第9話 2人だけの時間 前編

「…………」

「どうしたの? 良ちゃん」


(さっき下り線に乗ってたのって……)


「いや、別になんでもないよ。それより今日はどうしたんだ? わざわざ電車使ってまで」

「ん? 彼氏に会うのに理由なんているの? 電車で来たのだって良ちゃんに迷惑かけないようにってだけだよ」


 優希自身も最近知った事なのだが、まだ神楽優希のプライベートを狙う連中がかなりいるらしいのだ。クリスマスライブの現場にいた大勢のファンが神楽優希のMCに共感を覚えて、またその事が拡散された事によって、あの画像の一件は収束した。

 だが、神楽優希に男の影が存在すると世間に知られたのも事実であり、応援するファンでなくとも気になるというのが世間の反応なのだ。であるなら、SNSで当然話題になっていて、自身のアカウントの盛り上げの為だけという、実にくだらない理由でつけ狙う連中がいるのだと優希から説明を受けた。


「それと電車がどう関係するんだ?」


 間宮の疑問はもっともだ。公共機関を利用すれば、当然大勢の人間の目に自分の存在を晒す事になるのだから。

 間宮の疑問に「それはね」と電車を使った訳を話す。


 その原因もやはりあの画像だった。あの時2人を撮られた画像に真っ赤なZ4が写り込んでいたせいで、優希の愛車が特定されてしまったのだ。幸いナンバーは写ってはいなかったが、真っ赤なZ4は比較目立ってしまう為、優希は電車で会いに来たと言う。

 タクシーも考えたらしいのだが、商売柄個人情報を言いふらさないとは思っていても運転手も人間だ。どこで情報を漏らしてしまうか解らないからと、予防線を張る意味でタクシーも止めたと話す。


