第39話 御招待 後編
「本当に大したことじゃないんだ。俺は昔から1月3日に間宮家伝統のお好み焼きを焼く事とか、珈琲をわざわざ手間のかかるサイフォンで淹れる大の珈琲好きだとか、意外と料理をするのが好きなんだとか……なんでもいいんだけど、普段の俺を知って欲しかっただけ」
優希は自分のネガティブな思考に怒りを覚えた。
間宮は以前言った事を実践してくれただけなのだ。
それなのに別れ話をされた時に言ってくれたのを、心のどこかで信じていなかった事を自覚した優希は自分自身に腹を立てて、そしてそんな自分を恥じた。
あの時正直に言っていた通り、確かに間宮の心は気になっている瑞樹という高校生に揺れているのかもしれない。
だけど、自分の事を見ていないわけではなく、ちゃんと見てくれていて、そしてちゃんと悩んでくれていたのだ。
その事実を思い知らされた優希は、そんな間宮の顔をまともに見られなくなった。
今日ここへ来られて本当に良かったと思う。
この事実を知る前までは本当に何も手に付かなくて、オフが終わった後どうやって仕事しようかと本気で悩んでいたからだ。
優希は間宮の目から視線を外して、まだ湯気が立ち込める珈琲カップを口に運ぶと、珈琲の温かさが体に染み渡る――まるでその温もりが間宮のもののように……。
「……そっか。ありがと良ちゃん」
「礼を言われる事なんてしてないって」
間宮の気持ちを嬉しく思った優希は、それならと話を続けた。
「じゃあ……さ。ただの良ちゃんを知る為に訊きたい事があるんだけど……いい?」
「うん? なに?」
「前に言ってた、良ちゃんが気になってる子の事を教えて欲しい」
言って優希は真剣な眼差しを間宮に向ける。その目は決して軽い気持ちだとか興味本位で訊いているわけでないと言っている。
「……それは前に話しただろ?」
「簡単な経緯は確かに聞いたけど、私が知りたいのはその子に何を期待しているのかとか、どんな気持ちで関わっているのかとか――それから私とその子はどう違うのか教えて欲しい」
違いを知っても真似る気はない。
自分は自分である事に誇りを持つことができたから。
それなのに真似てしまったら、また同じ事を繰り返すだけなのを知っているから。
優希はただ知りたいだけ。
そもそも彼女は私の事をライバルと認識しているのか分からないが、もし認識しているとすれば向こうはこっちの事を知っていて、自分はライバルの顔すら知らないなんてフェアじゃないと思ったのだ。
「――わかった」
優希の真剣な目に負けを認めた間宮はそう言って、傍にあったスマホを手に取って弄った画面を優希の方に向けてテーブルの置いた。
画面には元旦に駅前で撮った2人の姿が写っていた。
(……この子が――瑞樹志乃……か)
優希は食い入るように画面から目を離さない。
「下手なアイドルとか逃げ出す位に、凄く可愛い女の子だね。確かに良ちゃんが好きになるのも分かる……かな」
少し皮肉交じりにそう言うと、間宮はゆっくりと首を左右に振る。
「そうじゃなくてな。その女の子、本当にいい顔してると思わないか?」
そう問うと、間宮は瑞樹について話し始めた。
「前に少し話したと思うけど、この子が中学の時に考えられないトラウマを背負わされたんだ。内容は伏せるけど、最悪自殺を考えたっておかしくない程の事があったんだよ」
そう話す間宮の目が僅かに潤んでいたのを、優希は見逃さなかった。
「出会った頃は男を完全に拒絶していて、その反面同性の人間には自分を押し殺して敵を作らないように、必死に合わせている女の子だったんだ」
この事には優希も共感できる部分があった。
姉が優秀だった為に、親に見放されまいと必死に両親の顔色を窺っていた時期が優希にもあったからだ。
「そんな女の子がさ。少しずつだけど俺に心を開いてくれて、本当の彼女を見せてくれるにつれて、作り笑いしか出来なかった女の子の笑顔がどんどん良くなってきてさ」
瑞樹の事を話す間宮の表情を見ると、まるで瑞樹の兄のような表情になっていて、以前瑞樹の事を妹のような気持ちだと言った間宮の気持ちが理解できた。
「その笑顔を見せてくれるまでに色々あったんだよ。その1つ1つに関わってきたから、彼女の変化が自分の事のように嬉しくって」
「ごめん……自分から訊いといてなんだけど、嫉妬心が半端ないんですけど――」
本当に勝手な事を言ってる自覚がある優希であったが、これこそ女は面倒臭いと言われる理由なんだから仕方がないのだと、自分で自分に言い聞かせた。
「……でもな。それは優希だってそうなんだ」
「え? 私も?」
「あぁ。ミュージシャンたる神楽優希の自信に満ちた姿が本当に優希じゃなくて、いつも自信無さ気に生きてきた香坂優希を見せてくれて、嬉しかったんだから」
そう話す間宮の表情がさっきの瑞樹の事を話している時のような慈悲に満ちたものではなかった。
「この際だから話すけど、優希と居る時はどきどきよりも先に罪悪感みたいな気持ちがあったんだ。その罪悪感の正体が何のか知りたいのもあって、身勝手なのは百も承知で優希と離れる事にしたんだ」
