第17話 優希の気持ち 前編

 久しぶりに手に馴染んだ自宅の玄関を開けて、肩に担いだ荷物を玄関の床に降ろそうと屈んだ時「っつ!」腹部に痛みが走り思わず声が漏れた。

 顔を歪ませた間宮は痛みで一連の動作を中断して、玄関先で固まった。

 間宮が受けた盲腸の手術は、手術のうちに入らないとよくミミにする。それ自体は否定する気はない間宮だったが、どんな難易度が低い手術であっても体を傷つけて、内部を切った事には変わりはないのだ。

 体に穴を空けて、それを縫って塞いだのだから、完全に傷口が馴染むまで痛みがなくなる事はない。

 盲腸なら4日で退院と入院中にネットで調べたら、よくこの謳い文句を目にした。

 実際、間宮も例に漏れず4日で退院したのだが、完治するのが4日という意味ではなく、抜歯までが4日って意味だ。退院したといっても患部はまだかなり痛む。欠かさず痛み止めを飲んでいても、体の態勢によっては最悪の場合一瞬息が出来ない程の痛みを感じる時もあるのだ。


「……いてて」


 痛みが治まったところで、一気にリビングまで進んで荷物を投げ捨てるように下ろした間宮は、ソファーに倒れ込むように体を預けた。


「ふぅ。年内に退院出来てよかった……。ぎりぎりだったけど」


 間宮が退院したのは12月30日。

 世間は新年を迎える準備の買い物や大掃除に奮闘している時期で、裕福な階層の人間は旅先で新年を迎えようと旅立っている時期なのだろう。

 優香を失い1人になってから、間宮はそういう風習に無関心な生活を送ってきた。大掃除くらいはしていたが、大晦日に年越しそばを食べる事もなく、正月にもおせち料理を食べる事もない、いつもの日常のリズムだった。


「……今年は大掃除も……無理だな」


 患部の痛みがある状態の間宮は、年末の唯一の行事である大掃除も諦めて苦笑を浮かべながら、久しぶりに自慢の珈琲を淹れた。

 大好きな香りが部屋に立ち込めると、その香りを肺いっぱいに吸い込み、マグカップに移した珈琲を持ってテラスに出た。

 間宮の部屋は8階にあり、マンションの周辺は一戸建てが多く立ち並んでいた為、景色を遮るものがなく遠くまで見渡せる立地条件の場所だった。

 間宮はここからの景色を眺めながら、珈琲を飲む時間を大切にしていて、特に大事な考え事をする時は必ずここに来ていた。


 師走の冷たい風が間宮の顔を吹き抜ける。この風が温かくなる頃には、ここを離れているのだろう。

 その前に答えを出さないといけない事が出来て、ずっと目を逸らしてきた事に向き合わないといけなくなった。例えその先に優香との本当の別れが待っていたとしても……。


 珈琲を飲んだ口から一層白い息が舞う。

 白い湯気と共に飛んでいく息が流れていく方向を、間宮は目を細めて見つめていた。


 ◆◇


 12月31日 大晦日。


 間宮は昨日までの疲れを少しでも取る為に昼前まで睡眠をとった後、朝昼兼用の食事を摂っていた。

 普段はあまりテレビを観ない間宮だったが、大晦日という事で何となくテレビの電源を入れると、今晩行われる大晦日恒例の紅白歌合戦のドキュメント番組が放送されていた。


 番組の内容を気にせずにテレビの音をBGM代わりにして食事を進めていると、その番組で取り上げられた神楽優希の名前に間宮の動きが止まる。内容的にはデビュー当時から毎年出演オファーをだしていたこの番組に、神楽優希は何故出演しないのかというもの。勿論、今年も自体しているようで益々この内容が派手に扱われていた。