「そうは言っても、電車なんて人目に付くんだから、すぐにバレるんじゃないか?」

「簡単な変装さえしていれば大丈夫だよ。私ってステージに立っていない時は全くオーラないらしいしね」


 指でポリポリと頬を掻きながら自虐ともとれる冗談を飛ばす優希に、クスリと笑みを零す間宮だった。


「それで? 一方的に上り線に乗せられたわけなんだけど、どこに向かってるか訊いていいか?」

「あっ、言ってなかった? 私のマンションだよ」

「……は?」

「私達付き合ってるわけだし、その……お互いの部屋に行くのって――ふ、普通でしょ?」


 サラッと格好良く誘うつもりだった優希だったが、経験の浅さから言葉の端々に緊張の色が隠せていない。


「い、いや……付き合ってるって言っても俺達は……その、まだ……さ」


 間宮も優希の緊張が移ってしまったようで、随分と歯切れの悪い返しになった。


「それは……分かってる。だけど、それでもいいから――朝まで一緒に居たいって思っちゃいけない?」


 言って、優希は間宮の手をギュッと握る。

 隣に立つ優希の伊達メガネ越しから見える上目使いの潤んだ瞳に、心臓が跳ねた間宮だったが……。


「ごめん。気持ちは嬉しいんだけど、俺はまだ優希といる事に罪悪感があって、そんな気になれないよ――ホントにごめん」


 間宮がそう誘いを断ると、正面に視線を戻した優希は溜息交じりに言う。


「ねぇ、良ちゃん。その罪悪感ってお姉ちゃんに対してだけ?」

「え? どういう意味だ?」

「そのままの意味。他にもそう感じる誰かがいるんじゃないかって思って……」

「な、何言ってんだ。優香に対してだけで、他にいるわけないだろ」

「ホント? 信じていいの?」

「あぁ……当たり前だ。ばか」

「ふふ、そっか。それならいいよ」


 言って間宮の腕に絡みつきギュッと力を込める優希。その込めた力に僅かに震えが交じっている事に間宮は気付かない。

 これが例えば優香が起こした反応ならば、間宮はきっと気が付いたはずだ。

 その事が今の間宮の気持ちを表しているのだ。


「それじゃあさ、ウチで晩御飯だけでもいいから食べて行ってよ。実はもう下ごしらえしてあるんだよね」

「用意周到だな。ん、分かった。ご馳走になるよ」

「うん、決まり! 期待しててよね!」


 それから移動の最中、今日は一日オフで朝から買い出しや準備をしていたのだと楽しそうに話す優希に、間宮は耳を傾ける。

 こうしていると、優希はプロミュージシャンの顔を一切見せない。仕事に対しての話どころか、愚痴一つ零さないのだ。

 恐らく仕事のオンオフが人並み以上に出来ていて、これが本物のプロなんだと実感する間宮。

 優希がこうして一般人に交じって電車に乗っていても、軽い変装をしているとはいえ、正体がバレないのはそういう理由もあるのかもしれない。


 電車を降りて少し歩いた所にある、とあるマンションに着くと、優希は間宮を速やかに部屋の中に案内した。


「お、お邪魔します」

「そんなに硬くならないでよって、すぐには無理か」

「はは、これは流石にな」


 予め用意されていたスリッパに足を通しながら、間宮は本音を零す。それは優希自身ではなく、招待されたこの部屋に対してだという事は聞かずとも、優希にも分かっていて苦笑いを浮かべる。


「とりあえずリビングいこ」

「あ、あぁ」


 言って案内されたリビングに入ると「うおっ!」と間宮の口から感嘆の声が漏れる。


「玄関である程度は想像してたけど、流石というか……凄い部屋だな」


 玄関だけでも十分に普通ではない家だというのは、間宮も分かってはいた。白い大理石で埋め尽くされた広い玄関からリビングへ繋がる通路だけでも、高級感というかセレブ感が溢れていたからだ。

 だが、そんな心構えをしていたにも関わらず、間宮は驚愕してしまったのだ。

 リビングだけでも優に20畳はあるだろう。部屋の中央には豪華なソファーが置かれているのだが、ソファーが置かれている場所だけ間宮達が立っている床より低い位置にある。

 ソファー周りだけ段差になっていて、見事に圧迫感を消し去っている為、ただでさえ広いリビングが更に広く感じた。

 テレビはお約束のように、恐らく量販店で展示している誰が買うのだろうと疑問に思った経験があるだろう、最大サイズの液晶テレビが豪華な大理石の柱に取り付けられていて、お茶の間ではなくシアタールームといった感じになっていた。

 圧巻だったのはリビングに入った正面の壁だ。

 いや、正確に言うと壁と呼ぶのは少し違う気がする。

 間宮が正面にみたのは一面のガラスだったのだ。

 部屋の照明が少し暗めに落とされていた為、ガラスの向こうに見える街の光がとても美しく、間宮は思わず息をのんだ。


 高級な材質で出来た大きなカウンターキッチンに、重量感のあるダイニングテーブル。その他のインテリアも優希の拘りが溢れていて、どこを見ても驚かされる空間だったのだ。


「ふふ、ありがと! 言っとくけど、ここに連れて来たのって茜さんを除いたら、良ちゃんだけなんだからね! それじゃ早速ご飯作っちゃうから、適当に寛いで待っててね」

「あ、あぁ。でも何か手伝う事があったら言ってくれよ」

「うん! ありがと」


 嬉しそうに鼻歌なんて歌いながら、キッチンへ向かう優希の後ろ姿を見送ってから、間宮は上着を脱いでソファーに腰を落とした。体をスッポリと包み込むような柔らかさで迎えてくれたソファーだったが、沈み切る前に適度に体を押し返す力を感じて単に柔らかすぎるものではなく、本当にリラックス出来る上等な座り心地だった。


 思わず「ふぅ」と息を吐き、間宮は目を閉じる。防音がしっかりと効いたこの空間には外部の音が一切入ってこない。まるでどこかの高級ホテルのスイートルームにいるような感覚と言えば、伝わるだろうか。