申し訳なさそうな顔をする間宮であったが、目だけは優希から逸らす事なく真っ直ぐに見つめていた。
「それじゃ私を拒絶したわけじゃない……んだよね?」
「うん、それは断じて違う。優柔不断で申し訳ないけど、単純に我儘というか自己満足? 違うな。俺の傲慢からくるものなんだ」
傲慢。確かにそうだと思う優希であったが、そもそもの原因は姉である優香の存在がもたらしたものだかではない事は把握していて、こればかりは間宮本人でないと解らない心の問題なんだと飲み込む。
冷めてしまった珈琲を口に含むと、淹れたての時と比べて苦みが増していたが、今の優希にはその苦みが心地よく感じられた。
「わかった。良ちゃんを信じるよ。ちゃんと私の事も考えてくれてたのが、今日ここに呼んでくれてわかったしね」
片目を閉じてそう言う優希は、徐にソファーから立ち上がりハンガーに掛けてあったコートと一緒に掛けていた変装グッズに手を伸ばす。
「ん? なんだ? もう帰るのか?」
「うん。これ以上居たらまた暴走しちゃって、良ちゃんに怒られそうだからね」
「あ、あぁ」
大晦日の事を言っているのだろうと、間宮は苦笑いを浮かべて頬をポリポリと掻いた。
横目でそんな間宮を見てクスッと笑みを零した優希は、玄関先まで歩きブーツに足を通してから、間宮に背を向けたまま少し動きを止めて、グッと肩に力を入れたように見えたかと思えば、優希はくるりと振り返って間宮と向かい合った。
「えっと……。これだけは誤解して欲しくなんだけど、いつもこんなじゃないから」
突然の宣言に間宮は何の事を言っているのか理解できずに、黙ったまま首を傾げる。
「私、こんなに積極的に迫ったりなんて、今まで1度もした事ないから。こんな事するのは良ちゃんだけで、もし選んで貰えなくて何時か他に好きな人ができたとしても、こんな事は絶対にしないから!」
必死に目に溜まった涙が零れないようにグッと目に強さを宿す優希の体が、ふわりと温かい感触に包まれた。
「りょ、良ちゃん!?」
「……ごめんな。ありがとう」
優しく腕の中に引き入れた優希にそう言葉を落とすと、抱きしめている間宮の背中にぎゅっと両手を回して顔を胸元に埋める優希。
「……こわ……いよ……良ちゃん」
背中に回した手が震えている。
怖いという感情がどこの何を指しているのか分かっている間宮だったが、どう思考を巡らせても最適解だと思える言葉が思い浮かばなかった。
間宮は口を開かずにただ申し訳ないと気持ちを込めて優希を抱きしめる腕に力を込める。
そこまで想ってくれている嬉しさと、不安にさせてしまっている申し訳なさが複雑に入り交じり、悩んでいる事を全て放棄して優希の気持ちに応えたくなる衝動を、目をギュッと閉じて耐える事しか出来ない自分の不甲斐なさを嘆いた。
腕の中から嗚咽が漏れ始める。きっと自分の本心に対して間宮から何も反応がなかった事で、更に不安を増長させてしまったのだろう。
そう思うと腕の中で弱々しい鳴き声をあげている優希をこのままと思う度に、様々な表情をしている瑞樹の顔が間宮の頭の中を駆け巡りピクっと動く指先がそれ以上動く事はなかった。
結局何もしてあげる事が出来なかった間宮の腕の中から聞こえていた嗚咽がやがて止んで、背中に回されていた腕が解かれ埋めていた顔を離して、間宮と距離をとる優希。
「ごめん……変な事言って」
「……いや」
1度気持ちを落ち着けるように大きく深呼吸した優希は、不安気な表情を消し去って力強い目を間宮に向ける。
「あのさ。また誘ってくれる?」
「あぁ。勿論だ! 今度は……タコパかな?」
「あっはは! 粉物ばっかりじゃん!」
「ばっか、大阪人は粉モン食って大きくなったんだからな」
言うと、優希は何かを意図的に吹き飛ばすように、大袈裟に腹を抱えて大笑いした。
「ふふ、ありがとう。じゃあ、またね」
「え? 駅まで送っていくよ」
「ううん、いい。ちょっと1人になりたいから」
そう言われたら間宮には何も言う事が出来ない。
小さく手を振り、最後に笑顔を見せて優希は玄関を出て行った。
――自分の我儘で優希を酷く傷つけてしまう事は、分かっていた事だ。
だけど……だからこそ、情に流されてしまったら優希の気持ちを侮辱した事になってしまうと、出て行った玄関の1点を見つめながら唇を噛む間宮。
もうあまり時間がない。
だが急ぐ気持ちはあるが、この件に関してだけは急いでも絶対にいい結果を得る事はないと間宮は知っている。
勢いが大事だという人もいるだろうが、自分はそういうタイプではない。
間宮はこれまで自分に関わってくれた人達の顔を思い描き、しっかり考えようと改めて気持ちを引き締める。
考えて考えて考え抜いて、解に辿り着こう。
誰もいなくなったリビングを見渡して、力強く頷く間宮だった。
――こうして、間宮の2019年の新しい物語が始まった。
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