第8話 見たくなかった光景 

 プッと吹き出してしまうと、もう笑いを堪えきれなくなった瑞樹と岸田は盛大にスベって焦る松崎を見やって、笑い合う。

 行き来する通行人が何事かと見やるが、それも僅かな事ですぐに興味を失い歩き去っていく。

 いくら壁役の男がいたとはいえ、瑞樹が強引に引きずり込まれそうになった時、通りかかった人間が全く瑞樹達が見えなかった訳がない。

 以前、間宮とトークアプリで何気ない会話をしていた時の事を思い出した。

 間宮が言うのだ。東京は他人に興味が無さすぎると。

 大阪出身の間宮にとって、大学から東京暮らしを始めるようになって、ずっと抱いている東京の人間に対する印象だった。

 その時、瑞樹はそんな事ないと反論したのだが、ついさっき起きた事を考えると、真っ向から否定する事が出来なくなってしまった。

 日本の首都、大都会東京。

 大勢の人間がここで目まぐるしい生活を送っていくうちに、他人の事を気に掛ける余裕がなくなって、やがて冷たい街に心を凍らせられていったのだろうか……。そう考えると、少し前まで心を凍らせていた瑞樹にはシックリときたのだった。



「そんじゃ俺は帰るけど、瑞樹ちゃん達も気を付けて帰るんだぞ」


 笑い合う瑞樹達を見て空気が戻った事を確認した松崎は、乱れたワイシャツを整えて歪んだネクタイを締め直し笑みを零して、そう言って岸田の肩をポンと叩く。


「あ、はい! 助けてくれてありがとうございました。おやすみなさい」


 瑞樹が改めて松崎に礼を言うと、岸田も感謝の気持ちを込めて会釈する。そんな2人に背中を向けたまま手を軽く上げて、松崎はこの場を立ち去って行った。


「松崎さんって格好いい人だよな」

「そうだね。私もそう思うよ」


 松崎の背中を見つめながら、岸田が憧れの言葉を漏らすと、瑞樹も迷わずに肯定する。


 立ち去って小さくなっていくはずの松崎の背中が大きく見える。そんな男に岸田が憧れを抱くのは無理もないなと思った瑞樹は、そんな松崎の事が気になっている加藤の気持ちも分かるなと、笑みを零すのだった。


「さてと、俺達も帰るか。今度は絶対に逸れたりしないから」


 言って、クスクスと笑う瑞樹と駅を目指す。

 電車に乗り込んだ2人は、何度か電車を乗り継いで最後の乗り継ぎで、後はA駅に電車が停まるのを待つだけの距離まで戻ってきた。

 車内は適度に混んでいて、座席は所々に1人分のスペースがあるだけで、岸田は瑞樹に座るように促したのだが、1人で座るのは気が引けるからとドア付近で立つ事にした。


「そういえば、明日って何時位に名古屋に帰るの?」

「ん? あぁ、折角こっちに来たからついでにってのも変だけど……あ、そうだ! 瑞樹さんって明日予定ある?」

「明日? ううん。いつも通り勉強するくらいだけど?」


 瑞樹に予定がない事を確認した岸田は得意気な顔を見せて、話を続ける。


「俺、帰る前にコーチに挨拶しに行こうと思ってるんだけど、良かったら一緒に行かない?」

「挨拶? どこに挨拶に行くの?」

「K大だよ。K大!」

「え?」


 岸田は前々からスポーツ推薦を受けた大学に挨拶をしに伺おうとしていたのだが、名古屋からは距離がありトレーニングを欠かさないようにしていた為、中々時間が取れなかった。

