第58話 離れる心と、近づく心 後編
夕方ごろ、帰宅しようと自宅までの帰り道、昨晩の事、そして瑞樹に優香の存在を知られてしまった事を考えていた。
そもそもの話、彼女に優香の事を隠していたわけではない……。
わざわざ話す必要性を感じなかっただけだ。
それは他の連中にも言える事で、俺に婚約者がいたなんて誰も興味なんてないと思っていただけだ。
だから瑞樹が何故、優香の存在を知って沈んでいたのか……。
電話で茜が言っていた事を含めて、グルグルと頭の中で解らない事ばかり駆け巡る。
まだ風邪が治り切っていなくて、思考が鈍っているから分からないのか。
――それとも。
そんな事を悶々と考え込んでいると、いつの間にか自宅のマンションまで角を1つ曲がる所まで来ていた。
「こんな事考えてる時点で、まだ熱が下がり切ってないのかもな……。帰ってまた寝るとするかな」
独り言ちて、角を曲がってマンションが視界に入ったところで足を止めた。
マンションの前に誰か立っている。
真っ白なダウンジャケットの裾から伸びる、チェック柄のスカートが目を引く。
そのスカートから黒のタイツを纏った細い脚が白いロングブーツに収まっていた。
モコモコとしたニット帽を深被りしていて、かけている眼鏡の一部が隠れている。
薄いピンクのマフラーを顎先まで覆うように巻いているのもあって、顔の露出は極めて少なかった。
だけど、俺にはマンション前で立っているのが、瞬時に誰なのか分かった。
多くの車が走っている車道をぼんやりと眺めている彼女は、不自然な場所で立ち止まっている俺に気付いたのか、眼鏡を少し下にずらしてフレームから出てきた大きな瞳と、目が合った。
目が合った彼女はニッコリと微笑んで、ジャケットのポケットに突っ込んでいた手を抜いて、小さく振っている。
「……優希」
マンションの前にいたのは、昨日Xmasliveを行った神楽優希だった。
「こんばんは。昨日ライブ来てくれてなかったでしょ! まぁ終わってから風邪だって茜さんから聞いたけどね。もう出歩いて大丈夫なの?」
「あぁ、おかげ様で殆ど完治したよ。大事を取って今日は休み貰って、明日からは出勤するつもりだよ」
「そっかそっか! それはラッキーだったなぁ」
「ん? 俺が風邪でくたばってたのって、そんなに喜ぶとこなわけ?」
「ふふ、まぁね!」
「おいっ!」
ふと、周囲の様子が気になった。
ついこの前、ここで優希と一緒にいるところを盗撮されたからだ。
ステージを降りた自分はオーラがないから、簡単な変装していればバレる事はないって彼女が言ってたけど、どうやら本当のようで、俺達の周りを歩いている通行人達は誰1人としてこちらを気にする素振り見せない。
確かに前に撮られた時は、変装を解いていたからなんだと安堵して、辺りを見渡してみると前ここに横付けされていた真っ赤なBMWがない事に気付いた。
「あぁ、あの車なら少し離れたコインパーキングに停めてきたよ」
「……そうなんだ」
「この前は私の不注意で良ちゃんに迷惑かけてしまって、ごめんなさい」
例の画像が流出した事で、容易に画像に写っている人物が俺だと断定出来ない画像ではあったが、少なくとも世間に説明が必要な事態になってしまった事は、昨日茜から聞いていた。
優希はその事に責任を感じて、深々と頭を下げて謝罪する。
随分と軽い感じで接触してきたから、謝罪するなんて思っていなかった俺は、正直面食らってしまった。
車で乗りつけなかったのも、俺達を盗撮した人間にはあの車が優希の車だとバレている可能性を考慮しての事だった。
ライブのMCはかなり話題になったみたいで、電話で茜に聞く前から俺も今朝芸能ニュースで優希が画像の件について、何と発言したのかは知っている。そのニュースに対してコメンテーター達が好き勝手に話をしているのが不快だったから、すぐにテレビを消したんだけど。
だけど、コメンテーターの1人が言っていた事に、1つだけ気になった事があった。
それはいくらロックミュージシャンだと言い張っても、人気商売というのは変わりなく、今回の騒動は十分にスキャンダルに値するというものだ。
今回のスキャンダルで、神楽優希に好感度は下がる可能性は決して低いものではないとも言っていた。
その見解は俺も同意だった。
なのに、優希は誤魔化そうともせずに、堂々と真実をライブ中だというのにファンに話して、好きな人が出来ても世間に隠すつもりはないとキッパリ宣言したのだから、驚かないわけがなかった。
「……それを言う為に、わざわざ俺を待ってたのか?」
「まぁ、それもあるけど、もし良ちゃんの具合が良くなってたら、少し付き合って貰えないかなと思ってね」
「……付き合う? どこへ行くんだ?」
「あのねぇ! 今日は何の日か知ってる!? クリスマスだよ! クリスマス!」
「いや、それは知ってるけどさ」
駅前に出ただけで、クリスマス一色だったんだ。
いくら仕事ばかりしている俺でも、流石にそれは知っている。
「私ねぇ。この仕事始めてクリスマスにオフなのって初めてなんだよね!」
「うん……だから?」
「だからって、分かんないかなぁ……。デートだよ! クリスマスデートのお誘いだよ! OK?」
「――は?」
人差し指を俺の胸にさした優希は、少しむくれた様子でそう告げた後、頬を赤く染めた。