 音があるとすれば、少し離れたキッチンから優希が調理を始めている音だけが耳に届き、その音だけが生活感を思わせてこの場所には妙に合わない気がした。


 すると、どこからかソロピアノの演奏が優しく流れ出す。耳障りにならない程度に絞られたその音は、間宮の耳に心地よく響いた。

 待たせている事に気を利かせた優希が流しているものだろう。

 その演奏に合わせて、優希も鼻歌を歌いだす。

 トップアーティストは鼻歌も異次元の上手さで、そんな贅沢なBGMを独り占めしていた間宮は、いつしか人の家だという事を忘れてしまっていた。

 この空間とこの贅沢なBGMが優希のもてなしだと感じた間宮は、心からリラックスして閉じた目が開く事なく、いつしか眠りに落ちていた。


 ここ数か月色々な事があり、無自覚に疲労を溜め込んでしまったのだろうか。

 職場の移動の事。優希の気持ち。そして、まだあどけなさが抜けていない瑞樹への想い。

 優香を失ってから坦々と時間を過ごしてきた間宮にとって、ここ数か月に起こった様々な出来事は、決して容易に消化できるものではなかった。

 毎日が必死で何かに追われる感覚の中で生きてきたのだ。

 おかげで、1人の時以外気が抜かない生活が続き、度々居眠りをしてしまう事が増えていた。

 そんな中、こんな極上の空間に癒し効果があるピアノの演奏、とどめに神楽優希の美声を届けられて、あっさりと意識を手放してしまうのは仕方がない事と言える。


「――良ちゃん」


 遠くから呼ばれた気がした間宮は、ゆっくりと意識を覚醒させる。


「――あっ」

「起きた? 良ちゃん」


 すぐ側から聞こえてくる声に視線を移すと、間宮が眠っていたソファーの肘置きに足を組んで覗き込んでいる優希がいた。


「ん……悪い。いつの間にか寝てた」

「いいよ。少し眠って貰おうと思って、音楽流したんだしね」

「……どうして?」

「良ちゃんが疲れてるように見えたからかな。そんな時に強引に連れ出しちゃったからね。少しでも休んで欲しくて」


 驚いた。確かに疲れを感じてはいたが、誰にも悟られないようにしていた間宮にとって、それをあっさりと見抜いた優希に目を見開いた。


「鼻歌はおまけってことで!」


 言ってペロっと舌を出す優希に、こんな極上の美声をおまけと言われて「あれがおまけとか、贅沢過ぎるだろ」と苦笑いを浮かべながら上体を起こす間宮を優希はクスクスと笑みを零すのだった。


 完全に意識を覚醒させた間宮を、優希はダイニングテーブルに案内する。そこはリビングと雰囲気が異なっていて、意外な程に落ち着いるモダンな雰囲気が漂う空間になっていた。

 テーブルには所狭しと並べられたイタリア料理があった。盛り付けも綺麗で彩も良く、見た目だけでもお礼を言いたくなる程の御馳走だった。


「凄いな。どれもとても美味そうだ」

「ふふ、ありがと。あとは良ちゃんの口に合えばいいんだけど……」


 言って、優希は少し不安気に綺麗なグラスにビールを注いで間宮の前に置く。


「お腹空いたでしょ? 食べようよ」

「あぁ、いただきます」


 2人を手を合わせて、お互いのビールが注がれているグラスを合わせた。


 まずは取り分けたサラダを口に運ぶ。


(う、美味い)


 お高い有機栽培の野菜なのかと訊いてみると、普通のスーパーのしかも特売品と言う。

 そういえば野菜って切り方によって味が変わると聞いた事があるが、例えそれが本当だとしてもどう野菜を切ればこうも美味くなるのだと、間宮は感嘆の声を上げる。


 それから綺麗に盛り付けられたパスタに手を伸ばす。

 今晩はボンゴレで間宮の好物でもあった。


(これも美味い!)


 実に好みの茹で加減でモチモチとした食感ともに、たっぷりのあさりの風味とニンニクの香りが食欲をそそり、手に持ったフォークが止まらない。

 女性との食事でニンニクの匂いが一瞬気になった間宮だったが、同じ物を食べているのだからと、気にしないことにした。

 そんな事を考えられるまでには、落ち着きを取り戻せたのは、この美味い食事のおかげだろう。


 すっかり優希の料理に夢中になった間宮は、メインの肉料理に手を伸ばす。口に運んだ肉は非常にジューシーで柔らかいものだった。柔らかいといってもサシが原因での柔らかさではなく、肉質が非常にきめ細かく絶妙な焼き加減で、この柔らかさを出しているんだと多少なり料理をする間宮はそう分析した。


「……ど、どうかな」


 真剣な表情の中に不安が入り交じった複雑な顔で、そう問いかける優希の口が僅かに震えているのに気付いて、間宮はあまりの旨い料理に夢中になって感想を全く口にしていない事を自覚した。


「あ、ご、ごめん! あまりに美味いから夢中になってしまってて、感想を言うのを忘れてたよ」

「……へ? ――ぷっ! 何よそれ! 滅茶苦茶心配だったんだからね!? あははは!」

「だよな……ホントごめん。うん、本当にどれも美味いよ! 金取っていいレベルだって」

「それは言い過ぎでしょ! でも……ありがと。嬉しい」


 不安が勝り無意識に身を乗り出していた優希は、ホッと安堵して椅子に体重を戻して嬉しそうに笑った。


「それじゃ、私も食べようかな。いただきます」


 全く感想が返ってこなかった事で、ずっと食べる事なく間宮の反応を待っていた優希もようやく料理を食べ始めて、初めての2人きりの夕食の時間を迎えたのだった。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る