 理由に関しては神楽優希本人は勿論、事務所側からもまともなコメントがだされる事なく、世間では神楽優希は紅白には出ないというものが定着しつつあるようだった。

 素人目の感想だが、はやりプロミュージシャンなら一度はと想う舞台なのではと、確かに疑問に感じるところだ。

 とはいえ、素人があれこれ考えても仕方がない事だなと、食事を終えた間宮はテレビを消して食器をシンクに運んだ。


 リンゴ~ン♪


 食器の後片付けが終わる間際に、部屋のインターホンが鳴る。

 大晦日に誰だと怪訝な顔つきでインターホンに対応しようとモニターを覗き込むと、カメラの前にいたのは今メディアの意中の人物である神楽優希が変装フル装備で立っていた。


「ちょっと良ちゃん! 退院するならするで何で連絡くれなかったの!?」


 ロビーの自動ドアを開けて少ししてから部屋のインターホンの音と共に玄関のドアを開けた間宮に、優希は開口一番そう苦言を漏らす。

 確かに退院の日は教えていなかったが、わざわざ教える必要性を感じていなかった間宮は、優希の苦言に首を傾げた。


「言ってくれれば車で迎えに行くじゃん! 私が今オフなのは知ってたでしょ!?」

「いや、だってそんな事してもらう理由なんてないしさ」


 猛抗議する優希の迫力に圧倒されつつも、間宮は当然だと理由だけは説明した。


「良ちゃんにはなくても、私にはあるの! というわけであがるからね!」

「え? お、おい! ちょっと」


 優希は一方的に自分の気持ちを主張すると、勢いそのまま間宮の了承も取らずに部屋へ上がり込んでいく。


 制止する間宮を無視してリビングに上がり込んだ優希は、部屋を見渡しながら鞄を置いて上着や変装グッズを解除する。


「もうお昼は済ませた?」

「あ、あぁ。今洗い物を終えたとこだけど」


 言うと、優希はグイっと腕を捲り狼狽えている間宮に一言告げる。


「そう。じゃあ良ちゃんは寝室で休んでて」

「え? 何でだよ」

「今からここを掃除するから」

「――は!? い、いや、いいって! 何でそんな事してもらわないといけないんだよ!」

「入院してて大掃除出来なかったんでしょ? それに切った患部が痛くて何もする気なかったよね?」


 言われて、間宮は手術の傷がある箇所にそっと手を当てた。優希が指摘する通り、確かに傷の痛みは残っている。痛み止めが効いている時は我慢出来るのだが、効果が切れたらまだかなり痛むのだ。

 だから家の用事をするのを諦めていたのは確かだ。

 だが、だからといって優希にそんな事をしてもらう理由にはならないと断わったのだが、優希も頑として譲る気がないらしく、断る間宮を強引に寝室のベッドに追いやった。


「いい? 私が呼ぶまでそこで休んでてね!」


 言って、間宮の反論を押し切るように勢いよく寝室のドアを閉めてしまった。

 やがて物を動かす音や掃除機の音が聞こえてきた。掃除道具の在処を何で知ってるんだと疑問もあったが、これ以上断るのは逆に悪い気がした間宮は観念して、痛みが一番和らぐ体制でベッドに横になった。

