


 ずっと憧れていた人物にキラキラと目を輝かせた間宮は、差し出された村井の手をグッと握り握手を交わした。


 ◆◇


「それでは新しい仲間に乾杯!」

「「乾杯」」


 挨拶を済ませた3人は、本社から近いsceneに移動して祝杯を交わした。

 3人はほぼ同時に一杯目のビールを喉に流し込み、一口目の至福を味わう。


「なるほど。川島君がこっちに戻って来てから、仕事が終わってから物足りないとぼやくわけだな。会社の近くにこんな雰囲気のいい店があるんだからね」


 村井はグラスを置いてカウンターから店の様子を見渡して、感嘆の声をあげた。


「でしょぉ! 仕事は充実してるんですけど、アフターがここと比べたらぼやきたくなるってものですよぉ!」


 口を尖らす川島を見て、村井と間宮が顔を見合わせて笑う。


「そう言って貰えて嬉しいです。ありがとうございます」


 言って、sceneのマスターである関が間宮達の前にピスタチオとチーズの盛り合わせに生ハムを置く。


「え? えっと……頼んでませんよ」


 川島はテーブルに並んだそれらを見渡して、首を傾げる。


「うん。約束通り川島さんがまた来てくれたし、何だかめでたい席みたいだしね。これは僕からのサービスって事で」


 そういえば以前2人でここに来た時にそんな事を話したなと、間宮はあの時の事を思い出した。


「ありがとうございます。1度しか来てない私の事覚えてくれてたんですね、マスター」

「勿論だよ。確かに年のせいか物覚えが悪くなってきたけど、間宮君と繋がりがあるお客さんは忘れるわけないよ」


 優しい笑みを浮かべる関に、川島は嬉しそうに飲みかけのグラスを口に着けた。


「気を遣わせてしまって申し訳ない」

「いえいえ、気にしないで下さい。それではごゆっくり」


 村井の礼にそう応えた関は、そのまま他の客の対応に向かった。

 流石はこの道のプロだ。いくら慣れ親しんだ常連といえども、交じっていい時とそうでない区別を誰にも諭さずに席を外すのだからと、改めて東京の第二の親父の格好良さに笑みを浮かべる間宮だった。


「――それで、だ。間宮君」

「はい」

「今日社長から直接許可を得たわけだけど、この件は役員会を通して辞令が降りる事になる」

「はい」

「役員会と言ったがここだけの話、名目的な意味だけでもう決定事項になっているんだよ」

「そうですか」

「もう後戻りはできないよ。ここの快適な生活を失う事になるが、後悔はないかい?」

「後悔……ですか。正直な事を言わせて頂くと、どちらを選択しても後悔する時は必ずくると思っています。ですから、後悔したとき自分で乗り越えられる方を選択したつもりです」

「どちらも後悔する……か。なるほど! いい答えだ! 正直言わせて貰えば、綺麗ごとばかり並べる奴は信用しない質でね。君と一緒に仕事をするのが一層楽しみになった! これから宜しく頼むよ」

「はい! こちらこそ、宜しくお願いします」


 お互いの考えを話し合った2人は、満足した様子で再びグラスを突き合わせた。


 ◇◆


 役員会はまだ行われていないはずだ。

 という事は出来レースだからなのか何なのかは分からないが、役員会すらすっ飛ばして辞令が降りたようだ。


 3人で飲んだ時に聞いた事だが、所長の村井と現社長は旧知の仲らしく、本社を訪れた村井の話を親身に聞いてくれたと言っていたから心配はしていなかったが、あまりの動きの早さに余計な考えが間宮の頭に過る。


(もしかして、以前から出ていた異動オファーを揉み消していた事が明るみに出て、役員達に論議する資格をはく奪した……ってのは考えすぎか?)


 理由はどうあれ、村井の人望が実らせた辞令なのだから、所長の顔に泥を塗る真似は絶対に出来ないと、改めて間宮はまだ見ぬ新天地に深い想い抱いた。


「あぁ、思ったより早く辞令が降りて驚いたけどな」


 間宮が辞令の事を肯定すると、周りに集まった社員達から驚きの声と、落胆の声が入り混じる。

 全く自覚のない事であったが、営業部はもちろん経理部の人間に至るまで間宮の人望は厚い。上の者からは期待され下の者達は間宮の背中を追いかける立ち位置にいたと言う事を、辞令騒ぎで間宮は初めて知って少し気恥しそうに口を開いた。


「と、とにかく俺の事はいいから、サボってないで仕事だ、仕事!」


 間宮は手を数回叩いて集まった社員達に発破をかけて、この騒ぎを無理矢理に収めた。


 正式に辞令が降りた事で、夕方から緊急で営業部全体会議が行われ、間宮が担当している顧客の後任を決める事になり、基本的には間宮が在籍している営業1課の人間が引き継ぐ事になった。