「恥ずかしいなら、デートなんて単語使わなきゃいいだろ」
「うっさい! クリスマスデートって響きに憧れてたんだから、別にいいじゃん!」
デートって口にすると妙に照れるのは分かる。分かるけど、俺にその単語を使う意味が分からなかった。
「憧れって……まるでクリスマスを男と過ごした事がないみたいに聞こえるぞ」
「ないよ! 今の仕事を始めてからもだけど、それ以前だってクリパはしてたけど、男と2人でクリスマスを過ごした事なんて……」
意外だった。外見は優香に似て抜群の美貌をもち、中身だってまだ大して知らない関係だけど、悪くはないはずだ。というか悪ければこんな注目されている人気芸能人が、わざわざこんな所まで来て謝罪なんてしないだろう。
更に、人気絶頂でカリスマとさえ呼ばれているトップアーティストで、天才的な才能まで持ち合わせていて、ハッキリ言って非の打ちどころがない。
そんな女性が今までクリスマスを2人で過ごした事がないというのは、俄かに信じがたいと思ってしまうのだ。
「良ちゃんもクリスマスなのに、暇してるんでしょ?」
言って、優希はぶら下げているスーパーの袋に目をやった。
「俺は色々と忙しいんだよ」
「そう? じゃあ因みにこれからのご予定は?」
「帰って空っぽの冷蔵庫に食材放り込んで、適当になんか晩飯作って風呂に入って寝るんだよ」
「良ちゃん……それは世間一般的に暇って言うんだよ?」
「うっせ!」
クスクスと可笑しそうに笑った優希が、漫画みたいに掌に拳をポンと叩く。
「そうだ! それじゃ、私が晩御飯を作ってあげるよ!」
俺が手に持っているスーパーのビニール袋を指差して、名案と言わんばかりにドヤ顔してんだけど、なんで?――それに。
「駄目だ。ほぼ完治したとはいえ、まだ部屋にウイルスが残ってるかもだし、優希にうつしたら大変だろ」
言うと、何故か優希はキョトンとした顔を見せていた。
「……なんだよ」
「いやぁ、そういう理由で拒否されるとは思ってなかったからさ」
「ん? 意味が分からないんだけど?」
「分かんない? 1人暮らしの男の部屋に行くって言ってる女を拒むのに、風邪のせいにしたんだよ? それってさ……その心配がなかったら入れてくれてた事にならない?」
言われて、初めて自分が言った事に気付いた。
確かに、今までならきっとそんな理由で断ってなかった。
なのに、優希には風邪を理由に断った……。優香がいなくなってから、ずっとそうしてきたはずなのに……。
以前、瑞樹を部屋に入れた事があったけど、あの時はずぶ濡れになった彼女を助ける為であって、決して下心があったわけじゃない……はずだ。
「分かってるよ」
「……え?」
分かってる? 何が分かってるって言うんだ?
「多分だけど、良ちゃんってお姉ちゃんがいなくなってから、ずっと誰も部屋に入れる事を拒んできたんだよね?」
「……あ、あぁ」
そうだ。その通りだ。だから分からない……なんで……俺は……。
「それはね、私の姿がお姉ちゃんとダブって見えててさ。きっとそれで抵抗がないんじゃないかな」
「っ!!」
そうか。やっぱり俺は彼女を優香とダブらせて見てしまって、その場しのぎの断り方しか出来なかったのか。
――だとしたら、俺は最低な事をしてるんだよな。
「そんな顔しなくても、分かってるってば。ていうかさ、それが私の唯一の武器なんだし」
「……え? 何て言った?」
自己嫌悪に陥っていて、優希が何て言ったのか聞き取れなかった。
「ん~ん。別に何でもないよ。あ、そうだ! じゃあさ、またドライブに付き合ってよ。それならいいでしょ?」
言って優希は、グイグイと押しを強めてきて、押し切られそうなっている自分がいた。
やっぱり断れない。いつもみたいに出来ない。
確かに優希が言うように、彼女を優香とダブらせていた事は認める。
だけど、本当にそれだけなんだろうか。それだけの事で、ずっとしてきた事が出来なくなるってのは、優香への気持ちなんてその程度だったのだろうか。
そう考えた途端、俺は急に彼女に興味が湧いてきた。
そして、試したいと思えた。
優香の事をよく知っていて、優香によく似た優希と向き合う事で、俺が前に進める可能性を。
――前に進める可能性。
今までそんな事考えた事もなかった。
今まで周囲の人間にどれだけ声をかけてもらっても、全く聞く耳を持たなかった俺が、そんな事を考えるようになったのは……。
瑞樹が原因なんだろうな。
瑞樹が自分で過去を乗り越えようとする姿を間近で見せられて、ずっと立ち止まっている事が、少し恥ずかしいと感じたから。
あんな小さな体で、あんな連中に立ち向かう彼女の勇気が、俺にそんな事を考えさせたんだ。
「分かった。付き合うよ」
なのに何故かそう言った直後、俺は後悔した。
だけど、俺の返事を聞いて本当に嬉しそうな笑顔でピョンピョン跳ねる彼女を見たら、もう訂正は出来ないと苦笑いを浮かべるしかなかった。
ちょっと距離がある所に行きたいからと、優希がすぐに出かけようと促してくるから、急いで買ってきた食材を冷蔵庫に放り込んですぐに家を出て、優希と一緒に車を停めているコインパーキングに向かった。
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