 だが、今回東京に行く事になって前日にコーチに連絡を入れると、時間を空けておくから顔を出せと言われていたのだ。


「だからさ、事前にどんな大学か見てみるのもいいんじゃないかって思ってさ」

「……そうかもだけど、でも勝手に入っていいの?」


 突然のK大探索を持ち掛けられた瑞樹は、少し困惑した様子で岸田に確認をとる。


「大丈夫だよ! 心配なら明日朝一でコーチに確認とっておくしさ! それに……」

「それに?」


 岸田は明日も瑞樹と一緒に居たい。と言いたかった。

 だが、喉から出て行きそうな言葉を咄嗟に飲み込んで代わりの言葉を用意する。


「そ、それに目指してる大学を事前に見て回ったりしたら、K大のキャンパスを歩いてる自分を想像出来たりして、受験へのモチベーションが上がると思うんだよね」


 確かに一理あると指を顎先に当てて頷いていると、電車が瑞樹が通っているゼミがあるO駅に到着して、結構な乗客が乗り込んでくる。

 その流れに逆らう事が出来なかった瑞樹達は、反対側のドア付近まで押し流されるように移動を余儀なくされてしまった。


「瑞樹さん、大丈夫?」

「う、うん。ありがとう」


 押し流される際、岸田は咄嗟にドアと乗客の圧が瑞樹にかからないように、体を張って壁になり瑞樹の周りにスペースを作った。

 水泳で鍛えられた体は伊達ではなく、完璧に周囲の圧から瑞樹を守る事に成功したのだが、腕の長さの関係でどうしても2人の距離が接近してしまう事態になった。

 今、自分の腕の中にずっと憧れていた瑞樹がスッポリと収まっている。岸田がそれを自覚して思わずゴクリと喉を鳴らした。

 その音が聞こえたのだろう。瑞樹は怖いものから目を逸らす様にドア越しに外の景色に目をやると上り線のホームが見えた。

 ホームの景色は特に代わり映えのないオフィス街の最寄り駅らしく、スーツ姿の客が電車を待っている。


(……あれ?)


 そこで電車を待っている客達の中に、見知った男がいる事に気付いた。スーツ姿で上に黒のロングコートを羽織った男。


(間宮さん!)


 瑞樹は偶然ホームにいる間宮を見付けたのだ。

 懐かしさを感じた。考えてみれば、駅前の本屋で逃げる様に間宮の前から走り去った日以来、約一週間ぶりに見かけたのだから懐かしさを感じるのはおかしい事だ。

 だが、瑞樹にとっては、その一週間がまるで一年ぶりのような錯覚を覚えたのは、きっと別れ方をずっと気にしていたからだろう。

 腕時計に目を落とした瑞樹は、針が21時を過ぎている所を指している事を確認して、心の中で首を傾げた。

 時間的に駅にいるのなら帰宅する時間のはずなのだ。なのに、間宮はA駅がある下り線ではなく上り線のホームにいる事に、瑞樹は疑問を抱いたのだ。

 もしかしたら、仕事で何かトラブルがあって呼び出された可能性も考えたのだが、妙に落ち着きのない間宮の様子を見て抱いていた疑問が瑞樹の中で不安に変わっていく。


 瑞樹が不安気な顔つきでホームにいる間宮を目で追っていると、誰かに呼ばれたのか電車が入ってくる方向を見ていた顔が、逆の方に向きを変えて何やら話している様に見えた。瑞樹は間宮の視線の先を追うと……。

 そこには薄いグレーのダウンジャケットに赤いチェックのロングスカートが目を引く女性の姿に行き当たる。女性はニット帽を被り眼鏡をかけていたせいで、素顔がよく見えない。

 やがて女性が間宮の元に駆け寄ると、缶珈琲等ではないどこかのカフェのテイクアウト用のボトルを持っており、その一本を間宮に手渡していた。

 間宮も間宮で遠慮する素振りも見せずにボトルを受け取り、女性が話しかけている事に快く応じている。間宮と話している女性は本当に楽しそうで、ずっと間宮の目から視線を外す事がない。

 何だかそんな2人の雰囲気が、瑞樹にはまるで恋人同士に見えた。

 間宮から目が離せない。まるで金縛りにあったかのような感覚が、今の瑞樹の思考をも固まらせている。


 そこで目に何か違和感を感じたのか、僅かな時間ではあるが間宮と一緒にいる女性が眼鏡を外してレンズに息を吹きかけた時「あっ!」と瑞樹の口から驚くような声が漏れる。

 僅かに見えた女性の目元に、瑞樹の記憶の中に一致する人物がいたのだ。


「え? どうしたの? 瑞樹さん」

「…………」


 ずっと外を眺めて突然声をあげた瑞樹に、岸田が驚いた様子で声をかけるが、瑞樹からは何の反応もない。恐らく、岸田の声が全く届いていないのだろう。

 瑞樹は岸田の存在を完全に忘れて思考をフル回転させた結果、該当する人物像が完全に浮上した。


(一緒にいるのって……神楽優希?――うそ)