 「現実味がまったくないな」と超人気ロックシンガーである神楽優希が自宅の部屋を掃除してくれている現実にそう独り言ちると、何故だか笑いが込み上げてきた。



 ――――「……ちゃん。良ちゃんってば!」


 遠くから段々と大きくなる声で呼ばれている気がして、休んでいるだけのつもりが、何時の間にか眠っていたらしく呼ぶ声に意識を覚醒させた。


「あぁ、わる――――」


 平謝りするつもりが、最後まで言い切る前に口が動かせなくなったかと思うと、目を閉じた優希の顔だけが視界を支配していた。

 つまり、優希が不意打ちに唇を重ねてきたのだ。

 突然の事に固まっている間宮の口を塞いでいた唇が、フッと息が漏れる音と共に離れていく。離れていく唇と共に大きな潤んだ瞳が離れていく。

 お互いベッドの上で優希の起こした行動は、このまま押し倒されてもおかしくない事だ。

 だが、間宮が動かしたのは優希を押し倒す為の体ではなく、ついさっきまで塞がれていた口だった。


「……なにすんだよ」


 言うと優希の瞼がピクリと反応を見せたかと思うと、一瞬だが潤んだ瞳に影を落とす。


「何ってキスしたんだよ。私が良ちゃんの事好きなの知ってるでしょ!? その私の前で隙だらけだった良ちゃんが悪いの! 以後気を付けるように!」

「お、おぉ……?」


 何だか勢いに負かされた気がした間宮は首を傾げながらも、優希の言い分を肯定してしまったのは、彼女への罪悪感からくるものだろう。

 だが、それだけだ。顔を真っ赤にしながら強気な事を言ってくる優希のそんなギャップが可愛いとは思うが、ドキドキするどころか申し訳ない気持ちにさせられるだけだった。


 そんな気持ちになる原因が何なのか――間宮にも分かっている。


「一通り掃除終わったから珈琲淹れたんだけど、飲むよね?」

「……あ、あぁ、ありがとう」


 優希に連れられて寝室からリビングへ向かった間宮は、患部を庇うような動きでソファーに体を預けた。


「かなり痛そうだね。まだ入院してた方がよかったんじゃない?」

「ん。でも麻酔が切れた直後に比べたら随分マシになったし、病室で年越しはやっぱり寂しいからな」

「まぁ気持ちは分かるけどさ。でも、無理したら傷口が開くって聞くし気を付けなよ」

「はは、分かってるよ」


 大丈夫だと言っても安心した様子を見せずに、優希は淹れたての珈琲が入ったマグカップを間宮の前に置く。


「夕食って何か準備してた?」

「いや、特には」


 そう答える間宮に、珈琲飲んだら作るから一緒に食べようと言われて、初めてもうそんな時間になっている事を知った間宮は断る理由もなく頷いた。


 手伝うと申し出た間宮だったが、病人は大人しく待つように言われてしまった為、大人しくリビングで読みかけの小説に目を落としていると、暫くしてキッチンから出汁のいい香りが漂ってきた。

 今夜は蕎麦だなと今日が大晦日だという事を、強く意識させられる香りだった。

 インスタントでもなく、店で食べる物でもない蕎麦を食べるのなんて何年ぶりだろうと物思いに耽っていると、優希がキッチンから温かそうな湯気が立ち込める器を運んできた。

 改めて出汁の香りを楽しむと、入院騒ぎで諦めていた大晦日の雰囲気を味わえて、間宮は嬉しそうに器の中にある蕎麦を見つめた。


「「いただきます」」


 2人は手を合わせて、早速と箸を蕎麦に伸ばす。

 蕎麦粉の風味と出汁の香りが鼻から抜けていく。蕎麦は蕎麦の色をしている安価な麺ではなく、本格的な蕎麦を使っている事がハッキリと分かるもので、出汁の香りも日本人で良かったと思える程に美味かった。随分と奮発した材料を準備してくれたんだなと、間宮はじっくり味合うように蕎麦を啜った。


 蕎麦を食べながら、残り僅かになった今年一年どんな事があったか楽しそうに話す優希に、間宮は相槌を打つだけで聴き手に徹した。優希からはつい最近別れてしまった雰囲気はない。

 まるでそんな出来事なんてなかったかのように、楽しそうに話していた優希の口が止まり、急に部屋に静寂が生まれるとカチャリと箸を置く音だけが響く。

 そんな不自然な静けさに違和感を覚えた間宮も箸を止めて、正面に座っている優希を見ると、さっきまではしゃいでいた優希の様子がおかしい事に気付く。

 俯いた優希の肩が微かに震えている。どうしたのかと声をかけようとした間宮に「……ごめんなさい」と掠れるような声で優希が謝ってきたのだった。




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