 だが間宮の強い要望により天谷のゼミに関してだけは営業二課の松崎が後任する事になった。


 会議を終えた間宮は後任になった担当だけを集めて、引継ぎの挨拶を行う為に全体に指示を出して打ち合わせを行う事にした。


「間宮。それ終わったら顔貸せ」


 元々出入りがあった天谷のゼミを担当する事になった松崎は、会社からすぐ近くにゼミがある為、翌日に単独で動くからと言い残して営業一課のフロアを出て行こうとした時、間宮にそう言い残した。


 間宮は松崎からの誘いを予め分かっていたかのように、松崎の方を見る事なく「19時には終わる」とだけ返すと、松崎は間宮に背を向けたまま軽く手を上げて姿を消した。


 予定通り19時に仕事を終えた間宮は一階のロビーに降りると、出入口の自動ドアの脇に松崎が立っているのが見えた。

 待たせてしまったかと小走りで松崎の元へ駆け寄る間宮だったが、松崎に近付く度にその表情が少し険しくなっているのに気付く。


「松崎! 待たせて悪いな」


 間宮はいつも通りに声をかけたのだが、松崎は「いくぞ」とだけ言って間宮の反応を待たずに自動ドアを開き会社を出た。

 松崎の様子がおかしいのは目に見えていたが、正月に宅飲みした時とはあまりにも別人のようで、間宮は何事かと首を傾げながら後を追った。


 会社を出ても間宮を気にする素振りを見せない松崎に、思う所はあるがここは黙ってスタスタと歩いていく松崎の後について行くと、つい最近川島達と飲んだsceneの前にいた。


 松崎は間宮に店の確認もせずに入り慣れた店のドアを開けて店内に入り、関がいるカウンター席に腰を下ろした。


 松崎がいつもと様子が違う事にすぐに気付いた関は、後から付いてきた間宮に目で何かあったのかと促してくるが、何が何だかという意味を込めて間宮は両肩を上げて首を左右に振った。


「いらっしゃい。何にする?」


 2人がカウンター席に着くと、関は特に話す事なく注文を訊いた。


「えっと、俺はジントニックで」


 仕事終わりはまず生ビールがお約束な2人であったが、この空気で美味いビールは飲めないと諦めたのか、間宮は最初からカクテルを注文した。


「……俺はバーボン」


 いきなりバーボンなんて言うものだから、間宮と関は顔を見合わせる。


「いきなり、そんな強い酒なんて飲んで大丈夫?」


 関が心配してそう声をかけたのだが、問題ないと突っぱねた松崎に仕方がないと僅かに溜息を漏らして、2人の飲み物を作り始めた。


 ジントニックとバーボンがカウンターに置かれてから、間宮は突き合わせようとグラスを手に持ち松崎を見たのだが、松崎はそんな間宮を視界に入れる事なく黙ってバーボンが注がれている小さなグラスを煽った。


 カンッと空になったグラスをカウンターに置く松崎。

 直後に眉間に皺を寄せて耐えるように大きな息を吐いた。

 それはそうだ。ただでさえ強いアルコール度数のバーボンを一杯目からストレートで煽ったのだから、喉が焼けように熱を帯びているはずだ。


「なぁ、本当に今日はどうしたんだ? 何か変だぞお前」


 間宮がいい加減にしろと、喉のアルコール焼けに耐えている松崎を覗き込むように声をかけると、松崎はキッと睨むような目を向けて口を開く。


「変なのはお前だ! なんだよ開発所に移動って! なんだよ新潟に引っ越すって!」


 機嫌が悪い原因はそれかと、間宮は手に持っていたジントニックを口に運んだ。

 確かに松崎にも何も相談する事なく新潟行きを決めた。

 だがそれを松崎に相談しなかったのは、間宮なりに理由があっての事だった。


 それをどう話そうかと考えを纏めていると、関が黙ってチェイサーを松崎に前に置いた。

 ヒートアップした松崎を宥める為と、単純に喉の焼けを心配したものだと察した間宮は、関の心使いに笑みを零す。


「松崎君。これ飲んで少し冷静になるといい。それに喉が焼けて辛いだろうしね」


 関はまるで子供を宥めるように促すと、松崎の反応を待たずにまた席を外した。


 松崎は差し出されたチェイサーを眺めているかと思えば、徐にグラスに注がれたミネラルウォーターを一気に喉に流し込み、深く息を吐きだした。


「……間宮、悪かった――すまん」


 松崎の謝罪「間宮はホッと安堵して、お互いのグラスが空になっている事を確認してから、今度こそと関に生ビールを2つ注文するのだった。













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