 瑞樹の記憶の中にいる人物。それは先日世間を騒がせた画像に写っていた女性、神楽優希だった。

 体型と横から見た立ち姿、そして何より間宮と並んでいた事で、あの画像を再現したかのように見えたのだ。


 間宮と一緒にいるのが神楽優希かもしれない。その事実が瑞樹の心を掻き毟る。

 勿論、好きな相手の隣に自分以外の女性がいる時点で誰であろうと面白くない瑞樹だが、相手が神楽優希とあれば瑞樹の中に存在するどす黒い感情の強さは計り知れないものだった。

 その主な原因は、神楽優希のライブでのあのMCだ。

 あの時は加藤とカッコいいなんて呑気に話していたが、まさかあの時の話が例え話ではなく、間宮の事を指しているのだとすれば、神楽優希はあの大勢のファンの前で堂々と告白したのに等しい行動だと言えるからだ。

 だとするならば、間宮があの場にいなかった事だけが唯一の救いだったと言えるだろう。


 ショックだった。一般人である瑞樹には、こんな大告白なんて出来るわけがない。いや、普通に想いを伝える事すら出来ていない現実に、瑞樹は神楽優希との詰めようがない大きな隔たりを痛感させられたのだ。

 以前にも似たような感情を抱いた事がある。

 その相手は藤崎だった。

 だが、間宮は誰にでも優しく接する男だからと、そのうえで自分には特別な優しさを向けてくれているのだからと、瑞樹はそう言い聞かせて心を折る事なく笑っていられたのだ。

 それはとんだ勘違いだったと思い知らされた。自分の都合のいい思い込みだったと……。いや、願望とさえ言ってもいいかもしれないと。


 夏祭りの時や、間宮の部屋で2人きりだった時、泣いている瑞樹を優しく抱きしめてくれた。優しく頭を撫でてくれた。

 ガラの悪い連中からも守ってくれた。

 文化祭の時、平田達から裏で体を張って瑞樹を、瑞樹の過去ごと守ってくれもした。

 その事実が瑞樹の中で自分は特別なんだと思い込む材料になっていたのだ。

 だが、間宮のこれまでの一連の行動は、放っておけない妹を助ける兄の様な感覚だったのかもしれないと、目の前の光景を見せつけられた瑞樹は思い直す。


 何を舞い上がっていたのだろうと、少し考えれば分かる事だったのにと、落胆の色が滲み出る。

 間宮は色々な事を経験してきた立派な大人なのだ。

 それに引き換え、自分は昔に少し嫌な事があっただけで、何年もその事を引きずっていた弱い子供だった事を、瑞樹は痛感した。

 そんな弱い子供に恋愛感情などもってくれるはずがなかったんだ。只、間宮が底なしに優しい人間だったというだけで……。

 惨めだ……こんな事になってから、痛いほどに思い知らされる。

 自分がどれだけ間宮の事が好きだったかという事に……。


 瑞樹は不思議な感覚に陥った。

 もし、間宮を諦めないといけない時が来たら、きっと周りに誰がいようと気にする事なく、大泣きすると思っていた。

 だが、現実は一滴の涙も出ない。只々、体が鉛の様に重く感じるだけ……。

 瑞樹は努めて冷静に思考を巡らせる。

 恐らくだが、まだ現実を受け入れられていない自分がいるのだと、いやそうじゃない。きっと受け入れたくないのだと、こんな現場を見せられても諦められないと抗う自分に辿り着いたのだ。


(諦めの悪い子供で……ごめんなさい)


 何時かの夜に、1人呟いた言葉。


 瑞樹の目が虚ろになるその視界の端に、上りの電車が見えてきた。これ見よがしに落胆する瑞樹は、電車が近付くにつれて視線を間宮達から外して俯く。

 瑞樹と間宮の間を電車が遮る直前、間宮は停車している下り線の瑞樹が乗っている車両に目を移したのだが、俯いてしまった瑞樹がそれを知る事はない。


 やがて上り線の電車がホームに停車して、間宮と瑞樹の空間を遮ると、それと同時に瑞樹達が乗っている電車が走り出す。

 電車が停車してたのは2分も見たない時間だっただろう。

 そんな短い時間に、瑞樹が一番見たくないものを偶然見せつけられたのだ。瑞樹の心中は誰にも察せるものではないだろう。








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